第6回2 駒崎弘樹さん (フローレンス)

認定NPO法人フローレンス代表理事の駒崎です
正忠さんが一期生なんですけども、あの僕は10期生ということで、ちょっとその正忠さんの時は本当に何もない単に養豚場の隣の土地だったと思うんですけれども、あの僕の時はメディアセンターとかはギリできてたっていうところで、ちょっとできたSFCで青春時代を過ごしました
ちなみにSFCネタで言うとそうですね、僕たちもゼロから作ったとかっていうのは、僕はの映画研究会をそのmoveっていうサークルを作りまして、ぜひみなさんも復活したらサークル入っていただけたらなと思いますけども、まぁ、そんなようなこともしました
で、今日はですね、本当にあの最初正忠さんがインスパイアリングの話をしてくださったと思うんですね、そこに少し肉付けと言いますか、どうやってじゃあ世の中を変えてくんだみたいな話をですね、この僕自身が過ごした人生、半生を通してですね、お話しできたらななんて風に思ってます、40分くらいでお話しできたらいいなと思ってます
事業で社会課題を解決する、フローレンスの闘いの軌跡を通じて、と題してお話しさせていただきたいと思います
あの質問とかあればですねどんどん入れていってもらえたら後で4限でですね是非お答えさせていただきたいと思いますので、手動かしながら聞いていただけたらなと思います
今フローレンスはですね、あの認定npo法人フローレンスは主に6つのですね事業をしています、病児保育また障害児保育、特別養子縁組、低所得の子供たちに食品を届けるという子ども宅食などなどを行っているんですね、社会事業をやっている団体です
今です、規模として30億円ぐらいでスタートからすると600を超えるというような規模になっています
僕自身はですね、あの79年生まれで今40歳です、久美ちゃんとはですね、同い年、今村久美さんですね、なんですけど、ちょっとあの僕があの高校時代留学してたので留年してると、で、学年的には一個下というような感じで、あの辺の層の世代ですね
で、SFC卒業と同時にこのnpo法人フローレンスを設立しました、でその後ですね、またお話しするんですけれども、様々な政府の審議会有識者会議などに入ってですね、現場で社会事業経営しながら政策を作っていくというようなことにも携わっているということをしています
またnpoだけでなくてですね、あの医療法人ですね、クリニックとかも経営したりして、複合的にフローレンスグループということで経営しているという風になっています
で、僕はですねこのSFCを卒業して、フリーターになってですね、このNPO法人フローレンスを始めた時に、一番最初に解決したかった課題が、子供が突然熱を出すというような課題です
そのきっかけは何かって言いますとですね、実は僕はSFCに入って、当初はですね、あの物書きになりたかったんですね、あの映画サークルを作って脚本を書いたりとか、そういうことをしてたんです
けども、まぁSFCに入ってですね、自分の才能のなさに気づきまして、あこれじゃ自分はちょっと難しいなと思って、それでこうすごい試行錯誤をSFCの4年間しました
だから最初っから確固としたなんか経営者になるぞとか、起業家になるぞとかってのはあったわけではなくて、本当に自分が何者になればいいのだろうかということを模索してきた4年間だったような気がします
で、その中でですね。大学3年生の頃にたまたまその同級生とITベンチャーをはじめまして、であの当時はですね、正忠さんは本当にあのIT先駆けみたいな時代だったんですけども、それよりもちょっと経ってインターネットは皆インターネットと分かり始めてきて、ホームページを作ろうとかそういった時代になっていました
まぁSFCだったんでですね、ウェブを作ったりとかっていうことは結構できたりしたので、当時ですね一つweb作ると300万円ぐらいもらえたっていう企業がね、そういう良い時代だったので学生数人でですね、webとかwebシステムとか作ってそれで受注して何百万か稼いでみたいなことをしてて、なんで学生数人でですね何千万円単位のですね売り上げあげられたと、そんなような時代でした
その学生のITベンチャーを大学3,4年生の頃経営していたんですね、でも、そのままですねなんかこうIT業界にレッツゴーみたいな感じでしようと思ってたんですけれども、2年ぐらいやってですね、本当に俺たちやりたいことなのかってか俺がやりたいことなのかなっていうことをすごく戸惑ったんですね
