第4回2 松尾卓哉さん (17)
はい、みなさん、土曜の午後いかがお過ごしですかって、この授業受けていただけるわけですけれども、あの29年前ですね皆さんと同じく私も同じくSFCの一年生でした
私が学生の頃はですね、世の中でSFCといえば、任天堂のスーパーファミリーコンピューターの方だったんですね、でちょうど90年に発売されまして、当時家庭でゲームができるって言うことで大絶賛の声と、そんなことを家庭でやるようになったら人間がダメになるっていうような非難の声が上がって社会現象になって、大ヒットしていました
なので、私が学生の4年間の時に、大学どこですかって聞かれた時にSFCって答えたことは一回もないんですね、何故かというと、SFCっていうのは、スーパーファミリーコンピューター、スーパーファミコンなので、私の学部はスーパーファミコンって言うのはすごく変なことだったので、ゲームオタクって自ら言ってるような感じもあったし、言いませんでした
ところがですね、30年が経った今SFCで検索してみたら、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)という表示が一番上に表示されるんですね、素晴らしいと思うんですよ、今の皆さんはですよ、学校どこですかって聞かれてSFCと答えたらそれは通じるんですよ
決してニンテンドーの人かなとか、ゲームオタクかなとかっていう風に言われる、思われることはないわけで、あの慶應のSFCですかすごいですねとかって言って一目置かれるようにいまなってると思います
SFC万歳って僕は声を大にして言いたいんですけども、これはやっぱり1990年のSFCの設立から今日までの30年間ですね、教授の方々、もう退官された方亡くなられた方いっぱいいらっしゃいますけれども、教授の方々、それからバックヤードで支えていただいていた職員の方ですね、大学運営されてこられた方々の地道な頑張りがあっての30年間だと思いますし、また卒業生で言うと26年間卒業生が出ていますね、多くの卒業生たちが社会で活躍して、SFCの名を広げてくれる、残してきたからこそ、今検索すると一番に出るんだと思うんですよね
今日23000人の卒業生を代表して、後輩の皆さんにこうやってあのお話ができることを、講義ができることをとても光栄に思ってます
今私がこうやってしゃべってたりするのですね、生きてられるのもやっぱり慶應のSFCのおかげだと本当に思ってます、今日少しでもの母校に恩返しができることが本当に嬉しくて、ありがたいなというふうに思います
それで、ここに書いてあるよなSFCスピリッツということで、テーマに講義をします
これはあくまでも私の考えるSFCスピリッツですから他の講師の先生方とは違うものにはなると思うんですけれども、まずですねそれでは早速ご紹介を兼ねまして、私は広告の企画制作をやっていますので、テレビ等々で流れているコマーシャルを、私の仕事を2分半これからお見せしたいと思います(CM映像)
まず卒業後に私がしてきたことの話をしたいなと思います
卒業後、電通という広告代理店、日本で一番大きな広告代理店に入りました、SFCが進んでいたのでですね、、総合広告代理店に入ることに躊躇があったんですけれども、当時、今は退官されましたけど、今坂先生が私の教授でしたので、相談をしたら10年間は日本の広告はまだ大丈夫だろうと、ネット代理店とかですねサイバーエージェントには負けないだろうといって、つい昨日ですかね、昨日か一昨日か、電通の株価がサイバーエージェントの株価を下回る、逆ですね、サイバーエージェントの株価が電通の株価を上回るという現象が起きました、卒業後、10年では起きなくて26年かかって株価の上ではサイバーエージェントが出てきたということがおきました
そのあと私はいろんな、国の広告賞とかを受賞したこともあって、外資系のwppグループという会社にヘッドハンティングをされまして、移籍をしました
そして今度は、外資系ですからこの同じグループですけど、一回この会社を辞めた上で、オルビーアジアパシフィックっといって、オルビーというアジア中にあるオフィスを統括するところに転職をしていきました
で、その後にですねこの株式会社17という会社を、自分の会社ですけども、オープンをしました、ここで企画制作をしておりまして、先ほど見ていただきました赤いきつねと緑のたぬきとか東急リバブルをこのオフィスから生み出しています
