第2回1 渡邉康太郎さん (Takram)

1年生の皆さん、入学おめでとうございますなんですけど、すごく不安な気持ちも多々あると思います
これからzoomによる授業っていうのが結構たくさん始まってく中で、こんなはずじゃなかったと思ってるかもしれないんだけど、いつかこれをね、楽しく振り帰る日が来るかもしれないということで、大学生の貴重なタイミングを逆にこういう期間を大学生として過ごしたっていうことが、振り返られるものになるようにできるといいですね
きっと田中先生から先週話があったんじゃないかと想像するんですけど、sfcが始まったときのその標語として、SFC生というのは未来からの留学生ですっていう話があったんじゃないかと思います
本当にそうなのかなと思っていて、まぁたぶんいろんな大学の内でも教員の人たちもね、学生の人たちも割とITリテラシーが高い人が揃ってるから、比較的この体制へのシフトっていうのがスムーズなんじゃないかなとも思って、僕自身ももちろんSFCの卒業生なんだけれども、いくつか授業を始める前に軽くトリビアと言うか自己紹介をしたいですね
僕ね環境情報学部です、ログイン名は当時t03でした、2003年入学ですね、だから17年経ったってことになるのかな
そういう風に言うと、皆さんと比べたらちょっと年上かなと思うかもしんないけど、この授業で呼ばれている合計14人の先生の中だと、もしかしたら最年少なのかもしれないということで、比較的皆さんに近いよっていうのは、別に若いよって言ってんじゃなくて、あのまあ経験のレベルという意味では他の先生方に比べたら未熟な部分もあるかもしれないが、そのぶんみんなと似たような目線から色々お話できるんじゃないかな、ということがあります
でもそういう意味ではあの僕の話をね、先輩からの話とか先生からの話っていう風に聞くこともできるかもしれないんだがそうではなく未来からの留学生
僕もみんなと同じように授業を受けていて、そこに座っていて色々課題をこなしたり、直前まで課題が終わんなかったりしてるって言うところ全く同じようなところをやっていて、ほんの少しの未来から社会を垣間見て、みんなに話を届けてるという風に感じてもらえたら嬉しいなと思います
今日は四つ話があります
一つ目は、すごく簡単な自己紹介を、まず最初にピッとやってみますね
で二つ目はあのちょっとせっかく大学生の皆さんと、しかも1年生もいる場で話すから、大学四年間の中で僕自身があの悩んできたことというのをすごくクイックにお伝えして、そこから無理矢理みんなに伝えられる、学びを共有するにはどうなるんだろう、それを二つ目に話します
僕が抱えた学生時代の不安とそっからの学び、それが二個目
三つ目が僕ね、コンテクストデザイナーっていう謎の肩書きを名乗ってるんですね
おそらくみんな聞いたことないし、怪しいと思うと思うけど、その仕事がどういうことなのっていうのを話します
最後四つ目は、このコロナの時代だからこそ出来る事ってのはみんなあるかもしれないなと思ってるんですね
僕が自分が抱えた不安とかそこからどういう風に何て言うんだろうな、あの答えを見つけたかっていうことを伝えても、いやそれどうせbefore coronaでしょみたいに思っちゃうかもしれない
なんか出かけようとか、図書館行こうとか言われても、無理だからってなっちゃうかもしれないと
そうならない為に、同じようなことを、このコロナ環境下でやるとしたらどうなのかっていうのも考えてみました
それが最後のパート4のところです
で、最後にQ&Aとかして、閑歳さんともしゃべりながら締めくくっていくっていう流れを想定してるんだけど、前回と同じように例によって、Q&Aは常に受け付けているので、良かったらQ&Aコーナーにいろいろ書き込んでみてください
さて、簡単な自己紹介します
僕はTakramという会社でデザインの仕事をしています
Takramというのは、今50人くらいの組織なんですね
世界3拠点あります、東京ロンドンニューヨークロンドンは5,6人で、NYは1人しかいないから、3拠点って言ってもまだ小さなものなんだけど、日本を拠点にしているデザインの会社で海外にちゃんと支店を持ちながら活動してるって言うのは結構少数派なので、そういう意味では楽しくね世界を飛び回りながら仕事しています、と言うか仕事をしていました、2月半ばくらいまで
そのデザインの仕事はどういうことなのっていうのをちょっとビジュアルを見せながらお伝えできればなと思うんですね
さて、Takramっていう会社なんだけど、まあテーマは、デザインとイノベーションってことなんですね
よくデザインと言うとすぐ連想するのは、ものの色形を決めることだと思うとそれはたくさんやるんだけど、物の色形を決める前にとかと同時に、デザインがどうビジネスに貢献できるか経営に貢献できるかってとこもすごく大事な視点になっていて、なので仕事の範囲はすごく幅が広いです
例えば日本経済新聞社っていうところの企業のフィロソフィーを考えるとかね、社内のメディアを作るとか、社員の人が全員ブログを作るとかそういうとこ踏まえて、2年くらいの後に結局日経という会社のロゴ全体を作り替えるとかもやったりしました
みんなの知ってるとこでいうと、メルカリもリブランディングとかをしています
ロゴ変わったのはちょっと前、あとは経産相と一緒にビッグデータ可視化のプロジェクトとかをやってて、日本中の中小企業がどういう風に地域に貢献してるかみたいなのを、web上でビリビリ可視化するとこういうのをエンジニアリング的に作ったりとかってのもやってます
後は、例えばあのトヨタ自動車みたいな会社と一緒に未来のビジネスを考えるみたいのもやってるんですね