で、何かって言うと、例えば街のワイン屋さん、藤沢のワイン屋さんとかにですね、あのIT革命ですとかって営業してですね、ワインをECで売るみたいなシステム作ってたんですけど、それ400万ぐらいで受託したんですけど、なんかこれ楽天入ると月々5万円とかで提供できるシステムだったりするんですよね
で、本当にこういうことをやってていいのかなみたいな風に思ったんですよね、つまり何これ誰の課題を解決してんだろうか、確かにこれは自分たちとして儲かるし、やってて楽しいし、儲かったら色々ね、大人に混じっていろんなことはできるしいいけど、本当にこれって自分がやりたいことなのかなということで、すごくあのアイデンティティクライシスに陥っちゃうんですね
大学4年生くらいの時ですね、でも片やですね学生社長とかってちやほやされててメディアとか出て、なんかすごい年上の生命保険会社の営業マンから接待受けたりして、なんかそういうのもあって、方や社会的評価あるけど、でも本当はやりたいことじゃないみたいなことで、すごいアイデンティティクライシスに陥って、自分は本当何したいのかなってこれすごい悩んだんですよね
で、悩んだりなんだりってこうしてた時にですね、あの自分の母親がベビーシッターをしていまして、その母親からこういう話を聞いたんですね、うちの母親のお気に入りのお客さんっていうのはいまして、双子のママだったんですが、そのお客さんがある日突然うちの母親に今日で最後にしてくださいってことを言い出す
うちの母はですね、何かこう自分でこう失敗ミスをしてしまったのかと思ってですね、それで嫌われちゃったのかと思ってなんかしちゃいましたかねーとかって言うことを聞いたところ、その方はいえいえあなたはね、本当にこの子たちの親代わりになってくれて心から感謝してますと、あなたが何かしちゃったとかじゃ全然なくて、私が会社をクビになっちゃったんでもうシッターさんを頼む必要はなくなっちゃっただけなんですよということを言われたと
で、あなたみたいな良い人はなぜクビになっちゃうんですっていうことを聞いたら、彼女はこう答えるんですね、あの双子の子達はいつもは普通に保育園に行ってると、なんだけれどもウチの保育園は子供が熱を出すと、37.5以上の熱を出すと預かってくれないと、この前自分の子達が熱を出してしまって風邪をひいてしまって、会社を休んで看病せざるを得なかった、双子だからお互い移しあってしまって割と長い間会社休まざるを得ないと、そしたら会社が激怒して事実上クビになってしまったという話をですねされたわけですね
その話をですね母から聞いてですね、いろいろ何かこう不思議な気分になったわけなんですね僕は、というのもですね子供が熱を出すっていうのは当たり前の話だろうし、親が親として看病するとかってのも、当然のこと、しかしそんな当たり前のことをして職を失ってしまうような社会に自分は住んでいたのかということにその時初めて気づきまして、それってありえなくねっていうこと思ったわけなんですね
で、うちの母はですね、そのプロだったらね、預かってやればいいのにとかっつってですね母親と喧嘩になってやりゃいいじゃないかと言ったらですね、いやあんたなにも分かってないわねと、普通のベビーシッター会社はリスクの高い子を預かっちゃダメって言ってるし、預かるそういう方法がないのよこの社会じゃということを言うと、でじゃあ僕がちっちゃかった頃どうしてたのとかって聞いたら、あんた忘れたのと、あんたね同じ団地に住んでた松永のおばちゃんが預かってくれたじゃない、覚えてないのこの恩知らずがって言って怒られた
で、実際僕がちっちゃかった頃はですね、僕は東京都の江東区って下町の団地に生まれ育ったんですけども、その3階下にいたですね松永のおばちゃんっていう、別に叔母でもなんでもなくて、普通のそこら辺の地域にいたおばちゃんだったんですけども、彼女がまあ僕は病める時も健やかなる時も預かってくれて、なんとかうちの母親は共働きできて、僕の実家はですね、結構貧しい家でなかなか母親が一生懸命働かないと食って行けなかったっていうこともあって、そういう意味ではおばちゃんがセーフティネットになってくれて、なんとかこう暮らしていけたいう、そういうバックグラウンドがあります
なので、そういう地域の助け合いみたいなものが、僕がちっちゃかった頃あったんだけども、もうもはやないという状況、こうした状況の中で女性が母親が一生懸命働いているにもかかわらず、子供が熱を出したぐらいで職を失うっていうそんなふざけた社会があっていいものかっていうのを悩みましてですね、それだったら自分が作ればいいんじゃないかなと、そうした新しいセーフティネットをと思って、じゃあまあITベンチャーね、なんかここでいいのかなとかと思ってたし、ということで卒業と同時にITベンチャー譲って、フリーターになって、NPO法人フローレンスを立ち上げたということだったんですね
