七月三十日【短編小説】

 この壮大な団体戦を前にとてつもなく緊張している私を慰める様に、雨は静かに窓ガラスを叩く。窓の奥では沢山の旅客機が気を遣い合うように移動し、実に美しく整列されていくのが見える。同業者達の間で世界最難関の関門だと囁かれるこの東京国際空港は確かに、耐え難い重圧を私に芽生えさせる威圧感を放っていた。
 旅人たちが作っている持ち物検査の行列に入ると、とうとう落ち着かない。できるだけ大人しく、という優先順位の低い言いつけを破り、傍から見れば大袈裟な程、足をゆする。まわりから氷のような視線を向けられようが、あの魔のゲートをくぐり抜けてしまえば私の勝ちである。変に開き直り、あるいは諦めが付き、足の痙攣も止まった。
 ゲートの前まで歩みを進めるとその無機質さ、スタッフの無表情が相まって、私をまたも威圧する。私は平凡な職業と生活を捨ててこの会社へ入ったのだ。こんなことですら感情の起伏が出てきてしまうようでは情けない。自分を律するようによぎったこの思考もまた、結局自らを追い詰めるものに他ならなかった。感情の整理もつかないまま一歩足を踏み出す。
 その瞬間、ブザーが鳴った。ビクッ、と全身の筋肉が収縮し、強烈な不安感とストレスが私を襲う。ブザーは情けない私を叱責するように、繰り返し鳴った。恐る恐る振り返ると、変わらず無表情のスタッフと目が合う。
「お進み下さい。」犯罪者を見るような目で、いや犯罪者なのだがそれにしても、冷たい目で、半ばほくそ笑んでいるように彼女は言った。
 あのやかましいブザーは、どうやら人が通ると絶対に鳴る仕様らしく、私の仕事が検知されてしまったわけでは無いようだ。実際、私の次にゲートを通った人もビクッとしていた。意地悪にも程がある。もう少しだけ柔らかい音にもできたはずだ。
 機内にいる間は、基本的に持ち込みの荷物を膝に抱くことで落ち着くことが出来た。恰幅の良い、ダメージの入ったジーンズを履いた男が私の席を通り過ぎた時には睨んでみたりもしたが、その努力も虚しく睨み返されただけだった。怖かった……。一度だけ自力でジップを開けて顔を出してきた時は肝を冷やしたが、額を指で弾いてやるとすぐに引っ込めた。問題が起きたのは入国審査だった。惜しかった、本当に。
 航空機から降りた私は数時間前克服したはずのゲートに再び完全に萎縮し、それによって当然、自己嫌悪に陥っていた。足は震え、嫌な汗が出る。やはりアジアは汗をかく。体感、出発の時よりも早く時は過ぎ、私がゲートを通る順番になった。既におかしくなっていた私は、どうにでもなれ、ともはや自暴自棄になって足を踏み込んだ。
 その瞬間、ブザーが鳴った。出発の時の恥はかくまいと、私はこれには動じずに、華麗に部屋を去ろうと出口に向かう。その時、警備員らしき男に止められた。
「お客様。お荷物、確認させて頂いてもよろしいでしょうか。」こうなってしまっては仕方がなかった。日本のゲートをくぐり抜け、まさかここで止められるとは予想外だった。私は常に隠し持っていた注射器をポケットから取り出し、荷物に刺した。大金が水の泡だが、このビジネスが世間に露呈することと比べれば大損ではない。警備員がジップを開く。
「なんですか、これ。こんにゃくですかね。」
「スライムです。」警備員は怪訝そうな顔をしたものの、ジップを閉めた。
「これですね、反応したの。気をつけてくださいね。」警備員は見事な営業スマイルで、既に役割を終えた注射器を私に提示した。

波止場 かもめ(高校1年)

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