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「科学と文学」について

科学と文学についてを考えてみると、どちらもある対象への詳細な記述を必要とするもので、ある対象のある側面に対する仮説とその論理的な説明を行わなければならない。しかし、それを記述するための言語には差が存在する。数学と国語である。数学で記述された対象は厳密に定義され、ずれを許容することはないが、国語で記述された対象は変動性や揺らぎを含んでいる。そのため科学は、より閉じた、真理に近しいものを記述し、文学はより開かれた、真理の近傍を周回するような記述と言えるかもしれない。お互いは異なっているが、同時に美しさを持っている。それは、神秘性をはらんでいるからではないだろうか。対象を厳密に表す数式、人と人との関わり合いの中から人間性の核を表出させる文章など、それらは、その先に大きな可能性を持っている。それは神秘性と言えるのではないだろうか。そんな可能性に好奇心を燃やせることが人間の最も人間らしいあり方ではないだろうか。あらゆる神秘性を嗜好し、思考できる人間でありたい。

物事を深く考えているとお互いの位置するレイヤーや粒度がだんだんわからなくなる。たぶん、分類分けや切り分けが得意ではないせいだろう。だから物事のつながり、関連性の方にばかり目が向いてしまうのかもしれない。それか純粋に本質を掴みきれていないから輪郭をはっきりと与えることができないのかもしれない。


『科学と文学』 | 寺田虎彦 からの引用

実際作物の創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。こういう創作者の心理はまた同時にその作品を読む読者の心理でなければならない。ある瞬間までに読んで来たものの積分的効果が読者の頭に作用して、その結果として読者の意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光でそれを照らし出すというのでなかったら、その作品は、ともかくも読者の注意と緊張とを持続させて、最後まで引きずって行くことが困難であろう。これに反してすぐれた作家のすぐれた作品を読む時には、作家があたかも読者の「私」の心の動きや運びと全く同じものを、しかしいつでもただ一歩だけ先導しつつ進んで行くように思われるであろう。「息もつけないおもしろさ」というのは、つまり、この場合における読者の心の緊張した活動状態をさすのであろう。案を拍って快哉を叫ぶというのは、まさに求めるものを、その求める瞬間に面前に拉しきたるからこそである。

実際、たとえばすぐれた物理学者が、ある与えられた研究題目に対して独創的な実験的方法を画策して一歩一歩その探究の歩を進めて行った道筋の忠実な記録を読んで行くときの同学読者の心持ちは、自分で行きたくて、しかも一人では行きにくい所へ手を取ってぐんぐん引っぱって行かれるような気がするであろう。また理論的の論文のすぐれたものを読むときにもやはりそれと似かよった感じをすることがしばしばあるであろう。

文学も科学も結局は広義に解釈した「事実の記録」であり、その「予言」であるとすると、そういうものといわゆる「芸術」とが、どういう関係になるかという問題が起こらないわけにはゆかなくなる。換言すれば、そういう記録と予言がどうして「美」でありうるかということである。これは容易ならぬ問題である。しかし極端な自然科学的唯物論者におくめんなき所見を言わせれば、人間にとってなんらかの見地から有益であるものならば、それがその固有の功利的価値を最上に発揮されるような環境に置かれた場合には常に美である、と考えられるであろう。

随筆は論理的な論理を要求しない。論理的な矛盾があっても少しもそれが文学であることを妨げない。しかしそういう場合でも、必ず何かしら「非論理的な論理」がある。それは「夢の論理」であってもよい。そういうものが何もなければ、それは読み物にならない。
非論理的論理というのは、今の人間のまだ発見し意識し分析し記述し命名しないところの、人間の思惟の方則を意味する。これを掘り出し認識するのが未来に予想さるる広義の「学」の一つの使命である。科学も文学も等しくこの未来の「学」の最後のゴールに向かってたどたどしい歩みを続けているもののようにも思われるのである。



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