これどういうことかって言うと、トヨタって聞くと車を作ってるものづくりの会社と思うかもしれないけど、ものづくりってところを超えてサービス提供の会社になっていくっていう未来を思い描いています
具体的に言うと、自立運転自動運転の、この一つプラットフォームが出来て、これがお客さん、普通に生活してる人だけじゃなくて、いろんなビジネスをやってる人が自由に使えるってなったりだとか、例えば動くオフィスになるとか動く小売店になる、例えば、今買い物しづらいですね、出かけにくいからなんだけど、ピッてやったらUberみたいにお店ごとこちらに来てくれるってのができるようになるかもしれません
ナイキの靴を欲しいつったら、ナイキの靴屋さんが自分のとこに来てくれて、あらかじめ自分のサイズってのを揃えてやってきてくれるのかも
しれないと、こういったいろんなお店が複数台集まると、砂漠のど真ん中でバーニングマンみたいなイベントやる時に、各種のお店があらかじめ集まっていて、ご飯からバーから、会場だったら、エンタテイメントからっていうのは、もう一つの村のように、モビリティが集まるだけで
何もないところから街が出てくるかもしれないとかね
このトヨタの未来のビジネスビジョンみたいなのを示す、これ実はアニメーションになってて、Takramのwebから見れるんですけど、こういうのをトヨタと一緒に作るような仕事、つまり未来を考え思い描き、具体的なストーリーにして映像に落とし込むような、そういう仕事もやったりしています
もうちょっと柔らかいのだと、お菓子箱とかね、人工衛星から和菓子までって、最近は月面走行機とかも作ってマカロンも作ってるから月面歩行機からマカロンまでっていう風に変わったんだけど、アップデートされた、なんか、デザインっていうと、あの図面をひきながら、椅子を作ってるっていうイメージとかそういうのもあるんですけど、そういうところ以上に企業の未来、社会の未来を考えて、それを分かりやすい形にするってのがすごく多い、大体そういう仕事なってきてるってことです
だから、今の常識を疑うみたいなね、田中先生が最初に言ったようなこととすごく関わってきてます
組織も結構いろんな人いて、バックグランドも様々、絵を書く人、ビジネスの人エンジニア、それソフトウェア系の人もものづくり、フィリピン人とか電子工学とかの人も結構いろんな人がいます
結構一人一人が野蛮な動物みたいなとんがった人多くてそういうところね、僕も一頭の動物であり、園長さんを他の会社のリーダーたちと一緒にやってるみたいなところがあるかもしれません、そんな感じです
月面走行距離から結構幅がある、これ本当に同じ軸線上に乗るのかわかんないかもしれないけど、そこをつなぐ色のプロフェッションっていうものとかみんなの得意分野があるんですね
バーッと言ってもちょっとわかんないかもしれないけど、そん中で僕は自らコンテクストデザイナーという職種を名乗っていますなんちゃらなっていう感じだと思うんだけど、コンテックスデザインとはなんぞと
コンテクストって文脈って日本語で言ったりしますよね
文脈をデザインするって言ったら、例えばわかんないけど、その企業が物を作った時にそれに文脈を寄り添わせて、人に何かメッセージと共に届けるとかっていうことを想像するかもしれませんと
つまり物だけある時に1人がストーリーをつけるみたいな、実はそういうことではないんですね
これも含むかもしれないんだけど、ものに何か素敵な物語を寄り添わせて届けるとかっていうことではないです
つまり企業側の正しいメッセージを誤解なく届けたいっていうことではなくて、むしろその全く逆をやりたいと思っているんだな
僕がやりたいと思ってるのは、コンテクストの語源に帰るとラテン語のコンとテクセーレって言うのに分かれて行くんだけど、コンというのはカンバセーションとかと一緒で、一緒にっていう意味なんですね
テクストっていうのはテクセーレ、編むっていう動詞から来ていて、テクスタイルとかと同じだよね
だからコンテクストってのは、元の意味はともに編むっていう意味なんです
作り手による文脈っていうのが、仮に強い文脈と呼ばれて、使い手が抱く解釈みたいなのは、いわゆる弱い文脈と呼ばれとするならば、それが同じくらいのレベルで釣り合ってるっていう状況を作りたいと
それをコンテクストデザインっていう風に自ら名付けて何年か前から実践しています
去年本を書いたんだけど、そこにはこういう風に定義してみました
コンテクストデザインとは、一人一人からそれぞれの物語が生まれるようなものづくりの取り組みや現象を指す
読み手を書き手に、消費者を捜索者に変えることを企図する、というような
たとえばどういう仕事なのって言うと、ISSEI MIYAKEっていう日本初のファッションのブランドがあると思うんですが、そこと3年連続で一緒にプロジェクトをやったりしています
これが2019年の冬で3ヶ年のプロジェクトが終わったからこれが最終版だったんだけど見てもらえると分かるように、これは左からちょっとしたストーリーが始まってるんですね、お手紙を書いてるんですね
で、お花これ実は胸元につけたりできるコサージュなんだけど、それをお手紙で包んで渡す
受け取った人はコサージュを胸元に身につけることができるけど、同時に手紙をもちろん読むことができて、パッケージの内側が手紙になってるんですね、こういうものなんです
こうプクプクっと文字が浮いてきてる逆さ文字、FLORIO GRAPHYっていうのは、コサージュなんだけど、ただのコサージュではなく実は包み紙の内側がお手紙になっているっていうやつなんですが、そこにはあらかじめキーワードがエンボスされていて手紙を書くための補助線と言うか、ここでは例えば、do you rememberというところに丸が囲ってあります
