【ほぼ0】千羽鶴は妨害行為である
【ほぼ0】#53です。
コロナ禍において医療従事者に対して感謝と応援の意を表明するという趣旨で千羽鶴を作って送る団体があるそうです。
それを、美談として取り上げるニュースメディアもあります。
折り鶴というのは面白いもので、折っているその最中は、本当に集中できます。難しすぎず、けれど決して単純でもないという絶妙さ加減が素晴らしい。
折り紙、適度な難易度のそれは、瞑想にも似た感覚を覚えさせてくれるものです。無心になれる、続けるうちにその先の感覚に辿りくことができる。健全な営み、トリップ方法なのです。
淡々と打ち込む、数をこなす、その数が可視化しやすいため達成感も得られる。折り紙という営みは、素晴らしいものなのです。
素晴らしいものなのですが、それは、あくまでも「折り手側にとって」という留保つきだということを忘れてはなりません。
同意なく、承諾なく、千羽鶴を送りつけられた側にとって、折り鶴というのは「迷惑」以外の何物でもありません。
処分するにも手間がかかります。ゴミとして捨てることにも手間とコストがかかる時代です。
誰がどのような環境で作成したのかもわからない紙の束を送りつけられたとしても、衛生面の観点からも下手な取り扱いをすることができないのです。
そして、より意識すべきなのが「受け手側の同意は事前に確実に取り付ける」こと。
作成後に「要りますか?」と尋ねたところで、人によっては「要りません」と断りきれないこともあるわけです。
同意は、完全に任意に、瑕疵なく、行われるべきもの。それも、事前に、何らのしがらみのない状態で。
善意の押しつけほど迷惑なこともありません。しかも、それが形として残ってしまうものであれば、尚更。
感謝を伝えること、応援の意を表明すること自体は素晴らしいことですが、それを「形あるもの」にしてしまっては、無益どころが有害にさえ働いてしまうということです。
ありがとうございます、という「手紙」を送ることも、同様に「形あるもの」を強制的に送りつけることになります。メールも同じで、電子データという「物」を強制的に送りつける行為であることに何ら違いはありません。それを処理するという労力自体がコストなのです。
善意を押しつけるな、物を送りつけるな、処分コストとリスクをしっかりと意識せよ、ということを、義務教育の段階において徹底的に教えるべきではないでしょうか。
学校単位で、学級単位で千羽鶴を折るように提案するということ自体が「無自覚な悪」であるということを、大人が子どもに押してなくてはならないでしょう。
まずは、大人が、その点をしっかりと意識すること。
で、どうしても「物」を送ることによって感謝の意を表明したいというのであれば、一つだけ例外的に許容される「物」があります。
それは、
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