あの当時はですね、今でこそNPOとか誰もかも知ってるし、皆さんこの三百数十人ですね、コロナ1期生の皆さんも知ってると思うんですけれども、あの当時npoとかって誰も理解してくれなかったんですね
NPOって読んでくれさえもしなかってんですね、名刺交換とかするとですね、何ですかこのンポってとかっていう風に言われるぐらいですね、知名度無かったわけなんですね
だから本当もう超イバラの道って、イバラどころか誰も知らないみたいな道だったと、かっこよくもなんともないわけですね
あの自分のその同級生はSFCですね、みんなゴールドマンサックスとかマッキンゼーとかピカピカの就職偏差値高いとこ行くわけで、僕だけンポですからね、本当になんかこう、社長社長とかって言ってチヤホヤしてくれてた営業マンとか誰一人近寄らないし、友達だと思ってた奴とかも、あぁコイツ終わったなみたいな感じで誰一人近寄ってくれないっていう、そういう逆境の中ですね新しい領域に足を踏み出して行ったわけなんですね
本当辛くて、なんか当時は起業家とかすら思ってもらえてなかったわけなんですよね、単に何かこうよくわかんないフリーターの人みたいな感じな扱いで、後に実は2008年ぐらいに僕が起業したの2003年なんですけど、2008年ぐらいにアメリカのソーシャルアントプレナーっていう言葉が日本でもニュースされて、社会起業家という言葉ができて、日本の社会起業家がいるのかなとかって見渡されて、あの人かもって言って、それで社会起業家扱いされた日本の社会起業家第一号的な扱いを後からされたみたいな感じだったので、だから本当ね、そうやってみんなあの人はすごいとか言って、ニューズウィーク世界を変える社会起業家100人に選ばれていくわけで、まぁいい加減なわけですよ、ンポですからねその5年前は
全然やってること変わんなくて、なんかその5年後とかに、あの人社会起業家だみたいな、人の価値観とかそういうの本当いい加減で全然関係ない、だから皆さんもどんなに人に何を言われようがいいんですよ、人なんて5年後10年後もうぜんぜん意図が変わるんで
そういう意味でですね、まあ新しい文化を創っていく、新しい価値観を自ら作り出していくことをすればいいというような話なんですけど、当時はですねそんなこと全く分かんなくて、心細くて、本当にですね、イバラの道を進んでいくということもしてきました
で、子供熱を出した時に誰も預かってくれないっていうところに対して預かりますよって、これ病児保育っていうんですけども、当時は保育業界の中で最も社会的に遅れていたわけなんですね
その当時ですね、今から20年近く前は、病児保育って言葉もうまくできてなかった時代だったんですけど、一応細々と保育園の隣とかクリニックの中とかでちょこっとやっていた、これは国の補助をもらって、定員数4人とかでやってたわけなんですけども、なんでこれ広がらなかったかっていうと、これ成り立たないんですね、経済的に成り立たないと
何で補助金とか貰ってるのに成り立たないかというと、補助金もらうとガチガチに縛られてですね、値段をつけるっていう自由を奪われちゃう、価格決定の自由を奪われてしまって、1日預かって2000円しかもらえない状況になってしまうんですね
補助金って補助するための金なんだけど、それ貰うと成り立たないという、非常にパラドックスですよね、こういうのよくあって、霞ヶ関はですねまあ現場も分からんで適当に決めた政策ってのは腐るほどこの国にはあって、それをですねもらっちゃうと逆に大変な、そういう状況になると、だから新規参入も広がらない、そういう状況があったわけなんですね
で、これどうしようかなと思って、じゃあそんな補助金とか貰ってやっても埒あかないんだったら、自分たちで新しいソーシャルビジネスモデルを作ろういうことでですね、日本でなかった、施設ではない、施設を持たない訪問型でかつ共済型っていう仕組みを作ろうということで初めました
どんなビジネスモデルかっていうとですね、こちらにあるように、フローレンスがありまして、フローレンスが地域にですね、子供レスキュー隊という方々とネットワークしておきまして、この方々がこの利用者さんとかのとこに助けに行くわけですね
で、助けに行って預かってあげると家で、で時にですね、医療機関を受診してあげて安全な保育というものを行いましょうということです
だから施設に預けるんじゃなくて行ってあげるっていう、病児保育専門のベビーシッターみたいな仕組みでやろうということにしたんですね