そしてnightかな、あの夜を覚えてますか、とかっていうような手紙を書き始めたんだね、で、tomorrow, 6p.m.にドレスアップしてディナーしませんかみたいなのを、このエンボスしてるところを繋ぎ合わせながらこの人は手紙を書き始めてるわけなんだが、今lineとかmessengerの時代で手紙を書く手書きで書くってのからみんなすごく距離ができてきてると思うんだけど、そういう時に是非手書きでゆっくり相手のことを思ったりするとか、それを受け止めるという時間を作ってほしいなと思って、ただ白紙の紙作っても誰も手紙がそのなかなか開きづらくなっちゃうんで、その補助線として送り手と受け手の間でだけ生じる思い出みたいなもの、もしくは約束新しい約束が浮かび上がってくるようなキーワードをあらかじめここに、長電話とか終電とか、そういうのを散りばめてみたよ、と、例えばこういうの作っています
これはどういうことかっつーと僕とかが、こういうものを作ってるんだけど、でも明らかに売られてる時点では未完成なんですね
買った人は実は使い手じゃなくて送り手であると、買った人が自ら手紙を書くことで完成するんだよ、と
FLORIO GRAPHYっていうのは花言葉って意味なんだけど、つまり花言葉がない架空の布の花なんでね、自ら書いた手紙の言葉が、唯一の花言葉になるよっていうような理由でこれ作ってみました
これつまり作り手がデザイナーで、使い手がユーザーだったらそれをはっきり分けるのではなくて、そのユーザーとデザイナーが一緒に一つのものを作っていって、誰が作り手とも言えないし、全員が作り手とも言えるって状況を作ってみるという、そういうのが目的だったんですね
さてこれが自己紹介、簡単なの終わりで、僕自身の学生時代にどんなことで悩んできてて、どういう風な糸口からそれを解決に結びつけてきたのかみたいなのをちょっとお話ししたいんだけど、さっき固まってた時に本当は見せたかったスライドがあったな、ちょっとお見せしますね
年表、実は高校からSFCでした、でバス乗る時に皆が大学から湘南台なり辻堂に帰る時に、すげーなんか中高生の制服着た人がめちゃくちゃ並んでて、ちょっと邪魔だなとかうざいなと思うかもしれない、その邪魔とかうざったい人のうちの1人だったんですね
一年生の人はまだわかんないよね、受験の時入った方ちょっと見たかもしれない
あのキャンパスの中に中高等部があります、僕はそこに、高校から大学だから通算7年って2003年に大学に入りました
あらかじめデザインには興味があって、でもそん時にはデザイナーなろうとはあまり思ってないんですね
だって当時SFCほとんどデザインの授業なかったから、いろいろゼミに潜ったりしてて、あとは学外の活動もたくさんしてました
課外活動、例えば百万人のキャンドルナイトって、なんか全国的なイベントがあってそれの仕掛け人を先輩手伝ったりしたりね
あとデザインの授業いろいろ取ったんだけど、もしかしたら田中先生がSFCでやった最初の授業かもしれない、2003年の授業とったりしたんですよ
あのデザイン言語aっていう授業がかつてあって、建築家の南先生っていう人が、あの目の前に20人の学生がいるのに、20人と絶対目を合わせずに、遠くの方をずっと見ながら一人で語るって授業があったんだけどすごいいい授業で、そこに1回ゲスト講師で田中先生が当時もしかしたら、あの博士過程とかだったのかもわかんないんだけど、田中先生がやってきて、3DフォトウォーカーっていうなんかJavaかなんかで作った写真をたくさん点をつないでいくと、今でいうAR的にそれを数理空間上につないでマッピングできるっていうようなのをやってて、それを建築の授業で見せてくれたっていうのが確か2003年だったと思うんですよね、そういう思い出があります
いま環境の学部長である脇田先生っているけど、脇田先生が最初になんか助手みたいな感じで授業してるところも授業とってて、なんか情報デザインとかっていうの興味ある、情報デザインみたいなのやってる人いるなとかと思ってたんですよ
その後ちょっと留学したり、いろんな国にSFCをお休みして行ったりして、大きな企業に就職せずにスタートアップ、当時まだ5人しかいなかった
僕は5人目だったんだけど、創業3ヶ月目位で入って今に至るって感じだから、みんながイメージする就活ってさ、なんかセミナーに行って、大量のなんか人と一緒にスーツ着て
面接受けて、そういうのじゃなかったんですね
よくみんな強い意志を持てよとか己を強く持てよとか、決めたら追求するって話を聞くかもしれないし、後は、あらゆるものが必然としてね、努力の結果起こるみたいな
自分の意思と行動で未来を切り開けって言われるかもしれないですけど、こういう人もいますね、これでちゃんとやってける人もいるんで
僕こっち派じゃないんですね、どっちかというと
弱い意志と偶然によって今の自分があるなという風にすごい思っています
この弱い人はなんぞっていうこととか、偶然とはなんぞっていうことをちょっと話していきたいなと
弱い意志、なんとなく考え続ける、はっきりしなくてもいい
偶然ってのは、自分の意志と行動の外からやってくるというのは結構大事だなと思ってるんですね
4つの超短いエピソード
高校3年生の時SFC高校だったんだけど、はっきりデザインやりたいとか思ってなかったんですよ
