みらいのSDGs?
この記事を書きだしたのは2022年3月3日。日本ではひな祭りで近所のケーキ屋さんやスーパーではひな祭りケーキやオードブルが売られていて、日本は平和だなぁと思う日です。世界情勢は危機を迎えていますが。
僕の仕事では、昨晩、歴史的な瞬間を迎えていました。それはナイロビとハイブリッドで開催されている国連環境総会において、プラスチック汚染対策における法的拘束力のある国際協定・条約の策定を進めることに決まりました。僕自身は大阪でお留守番組なのですが、UNEP同僚の仕事ぶりには脱帽です。採択瞬間直前に、インガー事務局長がフライング気味に拍手をしだしたのがUNEP職員の思いを語っています。でもこれからが僕たちの本当の出番、世界からプラスチック汚染をなくすための条約化交渉会議を裏方として、193か国の加盟国の皆さんの交渉を裏方として支えなければなりません。
思い起こせば、約10年前、前職では水俣条約の交渉会議をはじめから最後まで担当した貴重な機会に恵まれました。当時は政府関係者として国際交渉の舞台に立っていましたが、交渉を支えるUNEP職員のサポートがあったからこそ、難しい国際交渉が進んでいたことを鮮明に覚えています。今ではその職員が僕の同僚でもあり、僕も立場が政府関係者からUNEP職員へと移ったこともあり、あの表も裏も激しかったあの国際交渉の場が懐かしい日々です。
さぼっていたわけではないのですが、今回はほぼ1か月ぶりぐらいにnoteに文章を書いています。なんだかんだ目まぐるしい日々を送っているのですが、この新たな条約化に対して色々と思うところがあり、文章に残しておこう、と思っています。
その思いとは、地球環境を守るために、我々人類はどこまで国際条約や各国法律を作り続けるのか、と言う問いです。前職として政府側にいる時は、各省庁が持っている国内法や地方自治体の条例、そして国際条約があるからこそ、国際レベル、国内レベル、地方レベルで各種環境対策を実施するのが当たり前、と普通に考えていました。
常識を疑え、自分自身の考えに固執するな、と言われますが、まさしくそうではないか、と最近よく考えるようになりました、これら法規制に関しても。
そのきっかけとなったのもプラスチック汚染問題。水俣条約の時は、政府関係者だったという事もあり視野が少々狭かった、それと普段の生活では水銀含有製品は蛍光灯ぐらいしかないのでそれほど気にしていませんでした。でも、プラスチックに関しては、目にしない瞬間がないプラスチック世界で生きているので、国連職員として、そして一般市民として、日々の生活で考える瞬間が、まぁ、多いです。
前置きが長くなりましたが、今回の記事は3月15日と16日に大阪で開催されている空気のみらいEXPOのシンポジウムでの講演準備記事でもあります。今回もあれこれ考えながら、一つのストーリーを考えてい見ました。
地球三大危機からみたSDGs – 私たちに何ができるのか?
はじめに
たった1個しかない地球上に、全てが繋がっているこの地球に、全てが平等であるはずの地球に、そして、人間が作り出した格差社会に、現在、約79億人もの人間が住んでいます。
例えばここ大阪では、過去の公害の経験を克服し人間が作り出したシステムにおいて、管理された環境の中で生活を送っています。でも、同じ時代・同じ時間、飛行機で6時間も移動するとそこは別の場所です。汚染された空気、過酷な気候の中、多くの貧しい人がその日暮らしをしています。
また、ここ大阪は完全な都市化な街です。もともと自然界にあった動植物を排除し、人が良いと思って作り出しだ人工物で固めた街。人工的な自然がほぼ全てと言う感じです。でも、同じ時代・同じ時間、飛行機で8時間も移動すると、本来であれば動植物があふれ、その豊かさと共に生活していた遊牧民や農耕民族の人たちは、残念ながらその自然の豊かさと共に生きることができなくなりました。その原因は生物多様性の崩壊。食物連鎖の崩壊、とも言えるでしょう。
かつてここ大阪も公害に悩まされた街でした。公害を正直に正面から見つめることで、何十年もかけて公害を解決してきました。でも、同じ時代・同じ時間、飛行機で10時間も移動すると、環境汚染と共に生きていかなければならない大勢の人たちが居ます。日本に住んでいる私たちの使っている製品は、もしかしたら、そんな街で作られたものかもしれない。
地球はすべてつながっている、当たり前だが、それを忘れてしまう高所得国に住んでいる私たち。
気候危機、自然危機、汚染危機、それは人間が引き起した環境問題。
誰もが加害者、誰もが被害者、第三者はいない、それが環境問題。
私たちは何を考え何をするべきか?