例えて言うならですね、僕にとっての松永のおばちゃんをですね、大量に地域にネットワークしといて、その方々が子供たちのとこに助けに行くにいくみたいな、そういった仕組みになっています
でこれ、そのビジネスモデルとしてますって言った時にですね、当時そのベビーシッターってのは一応はあったんで、ベビーシッターみたいな形で1時間いくらで回せばいいかなとかって思ってですね、エクセル君と相談したんですけども、これ一時間3500円とか4000円とかもらわないとなかなか成り立たない、そういうのはそのぐらいのお金払える人っていないし、そもそもそのような高所得者層じゃないと使えないっていうサービスだと、世の中の人助けられないなと思って、ちょっとやっぱビジネスモデルを工夫しようという風に思って、当時サブスクっていう言葉はなかったんですけど、サブスクリプションとことはなかったんですけども、今でいうサブスクの仕組みにしました
すなわち発病率に応じて、月々の月会費を掛け捨ててもらって、それで一回までは無料で使えるよって仕組みにしたんですね、それで、使わなければ月会費は下がってくし
使えば上がってくるみたいな、保険みたいなモデルにしたんですね
こうするとたくさん使うと、全然健康なお家は使ってるとこ掛け捨てになってくんで損しちゃうんですよね、なんだけどもたくさん使うおうちをそれで助けられるっていう、共済という風に世の中で言われますけど、より困ってない人は困ってる人を助けるっていう、みんなで助けるみたいな、昔でいうところの頼母子みたいな仕組みなんですけども、まあそういうような助け合いの仕組みをすればですね、一人一人が薄く広く負担して困ってる人を助けられるっていう風に出来るんじゃないかっていう風にやりました
で、これもですね、話すと長くなるんで全部話さないんですけど、当時ですねこの仕組みでやろうと思ってですね、あのコンサルタントの方とかと相談したんですけど、みんな口を揃えて絶対成り立たないと言われました
なんでかっていうと、過去例がないから、子育て支援のサービスにおいて、使ってないのに金を払うサービスっていうのは存在してない、諸外国を見てもないと、だからゆえに成功しないだろうという風なありがたいお墨付きを頂いたわけですね
すごいなあやっぱ頭いい人の言うことは違うなーと思ってですね、やっぱりそうだよなと、事例がないと成り立たないよなとか思ってですね、実際本当にそうかどうかですね、確かめてみようと思って、保育園の前でですね。お母さん方を待ち伏せしてですね、アンケートを手に待ち伏せ、完全に変質者ですけど、飴と一緒に配ったわけですね
例えばこういう仕組みであって、病児保育をねやったとしたら、あなたは入りますか、入って金を払うといくら払えますか、300人ぐらい撒いたわけです
そしたら結果としてですね、半分以上の人がそれでも使うっていう風にですね、答えてくれたんですね
偉いコンサルタントの先生とユーザーどっちを信用しよう思って、ユーザーでしょと思って、じゃあやろうとかって言ってやったわけなんですね
結果としてですね、まさか成り立ちましてですね、絶対成り立たないと言われた保育の闇という可愛いニックネームが付いている病児保育業界で、成り立つモデルというのが作り出せたというのとなんですね
そのユーザーの方々には非常に喜ばれました、すごい印象的だったこういうユーザーの方がいました、彼女は一人親で僕と同い年の人でした
彼女が電話してきてくれて、当時は人数も少なかったので一人一人の顔が一致して、駒崎さん、今日嬉しいことがあったんですよと、どうしたんかって聞いたらですね、私ね一人親だったからずっと非正規雇用だったんですよ、一人親で子供が熱を出すとよく休むんで責任のある仕事を任せてもらえないで、だからずっとそのまま非正規雇用だったんですけど、フローレンスに入ってから休まなくなって、それで責任のある仕事を任せてもらえるようになって、正社員になれたんですよって嬉しそうに報告してくれた方がいて、その言葉を聞いた時にですね、僕は本当に何か電話口にですね涙しましたね、単純なので
そのぐらいそれは嬉しかったです、というようなことがあったんですけど、当初はその東京都のですね江東区中央区ちっちゃいエリアから始めて、首都圏全体に広げていって、いま千世帯を超えて、日本最大のですね病児保育の団体になりました
創業15年で大きな事故はゼロというようなことで、ありがたい事に本当にこういうのって俺だけこういった社会的に評価を得ても広がったとしてもですね、子供の命が失われたらそれでもうおしまいだと思ってるんですけど、そういったこともなくですね事業を続けることができて、社会的インフラっていうものを作ることができました