これがですね私が卒業後やってきたことのおおよその話なんですけれども、こっからが本体と言うか、あのSFC時代に私が何をやっていたかという話で、私はですねSFC時代には
外構工事をやっていました、そして古新聞の回収をやっていました、これ本当です、そして引越屋ももやっていました、バーテンもやってました、自動車の溶接もやっていました、配送センターでの仕分けもやっていましたし、、家具の配送もやっていました、結婚式場の配膳もやっていました、道路の舗装工事をやりました、牛丼屋もやっておりました、外車のシートの張り替えの仕事もやっていました、商業ビルの床面の清掃もやってきました、新幹線の線路の交換もやってました
それはなぜかって言うとですね、家が、父親の仕事がちょうどうまくいかなくなっちゃって、日本育英会の奨学金と慶應の奨学金と、アルバイトをして学費、それから自分の生活費を捻出するしかなかったので、SFCに通いながらアルバイトをしまくってたんですね
で、なぜあんなに大量の今見ていただいたようなたくさんのアルバイトをしたかって言うと、話が遡って中学生時代に戻るんですが、中学校2年生の時に福岡県九州の福岡県の田舎から出てきたんですけども、その中学校の2年生の時に担任の先生に、将来あんた電通に行ったらって言われたんですよ、中学校2年生の時に、電通とか僕田舎の子ですから知りませんね、ネットとかまだ無い時代ですから、電柱に何か近い会社なのかなと、うちの一族がNTT一族だったもんですから、僕が体育会系の野球部に入ってたので、先生がそれで電柱という会社を紹介してるのかなと、何ですかその電柱は?って言ったら電柱じゃなくて電通っていう会社なんだよって言って、何する会社ですか?って聞いたら、広告を、テレビコマーシャルなんかを作ってる会社があるんだよって言われて、テレビコマーシャルは僕はテレビ局が作ってると思ってたので、テレビコマーシャル作ってる会社があるんですか?っていうとこから、その14歳の時の僕が、電通という会社に入りたいなとずっと思い続けていたんですね
そして、大学生になる前です、慶應のSFCに来る前に、地元の九州大学という国立大学とですねこのSFCに受験で合格したんです、もっと言うと、僕2期生ですけど実際はあの1期生の時に補欠合格だったんです
で、補欠合格のままお呼びがかからなかったんですね、だから補欠でもかなり下の方だったと思うんですけれども補欠でもし呼ばれてれば、先ほどの門松先生と一緒の、同期だったと思うんですけども、僕は実力がなかったので、2期生として入りましたけれど、その2期生で入るときに、九州大学と慶應大学藤沢キャンパスという新しいところ、どっちに行った方が将来より電通という会社に入りやすいだろうと考えました
で、自分で考えても分かりませんから、当時の電通九州っていうですね会社に電話をしたんです、直接電話をしまして、そしたら受付の、会社っていうものの組織も分かってなかったですから、電話をしたら、電話交換のお姉さんが電話に出られたんですね、はいもしもし、電通でございますって言って気持ちの良い声で電話に出られたんですけど、思いのたけをペラペラ喋ったんです、そしたら一通り私の話を聞いていただいて、あ、そういう話でしたらマーケティング部に電話を回しますって言って、なぜかマーケティング部に電話がまわされたんですよ
そしたら、その日その時間帯にデスクに座っていた人が、マーケティング部の岩永部長さんという方で、その部長さんが電話に出て、同じように私は将来電通という会社で働いて面白い広告を作りたいんです、中学校2年生の時から言われて、いろんな本も読んだりして、広告に興味があるんですけど将来九州大学に行った方がいいか、慶應に行った方がいいか、どっちに行ったほうがいいでしょうかって話をしたら、君面白いなって言って、そんなことだったら、うちの若いのに話を聞いてみたらいいって言って、当時電通九州支社にいた新人の方とか3年目とか4年目ぐらいまでの方々を集めていただいて、お昼ご飯をご馳走になったんです
で、そのお昼ご飯をご馳走になった時に、まあ慶應から来てる人もいれば九州大学から来てる人、色々いてですね、こういうアドバイス頂いたんです、将来電通に入りたいんだったら、当時まだバブルだったんですね、で銀行が1年目の冬のボーナスで、1年目ですよ、新入社員の1年目の冬のボーナスが100万以上出てて、もう早くに都市銀行に勤めてると1000万円年収が来るっていうようなすごいバブルの時代だったので、電通九州の目の前に今はもうなくなりましたけど三井銀行って今三井住友銀行合併しましたけど、そこを指差して、君がお金を稼ぎたいんだったら銀行の方がいいと言われました
