偏食のすゝめ
卵焼きに昆布を入れて焼いたもの
豚肉にワインをかけて焼いたもの
自分の好きな時に好きな本を読むこと
気が済むまで外の景色を眺めること
好きなモノが明確にあってバランスなんて考えない偏愛。
今、この偏った愛情を心から堪能している。
4月の自粛期間から、いや実はそのもっと前から誰もが「この先どうなるか分からない」と思ったように私も「どうしたものか」と思い悩んだ一人。
いつ、どこで自分も感染するかわからない。ネットの情報ではあるけれど感染後の状況もなんとなく読めてきた(相当面倒くさそうだ)。
さて自分はこの先どうするか。と考えた時、我慢することをやめた。
そしたら、だいぶ楽になった。
きっかけはスリッパだった。
家で過ごす時間が長くなるにつれて自分が好きじゃないもの、心地よくないものが負担。居ても立っても居られないほどに。
このスリッパ、なんとなくで使っていたけど履き心地がよくないな・・・テンションが上がらない。暑くなる季節だしさらっとした素材とか、先の開いたデザインのものが欲しいな。
そう思って思い切ってまだ使えるスリッパを捨てて新しいものを買い直してみた。
自分が好きな、これ履きたい!と思うものを。
スリッパ捨てるのに思い切りって必要なの?という点に関して、私はかなりのけちんぼうで使えるものはとことんまで使う。その上、誰かがプレゼントしてくれたものだとしたら申し訳なさも手伝い、良心の呵責に耐えられなくてモヤつく気持ちのまま所持し続けてしまう。
今、考えるとだいぶ不健康な思い込み。
それを自分の「好き・嫌い」という判断基準で軽々しく物を捨て、新たに購入することはそれなりに勇気のいる仕事だった。
スリッパを買い替えると想像以上に気持ちがスッキリとした。毎日気分よく家の中で生活できる。
ほんの些細なことなのに、毎日が心地よく、自分を大事にしている自分がもっと好きになる。
自分で自分に、こんなにも制限をかけていたのだな。とこれまでの阿呆な自分を恨んだ。
スリッパを皮切りに、いろいろなものに対して我慢することをやめた。
物理的・現実的にどうこうしたという実績はもはや思い出せないくらい些細なことなのだけど、気持ちの上で自分に我慢しないことを許可するとそれだけでがくっと心持が変わりその心理状態でいること自体に安心と感謝を感じるようになった。
いつだって自分の思うように、自由に選択できる。
好き・嫌いで判断していい。
偏愛はともすれば協調性がない、一般的に見て適合できないこともあるかもしれない。
でもその前にまずは自分を満たすことなんだ。
そう思った時、おばあちゃんの曲がった腰を思い出した。
本来であればまっすぐだった腰は長い家事・育児・農作業で年月とともにゆっくりと曲がっていき、いつしか曲がった状態が常になった。
それ以外にも節くれだった指、曲がった腰、刻まれたしわ、どれも「本来の姿」から少しずつ離れていった形かもしれないけど、どれもおばあちゃんを構成するもので愛おしかった。
おばあちゃんはしわができたからってエステに行ったりしない。あるがままにしわをしわの状態で刻ませておく。
長い年月とともにおばあちゃんが認めたものでできているおばあちゃんを心から愛おしく思った。
自分に自由を許すと他人の自由も認められるようになる。
先日お会いした人が時間が経つにつれつまらなそうに、早く帰りたそうにしているのを見てこれまでの私であれば「私、つまらなかったかな?」を自分を卑下する見方をしていたけれど「ああ、この人はつまらないから早く帰りたいんだな」と個人の自由な選択をありのままに認めることができた。
この先どうなるか分からない、予測不能は状況はたくさんの人に向き合う時間をもたらしたけど、結果良い答えや自分にとってのベストを見いたすことができたんじゃないかな。
本来はいつだってこの先どうなるか分からない状態だし逆にいうなら先のことは自分で選択もできる。
自分はどうありたいか?
自分を満たすにはどうしたらいいか?
自分は何が好きなのか?
自分にとっての偏愛は思いのほか自分を満たす。
誰になんて言われていもいい、自分なりの偏愛を尊重していたい。