で、さらにですねこんなこともありました、うちの利用会員さんの一人にですね少女漫画家の方がいらっしゃって、この人がフローレンスをモデルに少女漫画を書いてくれました
その少女漫画、小学館漫画大賞ってのを受賞しまして、37.5度の涙って言うんですけれども、37.5以上の熱を出すと保育園に預けられなくて涙する社会課題があったっていうことを漫画にしてくれて、それがテレビドラマ地上波になってですね、全国に放送されることになったりしました
この保育業界最もマイナーな病児保育という問題がお茶の間に広がっていたということがあります、よくこれフローレンスをモデルにしてるんで、駒崎さん誰ですかって言われるんですけど、全くイケメンしかいないので、自分がモデルになりましたとか全く憚れるので言えないし、まぁちょっとですね、一部の役者さんがですねいろんな問題を起こされてしまってですね、再放送が二度とできなくなったっていう幻の番組になっちゃったんですけども、非常にいい番組なので、是非見ていただきたいなと
これ嬉しかったのがですね、熊本の中学生から電話があって、この番組見て、その中学生かですね、私病児保育士になりたいんですけど、どうやったらなれますかって電話口で聞いてくれたんですね、これすごく嬉しくて、というのも病児保育士って職業それまでなかったんですよね、なかったんですけど、我々がある種事業を行ったことによって新しい職業ができた、新しい職業として認知してもらえた、次世代の若者たちに、すごく嬉しかったなっていう風に思いました
今となっては病児保育なんて当たり前のものなんですけども、そういう意味で新しい当たり前を作れたかなという風に思っています
で、次にですね、やったことはなにかって言うと、保育園に入れないっていう問題がありました、それに対してトライしました
これきっかけはうち社員で新卒で入ってくれた社員が結婚して出産して、育休を取って戻ってこようと思ったんですけど、戻って来れなくなったという事件が勃発したんですね、なんでかっていうと、子供が保育園に入れなかった、で、それをですね聞いた時にマジかって思ったんですね、そんな事ってあるの、でもあったと
今待機児童問題って結構メジャーだと思うんですけど、当時メジャーじゃなくて、そんなことあるんだとか思って、じゃあ僕はね、病児保育もやってるし保育士もいるからこの子のために保育園を作ってあげようと思って、保育園を実際作ろうと思ったんですけれども、それで役所に聞いたらものすごいたくさんいろんな規制があったんですね
あれやるな、これやるなみたいな、そんで一番困ったのはですね、定員数が20人以上いなければ保育園として認めませんっていう、20人の壁だったんですね、20って言うと結構広くなきゃいけなくてですね、それだけの土地ってなかなか首都圏には無い訳でして、そうなんだと、かつそういう物件、商業物件とか探してもですね、坪単価が高くてなかなか保育園としては作りづらかった
なんで20人なのかなと思ってですね、20人とかじゃなければ、それこそ9人とか10人であれば、例えば空いてるマンションとか空いてる一軒家のが腐るほどあるから、それを保育園にできるのになと思ってふと疑問に思ったのでですね、なんで20人なのかなっていうのを厚労省に電話して聞いてみたんです、厚労省保育課っていうところに、でそこに電話して聞いてみたら、その電話の向こう側の担当が、なんで20人なんですかって聞いたら、その担当課がですよ、しばし沈黙して、理由はちょっと分からないんですけど決められてることなんで従ってくださいという風に言ったんですね
それで思ったんです、これは理由がないなと、もし20っていう数字、人間工学的ななんかエビデンスがあるんだったらなんか従う意味もあるだろうけど、なんか理由がないんだったら従わなくてもいいかなっていう風に思いましてですね、それでですねたまたま知り合いのおじさんがですね内閣官房副長官だったんです、で松井さんって言うんですけど、今SFCの先生です、その松井浩二先生が官房副長官になって、官房長官の次に偉いおっさんなんで、結構偉かった、そんな松井さんにかくかくしかじかって説明してね、20人はたぶん理由ないと思うから俺に9人とか10人の保育園をやらしてくれと、試しに、実験的に、これはこの政権とっても悪い話じゃない、待機児童問題解決されるって悪い話じゃないでしょって言って一生懸命説得したら、松井さんがいいねって言って、厚労省に言ってくれて、で、厚労省は渋々、しょうがないなって言って許可を出してくれた
