かなわない人がみぢかにいること
お嫁ちゃんと結婚して救われたという記事を書いた。
救われたとはどういうことなのか具体的に考えてみた。
それはいつでも弱くなれるということだと思う。
弱くなれることがなぜ強いのか。
世間では強いことはいいことだと思われている。
強い、上手い、速い。そういうことが評価される。
でも、本当に強い人はすっと弱くなる。
それは目に見える強さ以外に支えがあるからだ。
強さしか支えがない人は弱くなることを恐れる、弱く見られることを嫌う。
少しでも「舐められた」と感じると激しく反撃する。
お嫁ちゃんと出会う前の私にはそういうところがあった。
「負けたくない」「弱さを見せたくない」「舐められたくない」
しかし、事実として私は弱い。この理想と現実のずれをこじらせていた。
お嫁ちゃんと出会わなかったら、よい方向には行かなかっただろう。
お嫁ちゃんと出会ったことで私は弱くなれた。
お嫁ちゃんの前では弱くなれるし、弱い自分を見せられる。
私はお嫁ちゃんの前では気が緩むのか、ついおならをしてしまう。
お嫁ちゃんは「くさい!」とは言うけれど、笑ってくれる。
誰かに舐められても、馬鹿にされても、弱くてもいい。
それ以上に守るべきものがあるからだ。
高齢男性(と言い切ってしまうけれど)が大変なことになるのは、身近にかなわない人がいなくなることだと思う。
上司、先輩、先生といえる人はいなくなり、奥さんも子どもも下に見て、自分はこの家で一番えらいんだ!というような人は大変だと思う。
介護してくれる人もお医者さんも年下になってくる。健康で理性が働いているならいいけれど、体調を崩して理性が働かなくなると「若造が偉そうに!」という気持ちが出てくる。
私がちょっとボケてきても、お嫁ちゃんに「何やってるの!」と叱られたら素直に言うことを聞いてしまうと思う。
そういう意味で私は救われている。
いただいたサポートは明日の食費に使わせていただきます。だが、お前のために食事は作らない。