で、その先輩たちが九州大学よりも慶應大学の方が電通に入る確率が高いから、電通に入りたいんだったら慶應大学に行ったらどうだ、そして九州大学に行ったら、地元の九州電気とかですね、福岡銀行とかそういう大手には無条件で入れるけども、慶應に行っていれば、いろんな会社が選び放題だから、慶應の方がいいぞって言われたのと、あともう一つアドバイスくれてたんです、その時言われたのが、なぜ僕がアルバイトいっぱいやってたかに繋がるんですけれども、働き出した時に絶対に出来ないようなことを学生の時にやれって言われたんです
広告研究会には絶対に入るなって言われたんですね、私は大学の広告研究会で広告のことを勉強してきましたっていうような学生は必要ないと、広告のことは働きだしたら十分学べるから、それよりも働き出したら絶対やらないようなことをやれと言われたので、アルバイトをして生計を立てなきゃいけないんですけど、自分の中でルールを決めてどんなに
条件が良かったり心地よいアルバイトでも6ヶ月間でやめよう、で、基本は3ヶ月でアルバイトを変えていこうというふうに決めたんですね
そうすると四年間で、1年間で4回変われますから、そうすると12個のアルバイトができると思ってそれを実践した結果が、さっきのアルバイトの数でした
で、アルバイトの種類を皆さんにただ見せるだけでは面白くないので、やってきたアルバイトの中で非常に勉強になったこと、それからこれから皆さんにお役に立てることもあろうかと思いますので、その話をしたいなと思います
まず外構工事です
親方とですね二人の会社だったので、図面を引くところから見積もりを出したりですね、それから実際に目地といってセメントを埋めていくっていう事も色々やらせてもらって、もう最後の時は僕キレイに一人でこのブロック塀が積めるような技術を身につけていました
皆さんにですねちょっとお役に立つことを言っておきますと、今この写真見ていただきますと、ブロック塀とブロック塀の間に鉄の糸みたいなのが出てるでしょ?鉄筋って言うんですけど、この鉄筋をブロック塀を作る時には入れてください、ブロック塀の中に鉄筋を入れないと、ブロック塀は脆くなります、倒れやすくなります、ただブロック塀を入れると若干高くなるんですよお金が、でケチってブロック塀に鉄筋入れないところのブロック塀は、この間の震災の時にも倒れてしまっているので、ご自宅を建てるような時があれば、もしくはエクステリアをやり直すな時があればですね、ぜひ鉄筋を入れることをおすすめします
そしてもう一つ大事なことがあります、このブロック塀のつなぎ目っていうのは実は大きな隙間が入っていて、いい加減な業者はですね、この時に自分たちが飲んでいた空き缶とかをそこに入れちゃうんです、タバコの灰とかをですね、お弁当のカスとか割り箸とかをいれて、そうすると何が起きるかって言うと、セメントの量がちょっと少なくて済むわけです
皆さんもし、自宅を改築されたり家を建てたりする時に、このエクステリアの工事が入る時はセメントを入れる日は立ち会った方がいいです、そしたらですね不正ができなくなります、ちゃんとしてる業者はやらないんですけど、僕らは本当に何回かこの古いブロック塀を崩した時に、中から色んなものが出てくるのを見て、ひどい工事をする業者がいるもんだなってことを目の当たりにしました
そしてある時ですね、この親方と工事してる時に、工事が遅れてしまって夜になっちゃったんですね、夕方までに工事を完了して引き渡さなきゃいけないのに、夜になってしまって、で、夜でしたから私が担当してたところのアルミ塀のネジをつけなきゃいけない、そのネジが落ちちゃってですね、行方不明になっちゃったんです、ですから本当はあと一個ネジをつけないと完成しないんですけれども、家主の方から見えないサイドだったので、ネジをつけずに帰ることになっちゃったんですね、でもちろん親方には、すいませんネジをなくしちゃったんだけれどもって言ったら、黙っとけというようなことで制されて、その日、工事が無事に終わりました
遅くなってすいませんと、親方とその家主の人にお詫びして帰りました
