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STXMを用いたポリマー混合物の化学状態分布マップⅠ(STXM装置編)★
今回は,昔,私がリコーで関わった懐かしい実験の話をして,特異値分解の数学の話への導入にしたいと思います.まず,実験の話をしますが,私がSTXMに係わったのは,2000年~2004年で,もう20年も前のことです.その後の進歩は著しいに違いありません.当時,実用になるSTXM装置は,Hitchcoch博士が,サンフランシスコ,バークレーのALS(Advanced Light Source)に建設した,BL5.3.2(bending magnet光源利用) とBL7.0.1(undulator光源利用)の2台だけでした.後年,岡崎の分子研のUVSORに,やはり,Hitchcock博士がSTXMを建設しました.
(注)放射光とは初耳の読者もおられると思うので,放射光施設とは何かを簡単にお話しておきます.ドーナツのような真空リングの中を,光速に近い速度に加速された電子が回転しています.回転するといっても電子の軌道が円形というわけはなく,リングの要所要所に偏向磁石bending magnetが配置されていて,偏向磁石の所で電子は曲げられるので,電子の軌道は多角形です.電子が方向を変えるときには,電磁波(白色光の光やX線)を放出します.これが放射光で,いろいろな測定に放射光を利用します.リングの電子蓄積エネルギーとはリング内を回転する電子のエネルギーのことです.ALSでは1.9GeV,兵庫県のSPring8では8GeVです.蓄積エネルギーの大きさは,放出される放射光のエネルギーの最大値を決めるので,SPring8は硬X線の光源,ALSは軟X線の光源となります.
放射光の光源は,偏向磁石bending magnet光源とundulator光源とがあります.undulatorというのは周期的に配列した磁石のことで,蓄積リングの電子軌道の直線部に挿入します.周期的磁場で電子は蛇行運動をしますが,その軌道のFourier変換に相当する波長のX線(準単色光)が放射されます.
さて,STXMに使うALSの放射光リング(蓄積電子のエネルギーが1.9GeV)は,軟X線の光源です.軟X線の領域は$${10^2eV~10^4eV}$$の範囲で,炭素など軽元素の1s(K殻電子)の励起(光電効果による電子の放出)は,このX線の領域にあります.硬X線と違い,軟X線は空気で減衰しますからその測定は,He置換した真空チェンバー内で行います.炭素の1sの吸収スペクトルNEXAFS(吸収端近傍の吸収微細構造)は,分光して単色化(特定の単一エネルギー)したX線ビームを薄膜試料に透過させ,そのエネルギーに対する吸収を測定します.スキャンするエネルギー範囲は,280eV~310eVで,スキャンステップは0.1eVですので,スペクトルは300点ほどのデータ数になります.
目次
これから始まるこのテーマの話には4つの側面があります.
第1は,ニュースとしての一般向け報道.
第2は,STXMの装置の仕組み.
第3は,材料科学の側面.炭素1s吸収端近傍の吸収スペクトルNEXAFS.
第4は,データ解析の数学.特異値分解.
技術者向け教育の場合にお話しするのは,第1,2の部分です.第4の部分は,Hitchcock博士らの開発したaXis2000というソフトウエアを用いるので,数学を意識することはないのですが,今回は,特に,第4の数学の話に注目することにします.番号順に順を追って話ます.
1.一般向け報道
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せっかくの記事ですが,技術の解説が正しくありません.ここで言及しているデータベースは無関係で,この記事はピントがずれているのが残念です.
2.STXM(ScanningTransmissionX-rayMicroscopy)装置
放射光X線をFresnel Zone Plateで,試料薄膜上にフォーカス(22nmΦ)させ,その微小ビームを試料薄膜に透過させ,微小ポイントの吸収スペクトルを測定します.その点のスペクトルを得るには,入射するX線のエネルギーを280eV~310eVの範囲で,0.1eVの分解能で変化させます(エネルギースキャン).これは,色を変えて見る実験に例えるとわかりやすいでしょう.性質の異なる材料が混合している薄膜を,赤い透過光で見た場合と青い透過色で見た場合とでは,異なる像が見えるでしょう.試料薄膜(ミクロトームで加工した厚さ100nmの切片)上をラスタースキャンすることで,そのエネルギーで見た薄膜の吸収画像が得られます.エネルギースキャンと位置のスキャンがあるわけですが,実験では,位置のスキャンを行ってから,エネルギーを変えます.その理由も以下の説明で納得できるでしょう.
薄膜に入射するX線エネルギーを280eV~310eVの範囲で変えて測定した300枚ほどの吸収画像をスタックすれば,薄膜試料の各点(x, y)の吸収スペクトル$${μ(x, y)}$$が,point to pointで得られたことになります.試料上の空間分解能は約30nm,スペクトルのエネルギー分解能は0.1eVという高性能な測定です.私たちは装置を使う純粋ユーザーでしたが,私は,このような装置を開発したHichcock博士グループの技術と装置の仕組みに興味を持ちました.ここでは,STXM装置の重要な要素であるゾーンプレートとその制御についてとり上げましょう.
ゾーンプレートの焦点距離は波長で変わります.入射するX線ビームのエネルギーがスキャンされたとき,そのつど瞬時にフォーカスしなければなりません.これは,レーザー干渉計とゾーンプレートの載るピエゾステージで行われます.試料点の(x, y)スキャンは試料台のピエゾステージで行われます.