それで故郷の江東区の江東区役所区役所口説いてですね、江東区役所もいや前例がないとか、そんなのやれるわけないとか言うから、知るかって言って、勝手にやりますからねって言って、その物件見つけてきて、そこはですね、UR都市機構というとこが持ってた物件でデザイナーズマンションの一室だったんですけども、ファッショナブルすぎて誰も
入ってないみたいなという物件で、それを借りてゼロから2歳児を対象とした9人の保育園というのを日本で初めてオープンしました
これ定員9人で家を使ったので、おうち保育園という名前、シンプルにやりました、よかったですね、まあもちろん園庭とかないんですけど、近くの公園とかあるので別にそこ行かせればいいし、なんら問題ないでしょと、ちゃんと証拠だして、ほら美味しいよねということでですねやり始めたわけですね
そしたらですね、これどうなったかというと、この9人の定員に二十数人の申し込みが来たわけですね、申し込み殺到、埋まったですねつまり成功したわけです、でこの9人の
家族を助けられたんですけど、ただ9人の家族助けただけだと日本の社会課題って解決できないんで、これを世の中に広げようということで、いろんな政治家や官僚の方が視察に来てもらいました
ほらできるでしょうと、家で保育園できるでしょと、そこで注目してくれた人の一人が待機児童対策特命チームリーダーだった方で、彼女がこれ素晴らしいと、なんで今まで気付かなかったんだろと、大きな保育園だったら作りづらいけど、小さい保育園だったら作りやすいに決まってるわよねと、当時の法案の中にですねを盛り込んでくれた、名前を小規模保育という名前ですね盛り込んでくれました
それが国会を通過しまして、小規模認可保育所いう名前で国策化されたわけなんですね
日本の認可保育園の仕組みって戦後から70年間ぐらいほとんど変わってないんですけども、2015年で大きく変わったんですね、すなわち20名未満でも認可しますよっていう風に変えることができたんですね、この20人の壁ってのを突破する事ができたんですね
で、この小規模認可保育所というものができるようになりました、で出来るようになった瞬間にですね2015年に小規模認可保育所、当時2010年から僕らがおうち保育園始めて数園に広げてるっていう段階だったんですけど、2015年に法制化された瞬間に1600箇所に増えて、2018年には4000箇所ということで爆増するわけですね、でフローレンスとしては20名とかという規模でやってるんだけども、フローレンス以外の団体が小規模認可保育所をバンバンやってるということなんですね
すなわち何かっていうと、社会課題に対して小さな解決策というものを作るわけですよ、作ってですねできるよっていうことが証明されるとそれを国にパクらせてあげる、で制度化する制度化すると自分たち以外でもできるから、全国でバーっと社会課題を解決されるということで、点としての問題解決から面としての問題解決っていうことで広がっていくということになるわけなんですね
世の中を変えるってのはそんなに難しいことじゃないわけですね、解決策のモデルというのをつくってしまえばいいわけですよ、で、それを政策にするなりしてみんなにオープンソースに広げてしていってもらって、広げていけば世の中の課題というのは解決できると、ということで、決して社会を変えるというのは絵空事じゃないんだよいうことを皆さんにお伝えしたいなという風に思っています
そして三つ目ですね、三つ目にチャレンジしたのがですね、この障がいのある子供の受け入れ先がすごい不足するっていう問題でして、何かっていうと、世田谷区に住むお母さんがフェイスブックでメッセージきて、彼女のお子さんがどこも行く保育園がないと、だから一緒に探してほしいと言われたんですね、でなんで?って聞いたらですね、彼女のお子さんは医療的なデバイスと共に一緒に生きてる子だったんですね
医療的デバイスがないと生きられないという障がい者だったんですね、そういう子だっんですけど預け先がないと、でみんなですね、保育園は、うち看護師いない医療じゃないとか言って拒否ってるって話で、僕有識者の一人だったのでいいですよ、僕保育園のこと詳しいですからねとか言って一緒になって探したんです世田谷区、そしたら本当に一つもないんですね、一つの保育園も預からない
