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【ほぼ0】全てを言語化できない、だからこそ

【ほぼ0】#55です。

私は体育が苦手でした。体育の授業が苦痛で仕方なかった思い出があります。

速く走る、遠くまでボールを投げる、高く飛ぶ、、、身体能力を最大限に活かすという営みにおける「理論」というものに対する理解がもやもやとしていました。

なぜ彼や彼女たち(they)はあんなに速く走れるのだろう、なぜ遠くまでボールを投げられるのだろう、なぜ高く飛べるのだろう、、

その理由、理屈を、授業において教えてもらった記憶がないのです。

教えてもらったのに覚えていないだけ、という可能性もありますが、そうだとしても今の私の中に何も残っていないわけで、極めて残念なことです。

速く走れる人の中には、理論的に研究した結果としてそのパフォーマンスを実現している人もいるはずですが、そうではなくただ「直感的に」そのパフォーマンスを実現している人もいるはずです。学生の場合、特にそのようなタイプが多そうです。

世の中の全ての事象を言語化できるはずもありません。言語化できない、非言語的なコミュニケーションによってこそ伝わる事象もあるわけで、言語化できないものを言語化しようとすること自体には意味がないのです。

言語化できないものもある、という良い意味での諦めが大切です。

同時に、言語化できるものは徹底的に言語化する、という「覚悟」も同じくらい大切なのです。

そんなこと言わなくても分かるだろう、敢えて言語化するまでもないだろう、という「思い込み」が、自身を含めた多くの人を苦しめることになってしまうのです。

当たり前のことこそ、敢えて言語化してみる。そうすることによって、当たり前だと思われていたことがそうではないことに気づくこともあります。

当たり前だと思って雑に扱っていた事象が、実はもっと複雑なものだった、ということに、日々気づいていくべきなのです。

雑な対応は、雑な結果しか生み出しません。当たり前、基礎的なことこそ、しっかりと改めて言語化すべきなのです。

端から言語化が難しいものは、慎重に対応するため、ある意味において安心なのです。他方、当たり前だと思っている場合には、慎重な対応を怠るため、取り返しのつかないミスに繋がることもあるのです。

言語化できるものは、徹底的に言語化する。これでもか、というところまで細分化した言語化を心がける。そうすることによって、ミスを少なくできる。

言うまでもなく直感というものは大切ですが、それはコストやリスクをシビアに問われる実践の場において瞬時の選択を正当化するための要素であって、トレーニングの場において大切なのは直感ではなく言語化です。

徹底的に理屈を言葉で表現する。それも、分かりやすい言葉で、かつ、正確に。

何となくやってみろよ、走ってみろよ、投げてみろよ、ではなく、可能な限りその理論を言語化して伝える、ということを「あの日」「あの時」「あの場所」であの教師がしてくれていたら、という思いは、今後も消えることはなさそうです。

今となっては自分が(も)誰かに何かを伝える立場になったわけで、当たり前だと言わずに徹底的に言語化して届ける、という姿勢だけは、忘れないようにしていきたいところです。

この言語化するという営みは、およそ全ての人にとって大切なものであり、意識的に行うべきものです。

その言語化トレーニングを日常において気軽に行える方法があります。

これは、絶対に行うべきですし、誰でも簡単に実践できます。

絶対に、今すぐに、始めてください。

私も、やっています。

その素晴らしい方法とは、

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