ただなんか研究論文みたいなのしょぼいやつを書かなきゃいけなくて、もちろん高校生だからそんなにレベル高くないんだけど、テーマがたくさんあって決められないなっていうところからデザインやりたい、SFCにしよっかなって
SFCって決してデザインのためにある学校では当時でもなかったし、今も必ずしもそうじゃないかもしれない
慶應の内部進学を止めて美大に行こうって言うほど強い意志があったわけじゃないんですね
弱い意志というか、僕が何でデザインをやろうと思ったかというと、この2冊の本に影響を受けたんですけど、どっちも高校3年生の時に読んだ本なんだよな
2002年でした、グラフィック社から出た情報デザインって今もう廃版になってる本とトム・ケリーってideoの共同創業者の一人ですね、ideoっていう世界で最も知られているデザインのオフィスがあるんだが、その発想する会社っていう本があって、これはね僕ら、湘南急行っていうのが、かつて、今は快速急行って言うのか分かんないんだけど湘南急行ってのがあって、そこが止まる下北沢駅で乗り換えて通学してたんですけど、実家から下北にヴィレッジヴァンガードがあってですね、高校時代の恥ずかしい思い出ですけど、後は1年生になった時に学外の恩師ができたんですけど、文化人類学者の竹村先生っていう人なんですけど、この人に何で出会ったかっていうと、高校時代一緒にバンドやってた
ベーシストの岩井くんと人がいて、彼が突然、渡邊さん週末一緒に文化人類学者の人の家行ってみない、みたいなことがあった
たまたま誘ってくれて、こういう誘いがあるってのはちょっと謎だと思うんだけど、旅行先で彼とばったり会ったんだって誘ってくれて、そしたら一緒に色んな社会実験系のプロジェクトを流れでやることになったみたいな
こういう図が何を表してるかって言うと、ビフォーアフターの矢印なんだけど、そこを媒介してるのがいろんな偶然があるっていうことを図示したいわけなんけどね、その偶然をもたらしてくれたのが岩井くんだってたっていう図ですね
あとは、語学選ばなきゃいけないんですよ
二外に第二外国語ね僕の場合、香港帰国子女で英語がある程度できたもんで、あの第3の言語を選ぶっていうこと自体が億劫すぎて、超テンション下がってたんだけど、たまたま大学生協でサン=テグジュペリの人間の土地っていう文庫本を読んで恋に落ちまして、すごい本だと、ものすごく言葉が綺麗なんですよ
堀口大學っていう詩人が訳してるんだけど、なんか永遠に丸によって、句点によって、その文が終わらずに、永遠に読点によって文学が続いて開かれ続けていくっていう感じの謎の日本語で、これ読んだことないなっていう感じですけど、何か選ばなきゃいけないんだったら、これをフランス語で読んでみたいっていう風に無理やり自分で理由をでっち上げて取ってみたら、ハマっちゃったんです
語学に、で異様にフランス語の授業で取れるフランス語の授業全部取るみたいな
わかんないんですよ、何が影響するのか
後は一年間留学したんですが、ちょっと飛ばして、就活あるなあっていうのはちょっと思ったんだけど、これも実は高校時代のバンドのベーシストが、先にスタートしたばかりのTakramに入ってたんですね
一緒にランチ食べようよとか言ってくれて、Takramメンバーと一緒にご飯食べて色々話してたら一緒に働こうよと、その場でなってしまい、最終的5人目のメンバーとして入って、不思議なもので高校時代のバンドのベーシスト岩井くんは何年か後にTakramを
卒業してアメリカ留学するから、もはや残ってないんですね
なので弱い人、偶然に導かれた僕の方がTakramに就いて、こういう風になるんだなと
すごい練習するベーシストだったんですね彼は、僕は練習しないギタリストだったんですよ、でまぁだから世の中には強い意志を持って必然によって切り開いてくって類の人もいるけど、僕はどっちかっていうと、そうじゃない派なんですよね
で、ただこの偶然とか弱い意志ってなんなのってなった時に大事なのは、偶然は運に頼るてことじゃないってのがポイントだと思っています
偶然はこれがあなたに大事な偶然ですよって言って、名乗ってやってくるものではないからです
で結局あのこれがいつか答え・ヒントになるかもしれないっていうところの回路とを結びつける仕事は、自分にあって、本来関係しないところを関係付けなきゃいけないからね
だから偶然、運がいいとかじゃなくって、これって何なんだろうって自分に問い続ける
その回路を外に開き続けることでしか、偶然が偶然にならないっていうところが結構あります
だから、この生協で出会った本って別にあのそこにはフランス語を書いてないわけよ、日本語しか書いてないわけ、後々からしかわかんないとなります
マーシャルマクルーハンて社会学者の人が、社会のバックミラー史ってこと言ってるんだけど、人間は社会について論じる時に、車のバックミラーに映った後ろの景色しか論じることができないんですね
フロントシールドの前に写ってる世界の事は、決して論じることできないと、過ぎ去った過去でしかやっぱり事後評価しかできない
これってあの思想家の東浩紀さんも面白いこと言ってるんですけど、子供が生まれると親子の関係どういうことかっていうと、親にとっては子供というのは偶然であると
その人と結婚するかどうかわかんなかったし、なんか無数にあるかもしれないその精子の中からある一つが選ばれて卵子と結びついて、その子供が生まれるっての、あくまで偶然でしかないと
もう一方で、子どもからみたらこの親からしか生まれなかったってことで、後から見ると必然になっているって言うことがあるんですね
事前に起こることはすべて偶然で、後からそれが必然であったってことがバリデートされると言うか、だからさっきの図で示したなんかビフォーとアフターのつながりってのは、あの後からだからこういう線が引けるんだけど、最初わかんないんですよ