我々は本当に地球三大危機(気候危機 自然危機 汚染危機)を理解しているのか?
地球上の全人口79億人の内、特に高所得国に住んでいる私たちは、大量生産大量消費社会から抜け出すことができません。それが持続可能でないとわかっていても。 少なくとも日本人はそれが間違っていると気が付いていると信じたいが、私たちの生活は物であふれかえっている。一度占めた味は変えられない、一度感じたものに依存する社会は変えられない、私たちが約250年間かけて作り上げてきた現代社会を変えることは困難である。でも、私たち人間は感じています、私たちが自分自身で地球を破壊し、その影響が身近にある事。
地球上に住んでいる人間の90%は汚染された空気を吸いながら生きている。たとえ、日本は規制や技術のおかげできれいな空気で生活していたとしても、地球上の大気環境は全てがつながっている。独りよがりで良いわけがない。
気候危機、自然危機、汚染危機の地球三大危機は、人間が欲望を求めて作り上げてきた人間社会のせいである。動植物はそれを全く知らない。知る由もなく苦しみ絶滅していく。そしてその影響は人間の健康にも及ぼしているのは明らかである。
環境問題は誰もが加害者であり、誰もが被害者でもある。第三者は存在しない。
気候危機、自然危機、汚染危機、これが我々が直面している地球三大危機です。なぜ我々はこの危機に直面しているのか?2022年を生きる私たちにとって、その答えは簡単です。地球上の動植物約800万種類のうち、たった1種類の我々人間が、地球を無視して、我々人間にとって良い世の中を作り上げてきたこと。無限であると思いつつけてきた資源を使い続け、自然の価値を人口の富と言う形に変換し、そのプラスの利益だけを見続けていた結果。魚が水を知らないように、我々人間もつい最近まで環境汚染を知らなかった、身近過ぎて。または、見て見ぬふりをしてきた結果、その負の影響の中でもバランスを取ろうとしている自然界の動きとして、気温上昇、その気温上昇で耐えきれなかった生物の絶滅、自然では浄化することができない有害化学物質による汚染が引き起っている、これが現状です。
環境問題は、誰もが加害者であり、誰もが被害者でもある。第三者は存在しない。
でも見方を変えると、我々人間のみが加害者であり、その他約800万種の動植物が被害者でもある、と言えるでしょう。
プラスチック素材の商品を購入し、プラスチックごみを適正に処理してもCO2が排出される。スマホの充電しているが、電気の大部分は1億年以上前に太陽エネルギーを取り込んだ化石燃料から作られ、CO2 を排出している。ステーキ1枚が目の前に出される前に、お風呂のお湯200杯分もの大量の水が消費されているのを知っていますか?あなたの日常生活の一つ一つが、環境に悪影響を与えている可能性があります。しかし、これが2022年における私たちの普通の生活です。
気候危機...:わずか70年間で世界の平均気温が1.2℃も上昇。気温は明らかに上昇しています。昨年の大阪の夏も酷暑だった。2100年の真夏の気温は45度近くにもなるらしい。その影響で協力化した自然災害が頻繁に起きているこの頃、その経済的被害は年間約40兆円。
自然危機...:地球上に生息する約800万種のうち、約100万種が今後数十年のうちに絶滅すると言われている。なお、 過去20年間に約150種が絶滅し、当たり前だが絶滅した生物は二度と戻ってこない。たった1種類のせいで。
汚染危機...:私たち人間の90%以上が汚染された空気の下で生活、その汚染コストは年間約56億ドル。そして、全人類78億人全員が毎日ゴミを出す、しかもその半分はそのまま環境中へ処分されている。廃棄物によって引き起こされる汚染コストは、年間約20億円にもなる。
10,000円の経済価値を生み出すと、1000円の汚染コストを引き起こすという皮肉な状況もある。
それでもまだ日本は非常に恵まれています。過去の公害時代、当時は臭い物には蓋をしろ社会ではありましたが、環境問題に正直に正面からぶち当たる事を始めた瞬間から、日本は変わりました。そこから半世紀以上たち、今では世界でも有数の環境管理先進国となっています。
今日のEXPOの展示会場でも、最先端の環境技術や取組みの紹介を見ることができます。身近なものの改良版や未来を見据えた技術の紹介、その発展性など、未来社会におけるグリーンテクノロジーにつながる色々なヒントが今日ここにあることを学ばせていただきました。
正直申しますと、三大地球危機に対して、日本は安心でしょう。法制度もあり、技術もあり、市民の意識も高いので、例え気温が1.5℃上昇しようが、巨大台風が直撃しようが、災害が多発しようが、何とか耐えられる国です。でもそんな国は世界中探してもほんの僅かです。日本は恵まれています、日本人もかなり恵まれすぎる社会で生活を過ごすことができています。
誰一人も取り残さない。SDGsの基本概念です。本当にグローバルなレベルにおいて、これを達成することができるのだろうか?
