天啓はある日突然に
前触れもなく頭の中に何らかの思いがよぎる瞬間がある。
ひらめきとか、アイデアのような言葉で表現されるアレ。
先日、私の場合は仕事で訪問した客先にて突然蘇った思い出があった。
量子力学で説明される「見る人」の存在と「見られる人」との関係性が好きだ。
このnoteにも同じものを感じている。
もともとはどこにも・誰にも言えない気持ちを吐き出す場所として書き出したこのnote、(すみません←なんとなく謝る)心情を正直に書き連ねることは想像以上に気持ちを楽にした。付きものが落ちて、体が軽くなる感覚がある程度に。
表面化するだけでもそれほどの効果があったけれど、より重要だったのは「読んでくれる人がいる」という事実。
この「読む人」の存在により「読まれる人」である私の存在が明確に浮き彫りになる。
それは取りも直さずどこにも行き場のなかったぼんやりとした気体のような自分の心情が形をもって現れるということだった。
形を持つとその存在はどうなるのか?肥大化し私を押しつぶすのかと思いきやさらさらと私の中からさようならとでも言わんばかりに出て行こうとする。
もちろん、まだ根深く残っているものもある。想像だけど、その思いは言語化が足りなかったか、形状を変えて新しい言語化の表現を待っている気がする。
そうして私は不要な付きものをさらさらと放出して身軽になっていった。
面白いのは、「読む人」は人数の多さではなくだた存在するという意味付けだけが必要なのだということ。
たくさんの人に読まれたいわけではない。そう思う人はまた別の目的があるはず。
いずれにせよ、読んでくださっているみなさんのおかげでちょっとずつ私は気持ちを軽くしていっている。
前置きが長くなったけれど、そう言った経緯のおかげで身軽になると不思議なことに直観が冴えてくる。
「余分なモノ=余分な価値観」だったようにも思えるのだけど、余分なものを捨てていくと本能みたいなものが鋭敏になってくるのかもしれない。
些細なキーワードを見逃さないようになってくる。
前触れもなく頭の中に何らかの思いがよぎる瞬間、それは客先での業務中に唐突にやってきた。
ヒントやアイデアといった素敵なひらめきではなく、昔の思い出が、それも連続して2つぽこぽこと急に頭の中によみがえった。
別に忘れていたわけでもなく、「そういったことあったよね」程度に覚えている思い出だった。
幼稚園くらいの思い出と、小学校の体育館での思い出。
思い出の何がひらめきなのかというと、これまで捉えていた角度とは全く違った見方でそれらの思い出を理解することができた、ということ。
例えば、これまでは「悲しい」感情を持った思い出だったものが角度を変えて「嬉しい」思い出に変わったような角度の変え方。
「あ、そうだったんだ!」みたいな知っている思い出だけど全く違う思い出に変わるような衝撃があった。
新しい発見のような気付きは捕まえようとしてもするすると逃げてしまう。
伸ばした手のひらに残らなかった代わりに必死に輪郭を記憶に刻み付ける。
輪郭をなぞるごとにじっくりと体感を思い出せるように。
つまり、突如ひらめいた思い出を感覚は再現できないとしても「思い出」のストーリーを何度も何度も繰り返し巻き戻して動画のように眺めたのだ。
実態を持たない殻だけになったような思い出を何度もなぞることは感覚が取り戻せなくてもじんわりと胸が温まるようだった。ただただ、視点の変化が起きたことが嬉しかった。
今月ももう終わる。
このひらめきがやってきたのは月の初めだった。
毎日とにかく忙しくて、瞬きをしている間に息を吸う間に1日が終わっていくようだったけど、月初にはかねてより決めていたようにだらだらできた日もあった。(ように思う。すでにおぼろげ)
このだらだら期間もひらめきがやってくるのによいポイントだったようにも思う。
自分が納得いくまで頭を空っぽにして自分の思考を追いやってただただ、感覚に正直になる期間。
今となっては何がどういう因果で天啓のようにひらめきがやってきたのかはわからないけど、寄せて返す波のような怒涛の6月でした。
(それも、やや激しめの波)