遠出【短編小説】

 上京してからは新しい環境に慣れるのに精一杯で、地元の事を思い出す機会が無かった。東京の大学に入れば何か変わるはずだろうという理由の無い希望のようなものをずっと抱いていたが、別にそんなことは無かった。一般的な大学生と比べると少し短いが、それでも長い夏休みに俺は時間を持て余していた。バイトで貯めた貯金には全く手を付けていないし、特に趣味も無い。家では少し前の映画や旬のドラマ・アニメをサブスクで観るのが殆どだったが、それにも飽きた。
そんな日の深夜、布団の上に寝転がりながら歯を磨き、床に就く準備に入っていると、メッセージアプリの通知音が鳴った。この時間にメッセージを送ってくるような相手に心当たりは無い。何かしらの公式アカウントだろうと思い、画面を見るとそこには地元の友人の名前があった。彼曰く、自分はお盆に帰省するから同じ期間に帰省しないか、ということだ。同じく上京して就職した彼とは最初こそ毎日の様に連絡を取り合っていたが、互いに学業と仕事に追われていたため、連絡をしなくなっていき、ひと月が経つ頃にはもう彼の存在を忘れていた。味気ない日常に退屈していたが、そのメッセージを見ると彼の記憶が溢れるように頭を巡った。俺は彼に了承すると、すぐに薄手の毛布を身体に掛けて目を閉じた。その日は珍しくすぐに眠れたのを覚えている。
シフトの件でバイト先の店長とそれなりに揉めたが、結局帰省出来ることとなった。たいして物の入っていないリュックサックを席上の荷物棚に置くと、列車に乗る直前に買った麦茶を一口飲んだ。喉の渇きを満たすと、特にやることも無いので俺はイヤホンを荷物から取り出して音楽を聞き始めた。車窓の外の景色から段々とビルの数が少なくなっていき、列車の客も同様に少なくなっていくにつれて、段々と眠気が強くなっていった。入学からぎっしりと詰め込まれたカリキュラムととっつきがたい課題に追われていたのだから、俺は気をずっと張り詰めていたのだろう。うたた寝を繰り返し、聞いているはずの曲がすぐに変わる不思議な感覚と心地良さに包まれながら、俺の意識は列車の走行音と共に消えて行った。次に俺が目を覚ましたのは、それからほぼ三時間後だった。曲のプレイリストの進み具合から察するに、それは間違いないだろう。イヤホンを荷物に仕舞い、僅かに底に残った麦茶を飲み干すと、熱の籠った座席から外を眺めた。寝起きで働かない頭も、窓の外を見ていると徐々に元に戻っていった。
列車が駅に着くと、荷物を肩に担いで駅に降りた。時刻は到着予定の時刻よりも二十分も早い。自販機で缶コーヒーを買うと、思っていたよりも甘かったそれを啜る様に飲んだ。中身の入っていない缶を両手で持ち、汗ばんだ手を冷やしながら改札口へ向かった。母が駅の外で待っているはずだ。缶をゴミ箱に入れて、改札口を駆け足で通ると見覚えのある車が遠くに停まっているのが見えた。車に近づき、運転席側に回ると窓をノックした。携帯でドラマを見ていた母は、俺の姿を見ると驚いたのか少しの間口をぽかんと開けていた。その後思い出したかのように口角を上げて、俺の名前を呼んだ。
「ただいま」
助手席に座った俺は母に言うと、荷物を後部座席に置いた。我が家は駅からそう遠くない住宅街にある。片道半時間も掛からない。矢継ぎ早に母から質問の雨を浴びせられるが、俺の味気ない大学生活には語れるだけのエピソードは少なく、ただバイトや学業の苦労話を話すだけだ。俺が教授の滑舌の悪さを熱弁していると、友人の家の前を通った。家の前には車が数台停まっている事から、親戚が訪れているのだろう。
「俊介もう帰って来てる?」
「昼にはもう帰って来てたね。今は親戚も来てるみたいだし、賑やかそう。」