我々は本当の地球の姿を見ているのか?
出張で私の仕事の現場となる開発途上国の廃棄物処分場に行くと、「あのきらびやかな17色のSDGsは一体何なんだろうか」と思います。なぜか?処分場の現場の色は、灰色なんです。全ての色が混ざると灰色になりますが、まさしくそうなんです、ごみ一色なので。
世界においては、そもそも明日の生活はどうなるのか、とその日暮らしている人たちが数億人います。その人たちにとっては、地球環境がどうこう言う前に、明日、明後日、来週、来月と言う時間軸で生きていくために懸命の生活を送っています。開発途上国の処分場で資源を回収している人たちは、SDGsはもちろん知らないでしょう。SDGsど真ん中の重要なお仕事をしているにも関わらず、そして、SDGsの基本中の基本の「この世界から残されないためにも」。開発途上国でこのようなゴミを回収している人たちは、少なくとも2000〜3000万人いると言われています。この人たちの収入は、一日数百円程度。でもSDGsのど真ん中で活躍している人たちです。
例えば、今日開催されているExpoでは日本を代表するそして世界最先端の皆さんの環境技術や取組を学ぶことができます。このまま行けば、日本においては環境分野、きれいな空気という意味やゴミ管理においては、SDGsは自身を持って達成するでしょう。
でも、本当にそれだけで良いのですか?大気は全て繋がっています。日本人は空気汚染を受けていない全世界人口の10%に入っているかもしれません。国内では何だかんだ問題を抱えている日本ですが、世界的に見ればものすごく豊かで恵まれている国です。この日本だけきれいな空気を吸って生活しているからそれで良いですか?日本だけSDGsを達成した、我が社はSDGsをど真ん中において2030年には我社的にSDGsを達成することは確実である、それだけで良いですか?
ここで「はい」という人はいわゆるSDGウォッシュな人でしょう。SDGsの基本中の基本の「誰も取り残さない」を完全に抜け落ちているウォッシュな人です。
本日お越しの皆さんはSDGsを自分のビジネスとして、そして生活に中で活かされていると思いますが、残念ながらSDGウォッシュな人、ブームに乗っているだけの人、SDGsを自分自身の満足として自分の欲望に遣っていると言うのを見かける時があります。
この現状をしっかりと理解した上で、世界的にも恵まれすぎている日本人として、自分のビジネスを通して、自分の生活を通して、趣味を通して、本当に困っている人たちへ手を差し伸べる事が、真にSDGsヘ貢献していると言えるのではないでしょうか?
みらいのSDGsとは?
ではここから、SDGsに至るまでの環境分野における国際的な流れを見てみたいと思います。それを踏まえてみらいのSDGsを大胆に、個人の意見として考えて見たいと思います。
多国間の枠組みにおける環境政策は1857年のスイス、ドイツ、オーストリアの3か国が接しているボーデン湖の水資源管理がその始まりでした。世界大戦が終わるまでは、資源管理や環境管理と言った環境管理課問題に対する多国間条約というのが主たる目的となっていました。
世界大戦以降は、産業の高度感伴う環境汚染問題対策のための多国間環境条約へと発展していきました。世界大戦前に策定された多国間環境条約は約40程度、1950年から昨年まで策定された多国間環境条約は約210にも及んでいます。合計すると多国間環境条約は約250個、ものすごい数だと思いませんか?果たして世の中に250個多国間環境条約の相互関係を理解している人はいるのでしょうか?