で後から振り返ってきっかけだったかもしれないって風になるっていうだけだから、まぁある種明るい定年みたいなものをもつってことなのかもしれないんだけど、それを考えながら常に回路を外に開いていくっていうことをやり続けなければいけないというのがここからの学びです
だから弱い意志ってのは何かっつーと考えるなって言ってんじゃなくて、むしろ死ぬほど
考えるって事を言ってるんですね
何言ってんだ状態?これはテストに出ないんで覚えといてください(笑)
そんなこんなですよ、僕がその自分で勝手に名前をつける取り組んでいる仕事についてちょっと紹介させてください
さっき言ったように共に編むっていうことを考えてます
でなんで今の社会にこれが必要と僕は思ってるかって話をしていきたい
あのさーみんなあれじゃないですか、今ソーシャルメディア見るとコロナの状況下で
パンを焼いたり、料理をこだわったりしてるじゃないですか
家の中に篭っていると、自ら手を動かしてつくるっていうことに宿る喜びみたいなのを見出している
本当は前から作ってた人もいるし、でも作ることを忘れず、思い出してる人も多々いると思うんだよね
子供の頃みんな粘土好きだけど、次第にその喜びを忘れていくような時があってっていうような

でもよくよく考えるとね、1970年っていうのが実は、例えば服だったらある節目になってるんですよ
あの基本的にずっと日本では自家裁縫ってのが基本で、自分ん家の服は自分が作るお母さんなりが作ってくれるってのが普通だったんですね
統計上それが外で買ってくるものっていうのに入れ替わったのが1970だったんです
ほんの50年くらい前まで服って買うものじゃなくて作るものだったってことなんですね
大量生産とか資本主義がどんどん広まっていく中で、次第に買った方がが楽じゃんとかっていうような常識に切り替わっていったんだけど、ほんの数十年前まで基本的に物を作りまくっていたってのがまあ人間であるとね
それがちょっとずつリバイバルしていて、それが田中先生の3Dプリンティングとかにも繋がってるかもしれないし、今のコロナでみんながそれを思い出すきっかけになってるかもしんないんだけど、ただ消費するだけじゃなく、自ら作るっていうことをみんな思い出してきてるってのは、この悲しい寂しい状況の中のちょっとした光なんじゃないかなと思います
マスクを作るパンを焼くご飯を作る
龍安寺の石庭、枯山水様式ってのあるね
僕これすごい好きなんですけど、何が面白いかってこれって水の庭ですね、波紋の庭ですね、なんだけど水があるかって言うと水がないです
むしろあえて水が抜いてあるって状況、これは見る人がこの石稲荷を見つめながら水を波紋を心に思い描く、そして思い描くことによって初めて完成する作品だと思います
一番大事なメッセージっていうのが歯抜けになっていて、だからこそ人の想像力にスイッチが入るという状況がある
この受け手が参加する創作活動ってのは、めちゃくちゃ面白いなって個人的に思ってるんです
今の世の中はどっちかというとデザイナーとユーザーってのがはっきり分かれてて、企業とかデザイナーが作る提供するユーザー使うみたいなことになってるんだけど、本当にこれでいいんだっけってのが多くの問題意識です
でもちろん世の中にはこういうものもあると思うんですよ
たとえば消火器はデザイナーとかエンジニアが作った方が良くて、別にユーザーがつく必要ないっていうか、ジャンボジェットも別にユーザーがつくる必要はないんだけど、それ以外に実は、ユーザー一人ひとりが作った方が楽しいとかね、作ることによって意味が増すっていう世界は多々ある、そのことに考えていきたい
ロランバルトっていう記号論の学者の人が、作者の死っていうのを言いました
フランス語の人だけど仮に英語で言うなら、作者の死っていうのは death of the authorですね
authorってのはオーソリティと語源を共有していて、権威を意味するんですね
だから書き手ってのは権威であると、書き手がいいとしたことが正しいというような考えがかつてあったんだけど、いや作者は死んだのである、と、色んな読解が解釈が可能なのであるというような思想がはロランバルトやボーヴォワールとかから始まったかもしれないんだけどその辺の話がここにあって、デザイナーの死みたいなのも僕は考えてみたいなと思ってた
作者の死だけじゃなく、デザイナーの死ってのもあげるんだ
これ文学とか思想の話だけじゃなくて、いろんなことの創造活動に言えることなんじゃないかなっていうことを考えています
意図しないものの価値提供とか、未完成な物の価値提供っていうのを考えてみたい
だからさっきの売られてる段階では未完成の花束みたいなのを考えたりしたんですね
作り手使い手、強い文脈弱い文脈ってのが合わさってコンテクスト整理していくっていう、この弱いっていうの大事にしたいのてのが個人的な考えで、今の社会だと弱い文脈、使い手側の解釈っていうのが聞こえてこないです
もしくはtwitterなんかで聞こえてくるかもしれないが、基本的にリツイートされた方が強いって、数の議論の中で評価されるものになってしまっていて、n=1のある一人の物語というのに価値が宿るかって言うと、あくまでそれは大勢から支持を得た者だけが生き残っているっていう意味で、弱い文脈が強くならないと残んないっていう風になっちゃってんだよね
そういうことじゃないなっていう、着眼点はどうやって持ったかみたいな話が出てくんだけど、着眼点を持った理由はちょっと二つくらいあるんだけど、Q&Aの時に時間があったら話します
