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mid90s

映画の中盤に、『ギャップ』を飛び越えるシーンがある。建物にぽっかりと空いた隙間を飛び越える行為には、いったいどんな意味があるのか。『ギャップ』は何を意味しているのか。

この映画で語られる『ギャップ』とは、それぞれの子どもたちが抱えている「孤独」なのではないだろうか。孤独は暗くて深くて、大きくて、怖い。そこに向かっていかなければいけない、越えなければいけない。落ちないようにしなければいけない。

スティーヴィーは確かに孤独を感じていたかもしれない。けれどもそれは、自分で創り出した孤独だった。自分の人生を見ないようにして、避けるようにして、そうして創り出した孤独だった。その孤独は、おそらく他のスケーターのそれとは違う。大きなギャップがある。

彼らとスティーヴィーとの決定的な違い、それは気にかけてくれる人がいる、ということだ。息子たちから見ればどうしようもない「クソ」女なのかもしれない母親も、スティーヴィーを理解しようと、守ろうとする姿勢があり、それをレイは「マジメ」だと皮肉めいて言ったけれど、つまりそのくらい真剣だということを感じ取っていた。

暴力をふるっていた兄も、街でのいざこざを機に、弟への意識が変わる。弟に昔の母親の様子を話したとき、弟は母親をためらいもなく「クソ」だと言った。何かが変わったことが明白になった瞬間のようだった。


現実がどれほど残酷で悲惨であっても、スケートをしている時は愉快になれる。別の世界へ行ける。希望がある。最悪な人生を忘れられる。そうすることでしか生きられない、現実がある。人生がある。その「マジメ」さは、そういう世界に生きる人にしかわからない。共有も、共感もできないものなのかもしれない。

だからスティーヴィーは去らなければいけなかった。

たとえば、僕は僕なりに苦しんでいると言ったとして、それが一体何になるだろう?

だれにも自分が生まれてくる場所を選べないように、そのどうしようもない運命に従って、闘うしかない。自分のいる世界で闘うしかない。


レイの言葉は優しい。
「Are you OK?(大丈夫か?)」
大丈夫だと強がらせてくれる。本当はどんなに痛くて苦しくて辛くても、大丈夫だと言わせてくれる。そのひと言で、どれほど労りと慰めを感じ、孤独をすくい上げてもらえたとしても、強がりで終わらせてくれる優しさがある。


スティーヴィーはずっと「わからない」まま。貧困を知り、酒やタバコ、女遊びを知ったあとで、それでもまだ、人種問題が「わからない」でいたときとそう変わりない。それはきっと、頭で理解することとは別の「わかる」にならないからではないだろうか。「わからない」スティーヴィーには、スケートボードは「必要ない」のである。

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