僕はアルバイトの身ですから翌日親方はまた別の現場が入ってます、そしてまた数日後のアルバイトで工事に行った時にすごい気になってたので、あのこないだの塀のことなんですけどあのままでいいんですか?って言ったら、バカ、ちゃんと翌日閉めに行ったよって言って、その親方はこっそり夜、ちゃんと違う現場を終えた後にですね、ネジを締めてきてくれてました
そん時にやっぱ学んだのはですね、自分たちが取り壊したブロック塀の中から、缶々とかですね、吸い殻とかそういうものが出てくるのを間近に見たり、実際そんなことする人も
いるということを聞いた時に親方に教えてもらったことはですね、やっぱり人が見ていなくても丁寧に仕事しなきゃいけないっていうことと、誠実であるって事が非常に人間大事なんだなっていうことを学びました、これが私の外構工事での学習したことです
そして、古新聞の回収です
これはあのですね、古新聞の回収ってのは、民間の会社と役所がやってる、役所も委託してるんだと思いますけど、民間経営ってのは2つあるんですね、で、なんでこれをやったかって言うと、2トントラックで古新聞をいっぱいにして戻ってくると、2万円貰えるっていう非常に当時日給がいいアルバイトだったんです、で喜んで僕は高額だったんでやりました、で、トラックをですね運転して住宅街を回って古紙を回収してくるドライバーは日本人だけしかいないんですけれども、実際その運ばれてきた古新聞や段ボール箱を仕分けして裁断する機械に投げ込むんですけど、そういうきつい仕事をするのは1991年とか2年のその当時ですね、すでにトルコ人ばっかりだったんです、そういう3Kの仕事には日本人がもういなくなってました
で、驚きました、当時カセットテープを車のラジカセでカセットテープを掛けて、こちらは古新聞の回収です、いらなくなった新聞雑誌書籍ダンボールなど無料で引き取りますとかって言ってカセットテープをかけて、スピーカーでそれを流してですね、住宅街の中をゆっくり走っていくんです、ゆっくり知らないとその音声を聞いて家の中から人が出てきて、あーうちの持って行ってっていうことにはなんないですから、とにかくゆっくり運転をして走る、そしてある時ですねSFCの同級生に見つかっちゃって、松尾くん何してんの?とかって言われて非常に恥ずかしかったこと今覚えてますけども、で、裁断工場から戻ってきたらですね、トラックごと体重計みたいなものに乗っかって、重量を計るんです、すると行きの空のトラックの重量を運んでいるとですね、その重量の差分でこいつがどれくらい古新聞を持ってきたかとかっていうのが分かるんですね
へーそうなんだって思ったのが、古新聞だけじゃなくて当然雑誌とかですね、本とかダンボールとかも運んできますよね、そうすると古新聞が一番高いんです買取金額が、雑誌とかダンボールは非常に安いんですね、なので古新聞をたくさん持ってきた方がお金になるということがわかりました
で、こん時にですね学習したことがありまして、ベテランのドライバーがやたらと早くトラックをいっぱいにして帰ってくるんですね、僕は午前中いっぱいかけてやっといっぱいになって、午後も夕方までかかってやっといっぱいになって1日二杯持ってくるのが精一杯なんですけど、ベテランのドライバーの人達はやたらと早くにトラックをいっぱいにして帰ってくるから、なんでだろうと思って秘密を聞いたらですね、なんとその人たちは各地域の古紙の回収の日っていうのを知ってるんですよ、つまり僕みたいにテープをかけて古新聞の回収ですとかって言わなくても、もう家の前に古新聞回収の日ですから出てるんです古新聞が、それを掻っ攫ってきてただけだったんです
今だったら法律違反になるから捕まるかもしれませんけれども、その人たちはそうやって地域をもう決めてですね、あそこが今日古紙の回収日だからっていって、それをただ拾ってきてるだけでした、だから私もその着いてっていいですかって言ったら、ふざけんなお前、俺の縄張りだとか言ってすごくすごまれたんですね