で、しょうがないと思って都庁に電話して、東京都の中にあるかなと思って東京都の中に広げたらですね、全体を見てもですね、その子を預かってくれる保育園はなかったんですね、これすごいびっくりして、東京都って1300万人都市で世界有数のメガロポリスなんですけども、その中で1人の障害児も預かれないっていうのっておかしくない?って思ってですね、だったら自分で作ろうというに思ったのがきっかけですね
その子どもってどんな子っていうとこの子なんですね、器官を開いてですね、この穴あけてて、ここから疸の吸引とかしないと窒息して死んじゃうって子なんですけども、そういった子がいますと、で今増えてるんですね
なんでかって言うと医療の発達です、昔だったら未熟児っていうのは亡くなってたんですね、なんだけども今日本っていうのは世界で一番出産時に子供が死なない国になったんですね、これは周産期医療の発達ですテクノロジーの進歩です、素晴らしいことですね
なんだけども命を救うためにはですね、医療的デバイスってのが必要になって医療的デバイスを装着します、そうして生き長らえるわけなんですけども、そうすると社会側が受け入れてくれないっていう問題なんです
これはSFCでテクノロジー結構万能主義なところがあるんですけども、テクノロジーのパラドクスなんですよ、テクノロジーが進むとすごく救える命が増えたりとか、いいことたくさんあるんですけども、社会のインフラがそれに追いつかないと不幸になっちゃうんですね
でこれはその端的な事例がこれです、医療的ケア児の問題、テクノロジーによって救われた子達なんだけど、テクノロジーによって生み出された障がいでもあって、その障がいを受け入れる場所が保育園も幼稚園も障がい児施設ですらない、ゆえにその子達が孤独になり親は24時間365日介護しなくてはいけなくて、そしてバーンアウトしてくんですね、心中してしまう事例だってあったわけなんですね
なので、テクノロジーと一緒に社会もアップデートしないとダメなんだっていうことなんですけど、日本はアップデートしてなかったと、いうことがありましたということでですね、じゃあそしたら医療的ケア児を預かれる保育園作ろうぜって言ってですね、我々作りました、名付けて障がい児保育園ヘレンです、それを作ったわけなんですね
医療的ケアがある子だからといってですね病院閉じ込めておくとかじゃなくて、非常にこの子達でも遊べるような、楽しく過ごせるような環境っていうものを作りました、看護師、保育士だけじゃなくて看護師も作業療法士もさまざまなプロフェッショナルが集って、こうしたリスクの高い子たちを預かれるというような場所にしたんですね
こんな感じで作りました、これもですね成り立つビジネスモデルっていうのを作らなきゃいけなかったんで、作ったんですけども、時間ないんでほぼ全て割愛するんですけども、簡単に言うと保育園の法律と障がい児の法律っていうのを掛け合わせて、全く違う法律を掛け合わせて、両方からお金を取って成り立たせるっていう離れ業を行いました
で、これ普通やりません、一つの法律でお金を引っ張ってきてやるっていうのが普通のパターンなんですけど、複数の法律からお金を引っ張って来るっていうやり方をやりました
東京都は最初は認めないって言ってましたね、認めないですよって何でですか、えーだってそういうことは想定してないですからね、じゃあダメってどっか法律に書いてありましたっけって言って、いやダメとは書いてないんですけど、じゃあダメって言ってないんだったらいいですよね、で、ガリガリやって半年くらい交渉して最後は渋々認めさせてやることになりました
これ別にいいんですよ、これは違法じゃなければ、大義がありますからね、医療的ケア児を救うっていう大義あるところに正義ありということでですね、やっていたと
で、あんだけ反対した東京都なんですけれども数年後これをですね、ベストプラクティスですとか言って都議会議員さんとかもですね、万歳みたいなしてくれて、大体こういうのは、数年経てば人の言ってることなんて変わるんだから、やっちゃえみたいな、というわけで、この子達もですね本当に当初はどこも居場所なかった子たちなんですけれども、このヘレンに来て、いろんなアクティビティをしてると、どんどん発達が促進されてって、そうすると医療的ケアが取れたりするんですね、デバイス必要なくなったりする、そうすると地域の保育園とかも断る理由がなくなって、普通の保育園に転園することができるということになっていて、もうすでに14人も普通の保育園に転入するということが可能になりました、これ何もしなかったら医療的ケア児を守れなかったかもしれない、その子たちが適切な運動、適切なアクティビティ、適切な関わりをすることによって、普通の保育園に行くことができる、これ素晴らしい事じゃないですか?