我が家に着き、広々とした駐輪場に車を停めると、石畳の上を歩いて家の中に入った。一人で住むには少し広い我が家は、どこか寒く思える。
「兄ちゃん達来ないんだね。」
「正月以来帰って来ないんだ。まだ十歳だっていうのに智樹の夏期講習がどうたらって、教育ママって奴かね。」
年の離れた兄とその家族は、母と義姉の不仲からこの家に来る事は殆どない。俺も思うところが無いわけではないが、別に俺が何かを言う必要も無いだろう。父親の遺影に線香を立てると、俺はリビングのソファに寝転びながら携帯を弄っていた。友人に家に着いた事を知らせると、既読がすぐに付いた。暇で携帯を弄っていたのだろう。
『お前の家いっていい?』
思いがけない返事に動揺し、身を起こすとそのまま彼に理由を問う。
『説明めんどい。あとで』
俺は何故か理由をはぐらかした彼に家に来る事をとりあえず許可した。リビングで彼の事を何分か待っていると、家のチャイムが鳴った。扉を開けると、短パン姿の男がいた。酒を飲んでいるのか、顔は茹で蛸の様に赤い。
「お前変わってないな」
「そりゃ半年も経ってないからな。」
短パン姿の男、俊介は髪を切って短髪にした事以外は最後に見たときと変わっていない。上司に対する不満やらを度々伝えてきたが、言うほどストレスを感じている訳では無いようだ。
「仕事はどう?」
「まあ慣れてきたよ。上司は無茶ぶりしてくるけど色々奢ってくれるし、悪くないんじゃねって思い始めてきた。」
「酒を無理やり飲ませてくる親戚よりはマシみたいだな。」
「間違いない。ここで話すのもアレだし、お前の部屋上がってもいいか?」
「うちのお母さんも喜ぶよ。」
受験生になる前は、よく放課後に互いの部屋で遊んでいた。愛想良く母に挨拶した俊介と共に、二階の俺の部屋に上がった。昔と変わらない部屋だが、よく母が掃除しているのか昔よりも綺麗に見える。俺は椅子に座り、俊介は俺のベッドに腰かけた。そのままボーナスの使い道や大学のサークルの話をしていると、彼は思い出したかのようにポケットから写真を何枚か取り出した。いずれもどこか見覚えのある一軒家の外観を撮った写真のようだ。
「何の写真?」
「この住宅街の家の写真。ちなみにお前これ知ってる?」
彼が見せてきた携帯の画面には、SNSのアカウントのスクリーンショットが写っている。アカウント名は「イヴ」で、アイコンは初期設定のままだ。プロフィールには同様に設定されていない、どこか不気味なアカウントだ。しかし誰もフォローもしていないにも関わらず、フォロワーは三千人以上もいる。
「知らない。闇バイトとかそんな感じ?」
「お前も知らないか。説明が難しいけど、見てもらった方が早い。」
彼はそのアカウントの投稿を一つ一つをスクリーンショットして保存している様だ。二十枚くらいの投稿には動画と写真が一つずつあり、それ以外は文章による投稿の様だ。俊介はそのまま画面をタップして十秒程度の動画を俺に見せてきた。動画の中ではアカウント主の家の庭と思われる場所で黒い物体が土に半ば埋まっている。よく見てみれば物体の表面には文字が書かれており、熱で変色した茶色の頁のような物が内側から垣間見える。どうやら分厚い本を燃やしている様だ。風の音が時折聞こえてくる列車の振動音や工事音をかき消すように鳴り、炭化した本の頁が力弱く揺れている。撮影者はそのまましゃがみ込むと、園芸用の小さなシャベルで本の残骸に土を被せた。その後、撮影者は囁くようなトーンで話し始める。会話や独り言というよりはもっと一方的なメッセージの様な意図を感じる。音量を上げても聞き取るのすら困難で、列車の音が声を遮る様に強くなったせいで更に聞こえなくなった。撮影者は最後にたっぷりの余韻と共に一つの単語を吐き出すように呟くと、動画はそこで終わった。
『生まれてからずっと大事にしていた教えに背く事を無理矢理迫られた。日に日にあいつが家に近づいてきている。』
