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第2回 2022年5月1日

 改めて日記を書こうかとすでに読んだ頁を(昨年の夏からずいぶん長いあいだ、『失われた時を求めて』の第一巻はリュックのなかに入ったままになっていた。いつでもぼくはリュックのなかに数冊の本を入れていて、小説(詩集のこともある)やエッセイ、人文書など、気分というよりももっと、天気とか場所とか、iPhoneで曲を選ぶときのように手に取れるようにして、それでも毎日同じ道のりを行ったり来たりするだけなので、結局は手に取らずスマホを見て眠るのだ。だから、皺くちゃになってしまった頁がある。具体的にいえば、125頁から132頁のあいだで、濡れて乾いた紙のようになっているので、もしかすると風呂のなかで読んだのかもしれない。ふだん決してそのようなことをしないのだが、切羽詰まるものでもあったのだろうか。というのもぼくは決して本を大切に扱う人間ではないから、角が折られたところをパラパラとめくっていく。
 なかにはいくつか線の引かれた箇所や、カギ括弧でくくられたセンテンスがある。いつだってそのようにして本を読んできたのだが、特別なルールが
あるわけではない。例えば思想的に重要と思われるような箇所に線が引かれているかと思いきや、ただのワンシーンを美しいと思った、その痕跡だけが残されていることもある。しかし読み返してみて初めてわかることだが、前者には何か酷く男根的なものを感じて恥ずかしくなる。あるいは、自分はなんて凡庸なのだろうかと思う。
 だから当然、紅茶に浸したマドレーヌの有名な場面(113頁)にも線が引いてある。そこには「おばあちゃんちで食べた金平糖」と、ひと言、書き加えられていた。

 金平糖のことを考えると、油絵の具の匂いが思い出される。祖母がアトリエにしていたかつての母の部屋の、古びた箪笥の引き出しにしまわれていた金平糖──ティッシュが開かれて現れる、いろとりどりのおもちゃのようなそれを大事に二、三粒もらう。ベッドの頭側の壁は棚になっていて、ビデオテープがぎっしりと詰まっている。部屋のそこらには洋服や布、着物の端切れが積み上げられていて、窓際の本棚には古びた本や茶色く日焼けした紙が埃を被っていて、すっかり滑りの悪くなった窓を開けると塗装が剥げて崩れそうなベランダに出ることができる。強い陽射しは沙羅の木に遮られ、花後は種子が弾け、裂けた堅い星形の実がそこら中に散らばるのだ。金平糖をもらったぼくは、あちこちの部屋を出たり入ったりして、カーペット敷きの階段を手をついて四つん這いになったりしながら下っていく。

叔母はもう実のところ、ふた間つづきの部屋だけで暮らしており、午後になって一方の部屋に風を通しているときには、もう一つの部屋にじっとしていた。この二つの部屋は──地方によっては目に見えない無数の微生物のために空気や海がここかしこで広くきらきらと輝いたり、匂いを帯びたりすることがあるが、それと同じく──田舎によくあるように、美徳、叡智、習慣などが、つまり宙に浮かんだひそかな目に見えない生活、あり余るほどの道徳的な生活の全体が、そこに数限りない匂いを発散し、その匂いで私たちをうっとりさせる、といった部屋だった。それもなるほどやはり自然の匂いであり、近くの田園の匂いのように、その時どきの色を帯びたものだが、しかしもうすっかり家のなかに閉じこもって、人間くささがしみつき、むっとこもった匂いになっている。

(『失われた時を求めて 1』、117-118頁)

 だけど、沙羅の木の向こう、ちょうどぼくの住む家の階段に取り付けられた窓(アルミの格子がついた窓の縁は、猫の定位置のひとつで、夜になると磨りガラスにはりつくヤモリを捕まえようとするでもなくじっと見つめていた。いまとなってヤモリは縁からぶら下がってゆれる長毛の尻尾を見せてくれる、神話的な存在に近いものとしてぼくには感じられる)の向かいにあたる位置にあったその部屋はもう、ない。

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