で、二日間わたしは2万円,2万円稼いだっていって、あ違いますね、2万円午前中、午後も2万円、2日目も同じように2万円,2万円ですから、2日間で8万円稼いだぞって、思って二日目にやっとをお給金をもらえる、給料もらえることになって、そこの社長が電卓を私に見せながら、計算して見せるんです、はい君8万円ねって、そっからまずトラックのレンタル料が引かれるんです、で午前中分、午後分って、え1日でいいじゃないですかって言ったら、いや違うよ、使ってる分ちゃんと引くんだよ、そして燃料代が引かれます、そして保険料が引かれます、そしてなんと、トルコ人の労働賃も引かれるんですよ、トルコ人が君手伝ってくれただろうと、いやいやそれ先に言ってくれたら僕自分でやりましたよって言ったらもうやったんだからって言って、結局2日間働いて支払われた額が4200円でした、8万円もらえると思ってたのに、一生懸命働いたのに、同級生にも会って恥もかいたのに4200円しかもらえなかったので、この時に学んだことはですね、やっぱり事前にきちんとお金の話をしなきゃいけないなということ、契約内容をきちんと確認するっていうことをこの時身をもってですね学びました
そして不正っちゃ不正なんですけれども、自分からお客さんを探すのではなく、お客さんがいる所に行けばあの儲かるっていうことをですね、ベテランのドライバーの人を見て学んでいました
続きまして、バーテンダーの仕事です
このバーテンダーと言ってもこの写真のような洒落たバーではなくてですね、藤沢駅の近くにあったサミットといってですね、こういう、今あの自粛しろって言われている、自粛要請が出ている、つまり接客を伴う女性がいるクラブのバーテンダーをしていました
なぜかというと、バーテンは夜働けるので、ダブルワークができるんですね、大学の空いてる時間帯で他の肉体労働の仕事をして、夜はバーテンに立つということができました
ここのアルバイトをさせてもらったママさんとは大学卒業後もずっと交流があって、昨年亡くなられたんですけれども一昨年、亡くなられる前の一昨年に自分の家族を連れてですね、26年ぶりの再会をできました
非常に喜んでいただいたし、僕の成長した姿も見てもらえましたし、その翌年に亡くなられたので、会っといてよかったなというふうに思いました
この時に勉強したのが、やっぱり綺麗にお酒を飲む大人はかっこいいなっていうことと、飲み屋の女性ですね、キャバクラというかクラブの女性を見下したような発言をするっていうのは非常にみっともないなっていう風なことを、この時にバーテンをしながらチラチラと横目で見て思いました
私は大学生でしたから、お父さん達がですねまぁ大学生の息子がいるような、もしくは高校生の息子がいるようなお父さんたちが客で来るんですが、反抗期だったり、大体息子っていうのは父親とは口をきかないものですから、ちょうど自分の子供のように可愛がってくださって、しかも多分ママからですね、彼苦学生なのよって聞いたんでしょうね、ある時ですね、日本シリーズ、プロ野球の日本シリーズがあって、ヤクルト対西武だったんですけど、お客さんがですね、おい、あんちゃんって言って、賭けしようぜと、君学生だから、賭け、まぁ今問題になってますけども、君は千円でいいと、僕は1万出そうと
で、ヤクルトが4勝1敗で勝つと、で、西武が負けるということをお客さんがおっしゃったんですね、で、4勝1敗するはずないと、当時ヤクルトすごい強かったんですよ、野村監督がいて、で僕はじゃあ4勝1敗じゃないけど、とにかく西武が勝つと思いますって言って実際には4勝3敗で西武が勝ちました、1万円をもらいました
で、これは後でわかったんですけれども、これお客さんがですね、僕にお小遣いをくれるために、あえて日本シリーズで賭けというのをやったんですね、そのまま1万円あげても、その人の美学なんでしょうね、アルバイトの子に1万円あげると、なんか僕を見下してるようになると思ったんだと思うんです
なので賭けで勝って、僕がもらえるようにしてくださったんですね、その方は三菱電機の方でしたけれども、非常にお金の使い方って大人のお金の使い方とかお金の活かし方っていうのもその時には学びました
そしてですね、自動車の溶接の仕事もしたんですね
溶接で私がやったのは、いすずの海外生産用トラックのドアの溶接をして、1日に600台分ぐらいのトラックのドアの溶接をしました、2交代で朝8時ぐらいから、それから8時間ぐらい働いて、そして夕方の人にバトンタッチして、夕方の人は朝まで働くっていうのを夏休みの間2ヶ月間やりましたけれども、とにかくまず騒音がすごいんです
そして真夏の夏休みに今でこそスポットクーラーってのは工場の中にもありますけど、当時はないですから、窓を開けてやっていても、溶接の熱で40度ぐらいも部屋があるんですね
