見出し画像

エッセイ | 自分の考えとそうでないもの

自分から生まれたものと周りから得たものとの境界線は曖昧で線を引こうとするほど見えなくなってしまう。身体の外からの刺激を知覚することにより、身体や精神に蓄えられた複数の記憶と呼べるものが誘起され、それらがいくつかの組み合わさることで身体的な動作および思考の構築がなされる。身体および精神に蓄えられたものは間違いなく外から来たものだが、それらがいかに組み合わさるのかは個人によって異なる。しかし組み合わせ方をそれとは知らずにどこかに蓄えていた場合、やはり収集し蓄えてきたピースの組み合わせ方自体もどこか外から調達され蓄えられたピースの1つに過ぎないならその粒度は違っていても自分以外からの調達品であることには変わりない。
もしかしたら調達の方法に個人的な差異はあるのかもしれない。外部からの刺激は人によって感じ方が異なるから。ある色の見え方やある音の聞こえ方などは、個人が持っている身体的センサーである感覚器の性能に依存する。知覚のされ方が異なれば蓄えられる情報も様々な形を持ちその組み合わせのやり方も違ってくる。こういったところで自分的な何かが形作られるのかもしれない。だが、知覚のされ方は感覚器だけに依存するのではなく言語能力など精神的な要因でも差が生じる。ある言葉を知っていれば知覚でき、知らなければノイズとして流してしまうこともある。
なぜ知っているのかを知らない事柄は多い。なぜ閃いたのか、夢に出てきたのかほとんどの場合よくわからない。自分が考えたはずの事柄が自分のものであると確実に言うことはできない。自分の頭の中にあるものだけで書いているこの文章も、自分が考えたものであるとは言えない。どこかで同じようなものを読んだのか、講義を聴講したりしたのかわからない。
きっと多くの場合、そんな疑問を持ちすぎずにすべて自分が考えたものだと振る舞った方がうまくいくのかもしれない。誰かから聞いた話やどこかで読んだ文章をすべて自分のものと捉えて進んでしまった方が、悩むよりも早くうまくいく確率が高い。本質を捉えようとする姿勢は、評価されないことが多い。それでも考えること自体には価値がある。無駄を嫌う人が見落とすのは、そういう姿勢である。遠回りに見えるやり方に真摯に向き合っていた方がいい。

いいなと思ったら応援しよう!

かえで
よろしければサポートお願いします!