なぜ、これほどまでに多国間環境条約が増えていったのでしょうか?このスライドに記載していますが、多国間環境条約の大きな歴史的な流れが関係します。1857年に設立された最初の多国間協定は、水資源管理を実施するための取決めが目的でした。その後、河川管理、森林管理などの、各国の産業化・経済が進むにつれて、各国の資源資源への依存度が高まり、天然資源の乱獲により資源破壊が始まったため、それらを管理するために多国間環境条約が設立されていきました。
世界大戦後、今から思えば、環境管理を完全に無視した形の経済発展・産業の高度化が突き進み、いわゆる先進国を中心に様々な環境汚染問題が浮上しました。日本では、いわゆる公害というものが欧米の国々で発生し、それが国境を越えて環境汚染をもたらすために、一か国の対策だけではその環境汚染を防ぐことができないため、次々に環境汚染問題対策のために多くの多国間環境条約が設立されていきました。
1972年は国際的な環境問題対策にとって重要な年でした。1972年6月ストックホルムで開催された、国連人間環境開発会議。これは世界初となる人間と環境に関する国連会議です。この会議において採択された宣言に基づき、同年9月の国連総会でUNEPの設立が決定されました。この1972年は、環境問題は世界共通の課題である、各国が一丸となって取り組まなければならない。また、環境問題は貧困問題と密接に関係するため、環境問題対策と貧困問題対策を合わせて実施していかなければならないことが、国際的な認識となった年でした。各国首脳のあいさつの中には、地球上どこに住んでいても環境問題から逃れることができない、人間は自然と共に生きるべきである、それを忘れてしまったのが今の我々人間社会である、と言う発言がありました。
1980年代後半から、環境問題と外交問題が直接関係するようになってきました。例えば1980年代後半に交渉会議が開催され、1992年に発効した有害廃棄物の越境移動を規制するバーゼル条約は、1970年代後半から外交問題となっていた欧米等から開発途上国への有害廃棄物投棄事件対策のために設立されています。このころから、過去のアメリカ南北戦争に見られるように、環境問題を挟んだ先進国と開発途上国の外交問題とも位置づけられるようになりました。結果として、多国間環境条約設立時には、先進国が開発途上国に対して資金等の支援を実施することが盛り込まれるようになりました。
この交渉会議を聞いていると、開発途上国は「環境汚染を引き起こした主たる責任は、環境保護を無視して経済・産業発展を進めてきた先進国にある」という主張であり、先進国は「それはわかるが、今後はその反省も踏まえて全世界で環境問題対策を実施しなければならない」、と言うことが両者の主張、かつ埋まらない溝です。
そうこうしているから、2000年のミレニアム時代に移り変わり、その風潮も変わってきました。日本もそうですが、1990年代後半は世界でも不景気の嵐に見舞われていました。私も1998年に大学卒業の年を迎えていましたが、2部学生だったこともあり就職難に直面したので、その方針を大学院進学に切り替えた、と言う経験があります。
経済悪化の状況から多くの市民が政治不信に陥ったこともあり、政治から一般市民のこころは離れていってしまったのも事実です。
でもその中で新たな動きが出てきました。国連が2000年に採択したミレニアム開発目標です。これは自主的な枠組みではありますが、それまで、国際的な環境問題や社会的問題は、その問題対策のための条約化、二国間連携による政府開発支援、国連による単発的な開発支援等が主軸でした。しかしミレニアム開発目標は、世界に共通する様々な問題を8個の最大公約数かすると共に、一般市民に受け入れやすいスローガン、文言、テーマ設定をすることで、一般市民の興味を引くことができた自主的枠組みとなりました。残念ながら目標とした2015年までに8個全ての目標を達成することはできませんでしたが、環境問題や社会的問題の一般化することに貢献し、環境問題の市民化、つまり、我々一般人が普段の生活で取組むことが、地球規模課題を解決する重要なステップである、と言う認識が世界中に広まりました。
そして、それを引き継ぐ形で2015年の国連総会で採択されたのが、そう、SDGs、17個のゴール、169個のターゲット。一人も取り残さない、それが一番のテーマ。皆さんにとって、取り残したくない人は誰ですが?日本でも身近にいると思います。その人たちを思って自分の仕事を行う、利他の気持ちを持つことの重要性を改めて認識する時代です。そしてもう一つ、人間は自然と共に生きること。もうこのフレーズは少なくとも、1972年のストックホルムで開催された人間環境会議から何百回も聞いています。しかも数多くの国際会議や環境系のEXPOでは「自然と共に生きること」が主テーマとなっています。1990年にここ大阪で開催された花と緑の国際万博の主テーマも「人間は自然と共に生きるべき」でした。