その溶接の火花が首元に当たったり、背中に当たったりして、当然この当時は溶けにくい服みたいなものがないですから、タオルを巻いてでも、そのタオルを通って溶接の火の粉が首についたりして、その火傷の跡が未だに残ってますけれども、8時間ずっと溶接をし続けて、当然もちろん休憩も入りますけど、休憩の間はお水を飲んで座って誰とも口をききたくないくらい疲労困憊をしていました
で、その時に学んだことはですね、僕はこの仕事に向かないなと思ったんです、給料はすごく良かったんです、だけれども1日8時間働いて、会話をするのがですね、溶接の機械が壊れた時に工場長に、すいません機械が壊れましたって言う、たったこれだけなんです、1日で会話をするのが、で、ランチの時間それから深夜勤の時はですね、夜の深夜のご飯配られるんですけど、その時周りの人と話そうと思っても、周りの人も誰とも口をききたくないぐらい疲れてるっていうような壮絶な仕事でした
なので僕は将来この仕事には絶対につかないでおこうということがわかったのが、非常によかったし、あぁこんな過酷な仕事が世の中にあるんだっていう風に思いましたし、唯一ですね、仲良くなった人一人だけいて、その人はアパレルの会社をやっていたんですけれども、潰れてしまって仕方なくこの仕事をやってると、話を色々教えて頂いたらですね、この季節工というのがいて、車の需要が必要な時に季節工員として全国を回る人たちっていらっしゃるんですね、例えば、愛知の工場がいま人が足りないって言ったら愛知に行き、北海道で、まぁ自動車はいま北海道で作ってないと思うんですけど、群馬で部品作ってる工場があれば群馬に行くってやっていて、やっぱり常に孤独な仕事だよってのを教えてもらいました
だから僕は孤独になりたくないなと思ったので、この仕事は向かないなっていう風に思いました
そして家具の配送です
神奈川のですね家具屋さんで大正堂というのがあって、日本で二番目に大きな家具チェーンで、日本で一番大きいのは福岡の大川家具チェーンですけども、この家具の大正堂の中で何をやってかっていうと、配送係ドライバーの人の横に助手席に座って一緒に家具を運ぶという仕事なんですけども、週末度に行くわけですね、土曜日日曜日と、そうすると、毎回、今日君はこのドライバーの人に付いてね、今日このドライバーの人についてねって毎回変わるんですね、何ヶ月間もやってるとほぼ全員とペアを組まされるんですけれども、その中に一人ですね、やたらと仕事ができて早い人、すごくガタイのいい人で角刈りのすごいちょっと強面のお兄さんがいらっしゃったんですけども、この人仕事ができるなぁと思ってて、そしたらその人のトラックに乗る日が来たんですねついに、そしたらその前の週に乗ってたトラックのドライバーの人が僕を呼んで、松尾くん気を付けろよ、あの人は気性が荒いからなって言って教えてもらったら、なんとその人は暴走族の総長だったんですね、町田の見返り美人って大きな暴走族で有名な大グループの総長でした
で、お昼ご飯で当然レストランとかラーメン屋とかにトラックごと行くじゃないですか、そしたらある時にラーメン屋の駐車場にその大正堂のトラックで乗りつけたらですね、いかにもその趣旨の方っていう、ヤクザ物って分かるようなメルセデスが止まってたんですけれども、その中からイカツイ人が降りてきてわたしのパートナーのドライバーの人に敬礼したんですね、えっと思ったら、元部下だったらしいんですよ、で、おぉとか言って話をして、そういうことが何回もその人と仕事をしてあったので、あぁ暴走族の世界ってのは礼儀正しいんだなと思っていました
そして大人になってですね、広告制作する時に、宇梶さんこの人も実は元日本最大の暴走族、ブラックエンペラーの総長、有名な総長なんですけれども、広告制作会社のプロデューサーの人でいつもその人ペラペラ喋って調子のいい人なんですけども、その宇梶さんのブラックエンペラーの末端にいた人なんですね、で、宇梶さんと仕事をする時に、先ほど敬礼したヤクザの人と同じように、え、宇梶総長だ!っていう風になって口が一言もきけなくなる、つまり暴走族の人たちは意外に総長をカリスマ化してるということがわかりました
あとですね、家具屋の仕事ですごく勉強になったことがありますので、これ皆さんもいずれ必ず役に立つことなので覚えてて頂きたいんですが、家具はですね、必ずメジャーで大きさを測って買ってください、どういうことかというと、何度も起きたんですけど、部屋に家具を持っていって、家具を運ぶじゃないですか、そうすると6割から7割の人が、あれ、思ったより大きいと言うんです、で3割ぐらいの人は、すいません返品してくださいと言うんです
