アンソロジー
※2021年1月19日に東京学芸大学蹴球部部員ブログ「紫志尊々」に掲載されたものを一部再編集を加えています。
青春を今 噛み締めながら旅の途中
グラウンドのライトの光は 20:30までしか照らさない
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自己紹介が遅れました。
高橋謙太郎と書いて「きむらたくや」とは読みません。
「たかはしけんたろう」です。
何歳になってもあのカッコよさを持ち続けるキムタクに憧れる、タカケンです。
さて、
すごい速さで4年間は過ぎたが、
今回が東京学芸大学の蹴球部員として最後のブログになるわけだ。
書くことは決めてるから序論はここまでにしておこうか。
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「部員ブログなんて書いてる場合じゃない。真っ先に卒論に取りかかるべきだ、そんなことは分かってる。けれども書く。」
大学最後の部員ブログはこう書き出そうと決めていた。
卒論終わってたらどうしようとも思ったが、その通りになってしまった。
迫る締め切りには、本当に泣き出しそうだよ。
もうピンときている人もいるかもしれないけど、先に同じように書き出した彼は
その翌日、大学4冠を成し遂げた。
今は、Criacao Shinjukuに所属する井筒陸也選手の残したブログは
当時高校2年生だった僕の心に釘を刺した。
「中学生になるときも、高校生になるときも、そして大学生になるときも、サッカーを続けるかどうかを迷った。それでも続けてきた。惰性の先にあったこの選択は、大学でサッカーを続ける決断をしたのではなく、高校でサッカーを辞める決断が出来なかっただけのことだった。弱い自分が情けなかったし、何よりサッカーに対して失礼だった。」
「僕はサッカーを続けてきたのだろうか。」
「辞める決断が出来なかったのではないのだろうか。」
深く考えることもなく進学のたびにサッカーを続けてきた僕にそんな価値観が芽生えた。
翌年、高卒でプロに飛び込むなんて考えもしなかった僕は、大学進学を目の前に、サッカーを続ける決断?をした。
目の前に並ぶ、国公立、早慶、MARCH、関関同立の文字に、サッカーを続けてきてよかったとすら思えた。
時は経ち、モラトリアムは確実に終わりへと向かう。
大学4年生になったぼくたちの目の前には真にこの決断を迫られる。
決断次第ではもう今までみたいにサッカー中心の生活とはさよならだ。
これがフットボーラーのイニシエーションなのだろうか。
僕は悩んだ。
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今年は多くの人間を見送った。
続ける者も。
辞める者も。
10年来の付き合いに同じ釜の飯を食った仲間、対戦相手として友人として立ちはだかったライバル、そして同期と。
歓喜と悲哀の交わりの中で共感し、同情し、祝福した。
松岡大智のカターレ凱旋。
木出雄斗の出世。
井原のバー外。
あとは、窪田の脱臼だろうか。
あれはどちらかというと歓喜だ。
墓場までエピソードトークだ。
3回も筑波の部員にメッセージ動画を依頼された。もはやお馴染みのツレだ。
そして、意外と響いたのが日大の楜澤健太か。
別に仲良かったわけじゃないが、中高大と立ちはだかった北信越の選手がサッカーを辞めることを綴ったブログは、リアルだった。
いつもいやらしい仕事をするいい選手だった。
かく言う私は、早々に内定をもらって、ラスト1年はサッカーに集中しようと決めた。
しかし、就職活動をまとめようとしていた矢先に、活動休止を迎えた。
1人きりのトレーニングは、体力は保てても、感覚は失われていった。
生きたボールを受けられない日々では、プロの練習に行かせてくださいなんて言う自信はなくなっていた。
そして安田が秋田に内定した。
今まで口にすることはなかったが、正直とても複雑だった。
周りもそれを察してかあまりこのことに触れてくるような人はいなかった。
それでも、ウチのバカな後輩ども(鈴木、住田、荒川)はいじってきたけど、まあうまく返せるわけもない。
ヤスと次に言葉を交わしたのは12月30日だった。
半ば、サッカーを辞める決断をコロナに下してもらったようなものだった。
9月になって活動が再開してからは、他のみんなが説明する通り。
昨年は初のフルタイムを達成して、関東リーグに復帰した。
格の違いを見せることが目標だった。
一番短かったけど、はじめて充実したシーズンだった。
前期を終えた頃、自分の中に手応えを感じ、心境に変化があった。
瀧井研究室の最後の学生でありながら、サッカーから離れようとしている自分に未練を感じた。
ここまで積み上げてきたものから目を逸らそうとしてる自分に疑問を感じた。
17年かけた。そこそこ高かった。
もう答えを出さなければならない。
僕は2度目の通過儀礼にある。
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終わりに、後輩に向けて。
メンバー表を見ると、うちは関東1部とも引けを取らないような豪華な前所属が並ぶ。
高校まで勝ち続けてきた人間が狭き門を経て、学芸に集まる。
でも関東ではなかなか勝てなかった。
勝ち慣れた人間が大学サッカーに慣れチームの中心になる頃には、
いつのまにか負け慣れた人間になっていく。
何点取っても安心できなくなり、少しの綻びから崩れていき、その果てに降格を迎えた。
でもこの1年間の代謝を経て、お前たちは生まれ変わった。
勝ち続けて、勝ち慣れた人間に戻ったんだ。
特に最後の2試合。東海と明海の試合は心に刻め。
苦手な相手を跳ね返し、120分も走り切ったんだから安心して関東に行け。
昨年1年は関東に比べてゲームレベルは落ちたかもしれんけど、ここでの成長は来年のブレイクスルーに繋がると信じています。
両親に向けて。
最初はサッカーのサの字も知らない両親。
少しずつ見る目がつく父親に全く成長しない母親。
特に父親は清水貴海の親父に並ぶ名物親父として、チームメイトからはアイツと呼ばれ、親しまれていた。
定型文だが、何不自由なくサッカーをという話は本当だった。
「スパイク買うで。」「部費いくらや。」に「おう」で済ませる両親だった。
母親には事後報告で済ませた、高校進学。
大学進学に至っては、両親にもほぼ事後報告だった。
大学卒業後も好きにしろという言う始末。
実はそう簡単に言えることでもないと、少し社会を見て知った。
面と向かって感謝を伝えないとなと思ったけど、
柄にないのでこの前酔って寝ぼけているところを狙った。
言葉に甘えて好き勝手にさせてもらうわ。まあええやろ。
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少し長くなった、エピローグにしよう。
最後の部員ブログだが、4年間を振り返ることはしなかった。
それは卒論も引っ越しも落ち着いたころに自分のnoteでやることにするよ。
読んで感想くれよ。
昔部員ブログで話したが、僕の大学サッカーには1つテーマがあった。
「同学年のやつらに夢を見せたること。あいつと一緒にプレーしてたんやって思わせること。」by D
僕も夢を見せてもらっています。いよいよJ1ですね。楽しみです。
大学サッカーの終わりを迎え、みんなに誇れる自分であれたか。夢を見せられる人間であれたかは分からない。
あまりうまくいかなかった大学サッカーだったから厳しいか。
これはこれから先の人生のテーマだ。
そして続ける者、辞める者も皆、僕に夢を見させて欲しい。
互いに頑張ろうや。
あいつらとやってたんだぜと思わせてくれ。
今この時の決断が、選択が、ほんとうによかったと。
いつかそう心から思えるような
そんな夜を探してる
東京学芸大学蹴球部 高橋 謙太郎