この「人間は自然と共に生きるべき」と言うのは、近代国家の中から生まれた言葉ではなく、例えばドイツの有名な哲学者、カントがその哲学書の中で「人間は生まれながらにして悪である、自然と共に生きる善に向かうことが人間の使命である」と言っているように、数多くの哲学者も長年訴えつつけている哲学的思考の重要な一つです。
多国間環境条約の国際的な流れの中で、もう一つ重要な事実があります。それは技術発展に伴う、化学物質等の低濃度分析やモニタリングが可能となったこと。そして環境汚染対策も各物質・項目別になってきたことです。30年ぐらい前は百万分の一、つまりppmレベルでのデータを追い求めていましたが、今はppbつまり十億分の1レベルのモニタリングが可能であったり、分子レベル、遺伝子レベルの生態系モニタリングが可能となっています。科学の進歩で、今までは検出不法であったことが検出可能となり、そこから汚染リスク等の分析を行うことで、より高度な環境モニタリングが可能となりました。結果として、そこから導き出される環境リスクが国際的な問題となり、超低濃度レベルにおける国際的な環境問題対策が求められる時代となっています。
身近な例で考えてみましょう。ごみの例です。皆さんが子供の頃、私と同じ世代だと思いますが、ごみは燃えるもの燃えないものの2択だけではなかったでしょうか?今は何種類ですか?私は大阪市民ですが、15種類ぐらいはあると思います。ここ30年余りで2から15種類にも増えているのです。来月からはプラスチックごみの更なる分別が求められています。これとおなじ傾向が、国際的な環境対策にも見られます。
環境汚染対策の細分化、そして低濃度におけるリスク管理化、より安全安心、そしてより環境対策の高度化が進んできていると言えます。
では、今現在で、国際的に求められている方向性はどのようなものでしょうか?大きく分けて3つです。①2030年SDGsの達成、②2050年主要国カーボンニュートラル達成、③パリ協定の最大目標値+1.5℃に抑え込む、事になります。
ここから、今後の国際的な環境対策のトレンドを考えてみたいと思います。なお、ここからは私個人の意見なので、UNEPの意見ではありませんのであしからず。
私たちは未来を創造することが大好きです。未来を考えることは楽しいですよね。学術的にも未来学と言う分野もあるように、今ある社会のありとあらゆること、特に社会の隅の隅にある小さな声を結びつけて未来を学術的に想像することが可能となっています、可能ではありますけど。
2030年SDGsは達成するかどうか、と言うのはいかがでしょうか?2030年に向けて折り返しの年となる2022年現在、169個のターゲット全て達成するには、まだまだほど遠い、と言うのが現実です。前回の2000年ミレニアム開発目標もそうでしたが、全てのターゲットを達成できなくても、環境問題の市民化を十分に遂げることができ、先進国・開発途上国関係なく、サステナブルな社会を目指すのが確たる路線になった、という事だけでも、当初の目標は達成できたと言えるかもしれませんね。
という事は2030年には今のSDGsの後継となる、Beyond SDGsか何らかの新たな国際的な自主的枠組みが作られることは間違いないと思います。その内容は?ゴールやターゲットの設定はどうなるのでしょうか?
過去の経緯からすると、ゴールは8から17に増えているのと、環境問題対策の細分化傾向から、ゴールはさらに増えるのでは、と考えるのが一般的でしょう。17からいくつに増えそうですか?2030だから30個!!かもしれませんね。
そしてBeyond SDGsの期間はどれくらいになりそうでしょうか?今のSDGsは2015年から2030年までの15年間。では次はどの程度の期間いなりそうでしょうか?仮にゴールが30個だとすると、30年?または、2050年カーボンニュートラルに合わせて20年間、とかかもしれません。または、2045年国連設立100周年に合わせて、15年かもしれませんね。
完全なる個人的な意見ですが、未来学による考え方だと、Beyond SDGsは、国連設立から100年経つ2045年に向けた、ゴール30個となるのか?と言うところでしょうか?