その一文と共に動画が添付されている。もう一枚は室内の写真で、部屋の床にはブルーシートが敷かれ、その上にはモザイクの掛かった灰色と赤色の何かがある。その隣には赤黒い液体がこびりついた鋸がそのまま置かれている。動物か何かの死体の様だ。
『出来るだけ苦しまない様に鋸で鳩の首を切った。殺生を強いるあいつに逆らえない自分が情けない。』
「なんでこんなグロ画像を俺に見せて来たんだ?」
「これが最後の画像だから。」
「凍結されたって事?」
「うん。面白がってたフォロワーが通報しまくったんだろうな。俺もその一人だし。」
「もしかしてそれが俺をこっちに呼び出した理由?こいつがウチの地元に住んでいるとか。」
「よく分かったな。こいつの住んでいる家を特定したら、この住宅街の中だったんだ。」
彼に特定した方法を聞くと、どうやら彼は「イブ」のフォロワーと協力して特定したらしい。室内のスーパーのビニール袋や動画で聞こえてくる列車音からある程度地域を絞り込み、庭の塀越しの景色から家を特定したというわけだ。その家は住宅街の外れにあり、徒歩でギリギリ行ける範囲だ。今はまだ五時前で、夕食にはまだ早い時刻だ。時間的には大分余裕があるし、何よりこんな出来すぎた話に乗らないわけはない。一旦家に帰って支度をして、その後写真の家に赴く。そう二人で結論を出すと、俺は広くなった自室を物色した。買ったきり一度も使わなかったビデオカメラと災害対策用の懐中電灯をリュックサックに入れると、俺はそのまま家を飛び出し、俊介と合流した。そのまま彼は目的の家まで歩きながら、「イブ」というアカウントについて話し始めた。彼曰く、アカウント主は何者かに脅迫されてSNSを始めたらしい。敬虔なキリスト教信者である「イブ」は正体不明のそいつに常時監視され、命令に従い、内容を投稿する事を強制されている。命令は昆虫の頭だけを集めて隣人の家のポストに入れる等、信仰以前に倫理を疑うような内容だ。投稿はあくまでも文章によるものが殆どだったし、元々彼のフォロワー達はコンテンツとしてイブを楽しんでいたらしい。だが二週間前の最後の投稿を機に、ようやくフォロワー達はその異常性に気付いた。結果としてイブが凍結された後も、俊介を含む一部のフォロワーは好奇心から住所を特定し、その現状を追っている。そのために俊介が自ら調査に名乗り出たらしい。
「調査しているお前が思うに、イブはどんな人だと思う?」
「深夜にも投稿しているし、定職を持っている感じはしないな。あとフォロワーとの質問に返事する時も、会話が成り立たない時が多々あった。まあ普通の人じゃないんだろうな。」
「抽象的だな。なら脅している方はどうなんだ?」
「それこそ分からないよ。イブは自分語りしかほぼしないし、恨みを吐くだけだ。聞いても無視される。そう指示されているのかもしれないけど。」
気付けば辺りにある建物は古民家とも言えるような古いものばかりで、それらを解体する工事の音がそこかしこから聞こえてくる。元々この一角は老人が多く住む区域だからだろう。その工事現場からさほど遠くない場所に、その家はあった。他の家同様に建てられてからかなりの年月が経っているらしい。壁は所々黒ずみ、塀越しには荒れた庭が家の裏手に広がっている。扉の横の名札には何も書かれておらず、車も停まっていない。俺は塀に近づき、窓から家の中を覗いた。分厚いカーテンで中がはっきり見えるわけじゃないが、瓦礫が散らばっている。
「中に瓦礫がある。ここに人が住んでいる様には見えない。間違っているんじゃないか?」