でもよく考えたら、色んな新しい価値っていつもあの弱い者っていうか、社会的に認められていないものから発する、あらゆるものはそこから発すると
楽茶碗っていうのは千利休が作らせたと思うんですけどそれまでは、基本的には唐物って言うね、茶道では唐物っていう大陸からやってきたもの、海外からやってきた舶来物が価値が高いとされていたものが、いやいや国焼でいいんじゃないみたいな
デュシャンの泉もそうですね、アートってこれでいいんじゃない?みたいな
大量生産のものにちょっとサインてみたよ、ちょっと傾けて置いてみたよ、みたいな
ビジネスでもそうだと思いますね
ウォークマンとかこれだけど、小さくすること持ち運ぶことに誰も意味を感じられてなかったっていう時代とか、airbnbとか今ちょっと苦境になっちゃってるけど、まだ世の中に認められてない価値が確かにあるはずだとこれを世に問うてみるんだっていうのって、自信をもって発表できる人って世の中にいないですね、必ず批判が怖い
誰も認めてもらえないかもしれないっていう恐れと悩みみたいのを抱えながら、弱いものを弱いままに置いとっていくっていう活動が必ず先にあるっていうところですね
なんか僕は、あらゆる人がちょっとずつ創作活動ができる世の中ってのが本当に楽しいんだろうなっていうことを思っています
というのは僕は自分はデザイナーなんだけど、自分がものすごく優れた創作者だと思ってなくて、むしろいろんな人の創作者じゃない人の創作に耳を傾けてみたいという思いが強いんですね
みんなのクリエイティビティは、ほんとは凄い高いんじゃないのって思っている
だから創作ってどうやって起こるのと、あらゆる創作は今までその人が得てきた経験とか、見てきたものを見上げ直して、それを自分なりにくっつけて捻出して出すものだとしたら、他者による表現っていうのが自分の表現にシフトしていくっていうことになりますね
だから見たり干渉したりするってところが自分の解釈とか考えになって、その考えが形になってくっていうこの三つの段階の摩擦があるよね
フェーズの切り替えのシフトにエネルギー要るんだけど、このエネルギーがいかに滑らかに軽くできるかと
これを軽くやってくっていうのをサポートしたいと思うんです
相続したくないとかあるじゃん、人に伝えたくないからみたいなのもあると思うんだけど、そういう人はいいと思います
コンテクストデザインも別に人に創作を強いるものではないし、強いるべきでもない
ただし日本の社会の中の、特に自分の意見は大したことないかもしれないから言わないとか、本当は言いたいけどちょっと自信がないっていうふうに押し留まってしまうことがとても多いですね
本当は世に出るはずだった物が出ないままに終わるっていうことが多過ぎるかもしれない、だからそれを少しでも多く外に出してほしいっていうのをやっている
アートの話でいくとアートも参照するとヨーゼフボイスっていうドイツの彫刻家がいました、この人結構アバンギャルドのおっちゃんだったんだけど、人生は世の中の全員で形作る社会彫刻だ、誰もがアーティストだっていう
まぁノヴァーリスとかもこれ彼より前にこういうこと言ってんだけど、こういうこと言った人はいました
どんな人間を社会のために働ける、歯医者看護師ゴミを出す人母親部長工場長マネジャーあらゆる人が、みんな実はそれぞれの意味でアーティストである、ということを言ったんですね
でも彼は何でこういうことを言ったかって言うと、結構政治的環境的問題意識を世の中に発したいと思いがあって、ある種リオタールが言うところの大きな物語と言うか、みんながこれをやるべきなんだっていう政治的主張がバックボーンであって、そこに賛同してもらうための手段として、一人ひとりの声に耳を傾けるって言う、結局は一人一人の多様な声に耳を傾けるって言うことと、自分のメッセージを届けるっていう事が一つの形になってた場合なんですね、僕が目指したいのは
こういう政治活動としてのっていう意味ではなく、どちらかと言うと多様な世界がちゃんと多様のままであるには、どうしたらいいのかってのを考えたい
例えばじゃあそれSNSで出来てるじゃん、と思うかもしれないけど、ちょっと違うと思うんですよ
例えば食べログのコメント欄にバーって色んなお店のおすすめのコメント書いた
それってコンテクストデザインかって言ったら僕はちょっと違うと思ってるんだね
なぜならば食べログって、結局あらゆるお店を5点満点の平均の星の値に換算していく
でしょう
で、このお店は3.5だから結構いいぞとか、4だからやばいぞとかって言って、みんなそこに行きたいと思うし、行ってみたら美味しいから5点をつけるとか、4点をつけてやっていくんだけど、それって結構無理があるなと思うんですよ
つまり万人から好まれるものは本当に正しいのかとか、あらゆるお店は0から5点の同じ尺度で測っていいんだろうかっていうところが、ないがしろになっている
でそれってn=1000、n=10000って、母数が増えれば増えるほど確からしい答えだとされるけど、それって俺の趣味と本当に合ってんのっていったら、誰も答えてくれないわけですね
n=1の一人の物語って何かって言うと、あの100人とか1000人なくてもいいんですよ、あってもいいんだけど、ひとりたったひとりの物語が意味を持つってのがn=1の世界でたった一人が言ったことに何か自分が共感できるかとかね、接続できるかっていうところにむしろ価値があるって言うこと、世の中にはどっちも必要だと思うんですね
平均を求めたくなる時があるけれども、同時にひとつだけでいいものがある