なので本当子供たちの可能性を花開くことができてるんじゃないかなと思っています、で親御さんもですね、働き続けることができるようになりました、普通だったら99%医療的ケア児の親っていうのは仕事を辞めて人生捧げてたんですけども、仕事を続けることができるということでまぁ彼女とかも科学者の方です、匂いを作る科学者の方なんですけど、彼女がある日来てくれて桃のハンドソープっていうのを持ってきてくれて、この桃の匂いは私が作った、ヘレンがあったから作れた匂いなんですよとかって言って持ってきてくれて、それはすごく嬉しかったですね、というようなことがありましたと
でこれもほとんど全てすっ飛ばしますけど、これもですね、ヘレンの子達だけを救うテーマですね、限られた人しか使えないんで制度化しようってことで、全国的に問題解決しよう、ということで全国的な協会団体を作って、医療的ケア児の問題をみんな気付いてくれって言って、政治家の方々を呼んで党を超えて呼んで、勉強会作ってもらいました
で、たまたまヘレンにマー君って子がいて、マー君のママが国会議員やってたんで、マー君のママに動いてもらって呼んでもらってですね、そういう超党派を作りました、ちなみにマー君のママの名前が野田聖子さんっていう非常に有名な自民党の実力者、権力者ですね、その権力者をフルに活用して作りました
で結局彼女たちが大車輪で動いてもらって、ヘレンにもきてもらって、結果として障がい者総合支援法という法律を改正してもらう時があったんですけれども、そこで障がい者総合支援法の問題点というのは医療的ケア児という言葉が入ってなかったことなんですね、それ法律に言葉が入ってないってことはいないっていうことになるので政治的に制度的には、だからいないって言うと統計も取れないし何の支援策を講じられないってことなので、この総合支援法の中に、医療的ケア児って言葉入れてくれという風にお願いしました
結果として入ることになりました憲政史上初めてです、医療的ケア児という言葉が法律に明記されることになった、法律に明記されて初めているということになるなので、支援しなきゃいけないねっていうことで、今すべての基礎自治体に医療的ケア児の支援の努力義務が課されることになりました
もう世の中的には全く見過ごされていた、いない存在だったけれども、2016年ヘレンができて、人々が医療的ケア児を認識し、何とかしなきゃってなって法律が変わって、そして今は存在することになったということになったんですね
はいというわけで、いったんここで終了です、言いたかったことは、みんなも社会を変えられるんだぜと、特にコロナ一期生の皆さんは無限の可能性を持っていて、新しい当たり前をニューノーマルを作れる一期生なんだと、一期生なんだから絶対できるよということで、初めてのことなんて怯むことじゃないんだぜ、正忠さんも言ってましたね、初めてのことを生み出してこうよと、初めてのことを生み出して社会を変えて行って一人でも多くの困ってる人を助け、少しでもマシな社会を作っていこうぜ、社会をアップデートしてこうぜ、ということを僕からは言いたいと思います
ということで終わりにしたいと思います、ありがとうございました

いいなと思ったら応援しよう!