しかしもう一つの未来の見方があります。それは過去に振返る事。未来学アプローチで未来を語っても、その未来は本当には誰もわかりません。だからこそ、歴史学的アプローチも必要です。更に歴史学的アプローチを基本として掘り下げていくと、哲学的アプローチに集約されていきます。
なぜか?ここでもう一つ重要なことを議論したいと思います。それはこの問いです、「地球環境問題、三大地球危機の本質的な問題はなんであるか?」。
気候危機であろうと、自然危機であろうと、汚染危機であろうと、不法投棄であろうと、全ては一つの本質的な問題を解決しない限り、何も解決していないことになります。
1960年代から深刻化した日本における公害問題、様々な法制度の設立、それを教訓とした環境庁、現在の環境省の設立にも至りました。
国際レベルでは、気候危機、自然危機、汚染危機に対するための様々な多国間環境条約が設立され、国連加盟国193か国のつながりによる努力、多国間環境条約に基づいた各国法制度や対策の実施。多国間条約の数は約250個にもなります。
でも、なんです。条約の数が増えれば増えるほど、法制度が増えれば増えるほど、本当に私たちが解決しなければならない問題から遠ざかっているように感じるのは私だけでしょうか?増えれば増えるほど、別な環境問題が浮上し、さらに条約の制定、そしてまた新たな環境問題が浮上、という環境問題パラドックスに陥っていないでしょうか?
それはなぜでしょうか?地球環境問題における本質的な問題を我々人間が正面から見つめていないことです。システム化していくほど、その本質的な問題が見えなくなってきています。
では地球環境問題の本質は何でしょうか?ものすごくシンプルな本質です。
私たち人間そのもの。これが地球環境問題の本質です。
人間が為してきたことは、人間のためだけなら良い行為はたくさんありますが、それらは地球全体にとっては必ずしも良い行為とは言えませんでした。人間が行っている環境対策や環境保護は、こちらを実施すればあちらに影響を与え、あちらの対策を実施すればこちらに影響を与えるというような、常に危ういものではないだろうか?
人間が諸悪の根源と言っているのではありません、人間は人間の行為を自覚できるという理性があります。その理性に正直になり、自然の中に生かされている人間である、という事が大前提であることを再認識しなければなりません。地球環境問題を本当に解決するのであれば、私たちの人間の心を入れ替えなければなりません。人間の存在・実存として、地球環境問題を正面から正直に見ないといけません。
これらは、人間の文化が黎明期であった紀元前10000年から紀元前100年ころまでに作られた古典や哲学書を現代風に読み解くと、このような文字が浮かび上がってきます。私は国連職員であり、古典や哲学の専門家ではありませんが、色々な古典や哲学書を読めば読むほど、このような考え方がより鮮明になってきます。
この哲学的な考えからBeyond SDGsを考えると何が見えるでしょうか?キーワードは二つです。DoingからBeingへ。つまり、「すること」から「在ること」です。SDGs17個のゴールと169個のターゲットは全てすること。することが増えれば増えるほど、私たちも多忙になりますし、何等か抜け落ちることが多々あります。日常生活でもそうだと思います。急がば回れ、でも回りたいけど急ぐしかないこの現代社会。でもすればするほど、達成感はありますが、達成したにもかかわらず、気が付けば新たな問題が発生していませんか?なぜなら本質的な問題を解いていないからです。
人間の本当の意味でのBeing、人間としてこの地球上に在る事を考え、それを実行していく事が一番重要です。
2030年から国連設立から100年を迎える2045年までの15年間で人間が行うべきことは、beining、つまり自然の中で人間が在るべき姿をそのまま実施することです。300年近くかけて作り上げた近代社会をぶち壊すことは不可能ですが、2030年以降は、心を入れ替えるBeingな期間、Being なBeyond SDGsになるべきでしょう。
そのあるべき人間の心が、地球上の人間すべてのこころに刻まれたとき、それが地球環境問題が解決される瞬間となるではないでしょうか?
たった一つの地球に、全てがつながっている地球に、地球三大危機の加害者でもあり被害者でもある79億人の人間が住んでいます。79億人がそれぞれできる範囲での対策やアクションを起こす必要があります。今まで様々対策、doingをしてきましたが、地球三大危機の解決には程遠いでが現実です。
私たち人間はこの一個しかない地球に生かされている、beingが大切である、doingも大切であるがbeing を見つめなおすことが、地球三大危機を解決するための本質ではないでしょうか?
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