一つだけいい物っていうのを増やすためには、一人一人の創作がないといけないかなっていう風に思ってるかな
だからよくありがちな、なんか資本主義社会っての左手だとして、コンテクストデザインが目指すものが右だとしたら、まこんな感じかなと思うんですよ
webとかってのはpvを目指すとかね、同じ尺度で物を、でこうするとどんどんどんポピュリズムになって行って、なんかよくわかんないゴシップとかエンタメになってしまうっていうところに落ち着いちゃう、こういうのじゃないと思っている
だから便利でいいものみたいなのはあんまりもう飽和してるから、どっちかで意味があるもの、自分自身がつながりを感じられるものっていうのも僕は必要になってくるなというふうに思うんです
で、そういう世の中にどういうものがあるのっていうのを、なんかガンガン本当は説明したかったよっていうのがこのへんですね
で、課題でみんなの一冊とか聞いたけどあれがどの辺から来てるかっていうことをちょっとだけ紹介すると、例のn=1って話があったじゃないですか
社会に出て仕事をするようになると、どうしてもn=1000とか10000の世界にばかり寄ってきてしまうんですね
でみんながいいと言いそうなことは正しいって思うとか
でもあのバランス取るのってすごく難しくて、さっき田中先生が言ってたように、研究ってのはむしろ常識を疑うことから始まるんだって話があったけど、n=1とかとのバランスとか接合点みたいに、どうやって自分で見出せしてくかってことがずっと大事になってくると
で、n=1000の世界にだけ染まってくの非常に簡単なんだけど、それって自分じゃなくて
いい仕事になっちゃう可能性があるんですよ
自分がやりたい仕事って何なのっていうところを弱いもの弱いまま世に通って行くことができるかとかもね、自分を自分たらしめてるものとか弱い意志とかってものを象徴する存在として、みんなにとっての大事なものはなんだろうってのに耳を傾けたかったから、一冊の本の課題を出した
お互いの課題が見れるようになってるので、良かったら皆さんお互い覗き見てください
きっと皆さんお互い寂しいから、それを覗き見することでちょっとを自らの心を撫でる
みたいなことになるんじゃないかと思うんだ
で、弱い者が弱いまま表出する例と、みんなへのアドバイスみたいなのでちょっと締めくくりたいんだけど、森岡書店ていう本屋さんの立ち上げを僕は手伝ったりしました
何かというと、一冊しか置かない本屋っていうやつなんですけど、銀座にあるんだけど、一週間のうち一冊だけ本を置いて、正確に言うとワンタイトル複数コピーが積まれていて、一週間の間それだけを売るっていう本屋なんだけど超面白いんですよ
著者本人がお店に立つっていうルールになっているから、一週間の間お店に出かけていくと、実際に著者の人と会って話をできるっていうやつなんだな
これは人と会えるとか人と語られるとかいう風になってんだけど、世の中の常識を完全に裏切ってるわけですよ
その場所いらないじゃんとか、在庫が多かった方がいいじゃんっていうamazonの常識みたいな真逆をやることで、むしろ何か大事な新しい価値を思い出すっていうことなんだ
これは盛岡さんというある人がやろうって言い出して僕が手伝ったってことなんだけど、ある一人の弱い意志弱い文脈みたいなものをあえて世に問うってところから始まった、もちろんコロナで今苦境に立たされています
場所に訪れることできないんで、盛岡さんと一緒に次の先を考えてるところだから、乞うご期待って感じで、最後にちょっとコロナの時代だからこそ出来る事みたいな話で、ちょっと締めくくりたいんですけど、この三つだと思ってるんですね
新鮮な目っていうところと、名前のない時間っていうのと、深い読みっての、三つ書いてます
一番左が、左に行けば行くほど抽象度が高くて、右に行けば行くほど具体的になってくんだけど、みんなこれをやってみるとコロナの間でも楽しく過ごせるんじゃないって僕なりの考えです
新たな目ってのはどういうことかっていうと、みんな家に閉じこもっていて新しい刺激がないとマンネリ化してくると思うんだけど、家の中で常に新たな目線を持つにはどうしたらいいかと考えていく
突然雪が降るといつもの通学路とか通勤路がパッと全然違って見えるってことがあるもんだけど、雪が降ったらね、誰しもそれは違う景色になるんですと
雪が降ってないのにその景色を想像することができるかってのが考えなきゃいけないことでこれは態度の問題ですね
葛飾北斎って有名な絵師が江戸時代にいたんだけど、彼は人生のうち93回引っ越しして30
回名前を変えたと言われてるんですね、掃除したくなかったらしいんだよね、散らかった引越すとかっていう
死ぬほど創作を続ける彼は、あの70年間一回も休まずに一日一枚絵を書いたとしてもまだ足りないくらいの枚数絵を書いたと言われるんだけど、こうやって引っ越しし続けて、名前変え続けたっていうのも結構関連してんじゃないかなと、因果関係どっちが先かわかんないけど、やっぱ常に新たな環境に身を置きながら、どんどん新しいものを生み出し続けるって言うのは、あのインプットを変えるとかね日常を変えるっていう事によって起こったんじゃないかと
で今みんなは引っ越せるか、今みんなが旅行行けるかっていったら行けないので、態度によって目線をアップデートして行こうっていうことを提案したいわけです
僕の好きな江戸時代の哲学者に三浦梅園って人がいてですね、枯れ木に花咲くより生木に花咲く驚けっていう風に言うんだけど、みんななんか奇跡に驚きがちで枯れ木に花咲いたらびっくりして、わって言うんだけど、そうじゃなくて生きてる木が毎年春になるとちゃんと花を咲かすっていうこと自体に、一見当たり前のことにちゃんと目を見張るような、センスオブワンダーを持てているかってことを問いなさいというんですね
