思いやりは勝手なモノ。
久しぶりに会った友達たちと、近況を語り合いながら一人が現況について嘆くともう一人の友人は「無責任かもしれないけど」という前置きをして、「結果としていい経験になるんじゃないかな」と、その後に励ましの言葉を伝えた。
それを聞きながら、「無責任」と言いながらも誠意ある伝え方だな、と傍らでぼんやり思っていた。
そう、思いやりは見方を変えれば非常に身勝手なもの。
本人は望んでもいないのに、こちらで勝手に相手の幸せを願ったり祈ったりしているのだ。
勝手な思いやりでも、本人の希望と一致する方向への願いであれば問題ない。
厄介なのは、思いやりをGiveする方が独自に思う「あなたにとっての幸せ」だった場合だ。
誰にでもひとつふたつ、思い当たるケースはあるのではないだろうか。
「それ、私は望んでない」ことを全力で誰かが祈ってくれたことが。
「あああ、本当にありがとう。でも・・・」と申し訳なく思ったり
「え!いやそれ要りませんけど」と憤ったり
「またそう来たか」とうんざりしたこと。
私はあります。
その都度、もやもやした気持ちになったものだけど今日の友達の「無責任かもしれないけど」という一言を聞いて
「そうか、思いやりは無責任で身勝手なものなんだ」という前提をそこはかとなく認識した。
しずしずと、その認識は五体に染みわたり「無責任で身勝手な思いやりとは、相手を思う気持ちが根底にまず有る」という原理原則がじんわりと湧き上がってきた。
そうか・・・。とこれまでもやもやした思い出が静かに見方を変え違う姿を現した。
思い出が姿を変えたのか、私が見方を変えたのかはどちらでもよかった。
話を続けている二人の友達の声を聴きながらじんわりと体に広がる温かさをだまって噛みしめた。
思っているより案外、世界は愛で満ちている。
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