BL5.3.2はbending mgnetからの放射光(undulator光源よりは光強度は弱い)ですが,照射された点の有機物はダメージを受けますので,できるだけ高速で測定します.そして,試料の変質がなかったかどうか測定前後でチェックする測定ルーチンもあります.X線のエネルギーを変えて測定した吸収画像をスタックしたとき,サンプル位置のずれがあれば自動修正できます.
以下で,STXM装置で最も主要な素子であるFresnel zone plateについて,詳述しましょう.zone plateは,外径45000nm,最外輪帯幅35nm程度のものです.下図のゾーンプレートは,波長λのX線の単色光を集光します.黒い部分はX線を通しません.例えば,中心の黒丸はダイレクト光をストップし,輪帯環の白い部分を通過してくる行路長 f+λ/2,f+3λ/2,f+5λ/2,・・・・のものが,焦点距離fに集光できます.
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このようなフレネルゾーンプレートの後ろにOSAという絞りを置いて,行路差λずつの光線(1次のフォーカス)のみが試料位置に集光するように調整します.
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入射X線のエネルギーを変えたときのゾーンプレートの焦点距離の調整は,レーザー干渉計を用い精密制御されています.
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3.炭素の1s電子の吸収端直上の微細構造スペクトルNEXAFS
電子写真で使われるトナーは,カーボンブラックとか顔料色素で出来ていると思っている人がほとんどでしょう.実際には,このような黒やカラーの色素だけでなく,樹脂,ワックス,電荷制御剤など,複数の有機物分子が,1粒のトナー中に分散されており,それらの分散状態は,トナーの性能に影響を与えます.設計通りの分散状態が実現しているか評価することが必要です.高精細トナー1粒のサイズは数μmという微細さで,その中の物質の分布状態を30nmΦの分解能で調べる必要があります.しかも,混合されている物質は,皆,有機物ポリマーで元素分析をすれば,どれも主成分は炭素です.つまり,炭素が骨格のよく似た有機分子が混合している状態の分布マップが知りたいのです.これを化学状態マッピングといいます.
下図には,色々な物質の炭素1s電子のNEXAFS吸収スペクトルを載せました.X線のエネルギーを変えて観察した透過像も載せています.例えば,①カーボンブラックの分布する場所は292.5eVのX線エネルギーで見ると吸収が大きいため白っぽく見え,②ワックスの分布する場所は,287.8eVで見ると吸収のためX線の透過が悪く白っぽく見えます.同様に,③樹脂の分布する場所は,284.3eVのX線の透過像では白っぽく見えます.
エネルギースキャンにともなう画像変化のパラパラ動画を作って見るとわかりやすく面白いものです.
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化学状態(元素分析ではない)という意味は,トナー中に分散している物質は,すべて有機分子(どの分子もほとんど炭素元素で出来ている)なので,元素分布のマッピングでは差がありません.炭素原子が骨格の有機分子の吸収スペクトルは,炭素の1sの吸収端285eV付近にあり,その炭素原子がどのような化学結合状態にあるのか(1重結合か,2重結合か,π電子系か,どのような官能基と結合しているか)により,吸収端から高エネルギー側に観測される吸収スペクトルの微細構造(NEXAFSという)に違いがでます.
トナー中の有機ポリマー分子の分布マップを得るには,化学状態マッピングがどうしても必要になります.
元素に特有な特性X線を検出すれば良い元素分布マッピング[TEM(分析電顕)でも,放射光でも,微小領域の蛍光X線分析は普及している]と,化学状態マッピング[微小領域のpoint to pointで炭素1sのNEXAFSの測定が必要]は,全く異なる技術であり,我々の目的には,STXMでの実験が必要でありました.
リコーが,Adam P. Hitchcock(McMaster University)博士が開発したALS(バークレー,AdvancedLightSource)のBL5.3.2に設置されたSTXMで共同研究を行ったのは,2000~2004年のことです.
実験で得られるデーターセットは,試料表面の座標を(x, y)とすると,試料表面のラスタースキャンと,透過させるX線のエネルギーωのエネルギースキャンを行って,point to pointで収集した吸収スペクトルμ(ω;x, y)です.
再度たとえ話をすると,膜を透過する光のコントラスト像は,光の色を変化させながら見ると,膜中に存在する種々の物質の形が見えたり消えたりするというわけだ.
このような,データセットの収集と解析は,Hitchcock博士の開発したソフトウエアaXis2000を用います.この解析のために用いる数学は,特異値分解です.この先は,4.特異値分解の数学に続きます.
4.特異値分解
試料は$${n}$$種類(高々6種類程度)の物質で構成されており,それぞれの吸収スペクトルは既知とします.この試料薄膜の各点$${(x, y)}$$ごとに,吸収スペクトルを測定します.測定された試料薄膜の各点のスペクトルは,各物質の吸収スペクトルを,その点の存在量で重みをつけて重畳したものになっています.課題は,各点$${(x, y)}$$で,その点に存在する物質量を求めることです.
エネルギースキャンの点数は$${m}$$(実際は300点ほど),混合される物質種数は$${n}$$(高々6種程度)ですから,$${m>>n}$$
簡単のために,m=5,n=3として,続編で演習してみましょう.続く...
参考-----
特異値分解を使いますが,特異値分解の概念図は以下のようなものです.
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以下の拙著の第3章p64~p84から抜粋転載しました.