地震に驚くんじゃなくて、何で普段揺れないのかってことに注目しなさいと、これが常識を疑うっていう最初の田中さんの話にもつながっていくんだけど、この辺を考えていく
だから同じものを語る時に語り方を変えるとかあのちょっと違う人と話してみると
かっていう、そういうことの積み重ねが常に自分の中の態度を更新していくはずで新しい自分を作っていくはずで、その辺を考えてみようよと
あとは動物の回路に群がる欲望と欲求ってのがあって、アレクサンドルコジェーヴっていうフランスの思想家が言ってる話なんだけど、動物ってのは欲求で生きてると
それは自分の本能は一人の中でだいたい満たせて、今飯食いたかったらくん寝たかったんだと
人間は欲望っていうのを持ってて欲望ってのは他者と交わることでしか、なかなか社会的な夢とかね、回路を外に開くことになって初めて達成できるってのが人間の欲望でこの違いってのがあるんだと
だからフィルターバブルみたいに中に留まってるんじゃなくて、それをいかに外に開けるかってところがポイントになってくる、これは新たな目を常に持ち続けられるかってとこが態度の問題です
具体的には何したらいいのって言ったら、僕のお勧めはぼーっとしなさいっていうことなんですけど、とにかくボーッとしなさいと
まぁ授業の連続、zoomの連続で俺みたいな人が資料を見せまくったり喋りまくったりして、みんなが段々疲れてくるわけなんですね
あまり良くないと思うんだけど、なんで疲れてくるかっていうとちょっとした休み時間に
教室の間を移動する時間が本当は大事なんだよね
ちょっとした授業の間に本当は話すつもりじゃなかった人と話せちゃうってのは、それって授業、休み時間、授業っていうだけだったはずなのに、いつのまにか喋ってるとかいつのまにか生協行ってるっていう中で、なんか例の偶然みたいなのが起こっていたかもしれない
で今それがなくなっていますと、だからズームに疲れてるんじゃなくて、全ての時間に名前がついちゃってることに疲れてるんだと思うんだよね
なら名前の外に外れるもの、偶然自分の懐に転がり込んじゃうものってのをいかに慈しめるかっていうのを意識的に作んなきゃいけない
それは人との交わりみたいのもあるんだけど、自分だけの時間にもたぶん作れるはずで、あの洗濯したり掃除してる時間っていうのは結構いい脳内散歩ができる大事な時間なんですね
料理作るとかね、そういうのをとにかく夢遊病的に脳内散歩、リアル散歩とかを重ねていくことで名前のない時間を楽しんでいくっていうのやってみたらどうだっていうのと、
zoomするにもzoom飲みをやるんじゃなくて、無言の時間でただ繋いでみるとかね、名前のない時間を取ってみるとかてのは良いんじゃないでしょうか
皆あのよかったら調べてみて欲しいんだけど、脳トレとかで知られる任天堂DS脳トレとかで知られる川島教授って人がいるんですけど、川島教授と仙台教育委員会が9年間にわたって小学生の子供の学力とスマホの使用時間の関連を調べたところ、結構びっくりする結果が出てきたと
まぁ予想通り学力が下がる人はスマホを使いすぎてるって理由なんだけど、それはスマホを使って勉強できないからではなく、眠ってないからではなく、みんな一定の勉強時間と睡眠を取ってるのに成績が下がる
調べてみたら、脳みその成長が止まってることがわかったそうです
これは結構シビアな問題だと思うんだけど今、まぁよくわかんないクリニックの先生からすると、スマホ認知症とか言い初めてこれ結構あるみたいで、みんなにすぐググっちゃったりすると、自分で考える能力っていうのがどんどん衰えてくるみたいなんだよね
どうやってこういうのから回復するのって言ったら、ちょっとやっぱスマホに触らない時間とか超大事で、もっと言うとあの、本読んでる時間というのがものすごく脳にとって良いということが分かっています
プルーストとイカっていう本とかね、同じメアリアンウルフっていう著者が書いてる最近の新刊とか読んで欲しいんだけど、フロー状態、ゾーンに入るような感じで、本読んでる時ってミラーニューロンとか運動ニューロンとか、共感の回路とかってのが脳の中でバチバチ発火すると
そうすると深い読みができて、批判的な読みもできるようになる
批判的な読みができないとどうなるかっていうと、ネットに書いてあることをすぐ信じて
リツイートしちゃうとか、自分で調べるところを怠ってしまうとかっていうことになっちゃうんですね、これ浅い読みですね
でその深い海に至るかっていうのが自分の脳を鍛えて考える能力ってのを育むっていう風に言ってるんです
一見すごい普通の話に聞こえるかもしれないんだけど、これがあの体育会っぽい印象論じゃなくて、脳科学の話であるっていう風に捉えてもらって、この辺をちょっと深掘りしてもらえるといいんじゃないかと思うんだな
左に行くほど態度よりで、右に行くほどなんか実戦よりなんだけど、これやると何が起こるかって言うと、自身の回路を偶然と他者に開いていくっていう、最初の話にちょっと通じるところ、想像とか妄想をやめない、n=1の自分っていうところを社会に騙されないようにずっと持っておく、脳みそが散歩してしまうような何もやってない時に働くデフォルトモードネットワークと呼ばれてる所っていうのを、何か受け入れていくっていうのが、こういうのにも繋がってくるかなと思ってて、是非やってみていただけると良いんじゃないかと思ってますよと

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