俊介はバツが悪そうな顔をしながら、ポケットから懐中電灯を出すと塀に歩み寄った。彼はそのまま両手を塀に付け、腰を浮かすようにして塀を飛び越えた。俺も同様にして塀を飛び越えると、窓から部屋の様子を覗いた。家具も殆ど無く、瓦礫に加えて壁にはスプレーで落書きがされている。人が中にいない事は分かったが、ここがイブの暮らしていた家だとは思えない。
「鍵も掛かってない。ビデオカメラで撮っててくれ。」
俊介が扉を開き、ゆっくりと家の中に足を踏み入れた。俺もそれに続き、玄関に入った。瓦礫や破片がそこら中に落ちており、スニーカーの靴底から感触が伝わってくる。そのまま俺と俊介が歩き出すと、二人分の足音が静かな家の中に響いた。もう取り返しのつかない領域を俺たちが侵している実感がありありと感じられる。リビングに入り、部屋の奥を照らすと取り残された家具と落書きが光に浮き出るように現れる。床には赤黒い血痕が所々に飛び散っており、煙草の吸い殻やゴミも多く床に落ちている。ただ、その中で最も目についたのは壁にある絵だ。髭の生えた男、恐らくイエス・キリストを描いた宗教画だ。それだけは綺麗な状態で残っている。その顔に俊介が懐中電灯の光を向けた。インクで彩られた灰色の皮膚とその黒目が不気味に俺の眼に映る。
ただそんな瞬間、こちらに近づいてくる足音が響いた。俺と俊介は、互いに顔を見合わせると同時に声にならない、かすれた悲鳴を上げた。壁を叩くような音や、物が崩れる音が足音に続いて家のあちこちから聞こえ始め、足音も段々と近づいてきている。すぐに俺たちは身を翻してリビングを出て、玄関のドアを蹴り開けた。そのまま塀を飛び越えて通って来た道を走った。頭が真っ白になってどん底に落ちていく様な感覚だった。恐怖で喉が震えて呼吸が上手くできない。俺が止まると、前を走っていた俊介も走るのを止めた。強く握りしめたビデオカメラから指を離し、俺は俊介に渡した。そのまま俺と俊介は帰り道をゆっくり歩いた。
「その映像はどうする?」
「とりあえず一緒に調査をしていたフォロワーには共有する。でも自分から流布したりはしないさ。ただ、一応警察には通報する。」
「確かにさっきのはただの不法滞在者かもしれない」
「まあでも………結局イブの正体も脅迫してる奴も何も分からなかった。」
「いや、もうこの話はやめよう。」
後ろを振り向いても、ただの住宅街が広がっているだけだ。だが、今の俺にはどんな人間でも怪しく見えてしまうだろう。そのまま無言で俊介と別れると、俺は出来るだけあの家での出来事を忘れようとした。ただ俺は今でもあの家で聞いた足音を思い出すと、胸の中で冷気が内側から広がっていく様な恐れが湧いてくる。あの時自分がもし一人だったら、何が起こっていたか分からない。ただ逃げている間に俺は機械的にこちらを見つめる視線を感じた。それ以来自分が見られている様な感覚を常に感じている。俊介が警察に通報して調べてもらうと、あの家は長い間空き家で、家の中からは何も見つからなかった。それに加え、人が立ち寄った様な目撃情報すら無かったそうだ。しかし、落書きやゴミは家の奥側に行くにつれて妙に少なくなっていき、最奥の部屋だけは畳に人型の血の影がべっとりと着いていたらしい。結局何も納得いく答えも無く、ただ謎が深まっただけというわけだ。俺は当事者としてこの事を忘れ、考える事を放棄した。そのまま東京に帰ってきてから数日が経ち、普段通り俺は布団の上で携帯を弄っていた。そしておすすめに現れた一本の動画に俺の眼は釘付けになった。それなりに有名なホラー系動画投稿者で、見覚えのあるアカウントのプロフィール画像と、懐中電灯でリビングを照らす二人の男を俯瞰的に捉えた画像がサムネイルに使われている。
『イブと名乗る謎のアカウント……凍結された異常な投稿について』

金星 大蒜(高校1年)

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