つまり、家具が大きすぎるんです、皆さん家具屋さんのショールームは広いです、自宅より、ですからついつい入りそうな気がしますけれども、入りません、ですから、家具を買うときは必ず測って買うようにしてください
そしてですね、このとき学んだもう一つがあるんですが、いまはどうなってんのかわかんないですけど、1990年代は新居の、つまり新しく家を建てたり、結婚した新婚のお家に家具を届けていくと、ご祝儀が出たんですね、
お祝いだからといって、ご祝儀をいただきました、でご祝儀をくれない家庭もありましたけれども、まだ神奈川県ではご祝儀をくれるご家庭がたくさんありました、半分以上ぐらいは、新居の場合、もしくは新婚の場合はご祝儀をくれました
そして家具をですね、いらない家具をついでに持って帰ってもらえないかって言って持って帰る時にこっそりお金をもらうんですね、ドライバーの人が分かりましたじゃあ3000円で引き取ります、でもそれは会社には内緒で、後で大正堂の倉庫に捨てておく、で、そうすると大正堂の倉庫には米軍の人が来て、その家具を持っていくっていうリサイクルのシステムが出来てたので、こっそりすることができましたけど、ここで学んだことがあって、祝儀ですね、半分とは言わないですけど、例えば3千円もらったら千円僕にくれる人もいれば、半分きれいにくれる人もいれば、全くくれない人もいました
この時に、あぁこの人は見た目に依らずくれるんだなと、もちろん暴走族の総長は半分くれました、だから僕は、あぁ人間っていうのはこういう時に本心が出るぞとか卑しさが出ると思って、将来自分が祝儀をもらったりなんかしたときには、きちんと人にあげれる大人になりたいなという風に思いました
以上がですね、私が、あ、もう一つありましたね、牛丼屋さんです
松屋という松屋さんで働いてた時に、一番学んだことは、サラリーマンが1番最低だってことなんですね、あの深夜勤とかお昼とかいろんな時間帯でシフトで入ってたんですけれども、朝ですね、さっき言ったよな肉体労働の人たちが朝ごはんを食べに来ます、その人たちはよく会うわけですから、おはようって声掛けてくれるし、食べ終わったらおいしかったよって挨拶をしてくれるので、こちらも気をつけて行ってらっしゃいとかですね、おはようございますとかって挨拶します
ところがサラリーマン、スーツを着てる連中は、スッと入ってきて、しかもですね、困らせてやろうと思ったのかなんなのかわかんないですけど、割り箸のケースを盗んで帰ったりするんですよ、とにかくひどいことをするのは全部スーツを着てるサラリーマンです、だから僕は自分が電通っていうサラリーマンになった時に、牛丼屋に行った時には爽やかに振る舞おうと思って、未だに牛丼屋に行った時には爽やかに振る舞っています
サラリーマンほど最低な人種はいないなってことをこの時に学びました、むしろトラックの運転さんであるとか、エクステリア外構工事の人たちの方が人間として気持ちいいぞと、学びました
そしてですね、外車のシートの張り替えのアルバイトをしてる時、これ実は今で言うと副業っていうことなんですけれども、日本製紙の日本一大きな製紙会社の部長さんが奥様とやられるサイトビジネスを手伝ってやっていました
この時にですね、学んだことよりもいい話があるのでご紹介したいのですが、これなかなか聞ける話ではありません
今の天皇陛下でなく、その前の天皇陛下ですね、いま上皇となられた天皇陛下がですね、学習院大学に学生の時通われていました、で、この外車のシートの貼り付けの会社をやっていた日本製紙の部長さんと学習院大学のテニス部の同級生だったんですね、で、今みたいにまだ厳しい時代じゃなかったので今の上皇はですね、皇太子の時代があったんですね、昭和の時代、その時に皇太子ですから、まぁ大学生でテニスとかに行くと当然テニス仲間みんなで移動します
そうするとですね、皇太子ではあるんですけれども、やっぱりパトカーが先導したり白バイが先導したりするような時代だったらしいんですけど、それでも皇居にですね、みんな顔パスで入れてたらしいんです、学習院のご学友のテニス部の生徒たちは、皇太子に会いに来ましたって言ったら、どうぞっていうような形で会いに行けたとで、そういう関係が続きましたけれども、昭和天皇が崩御されまして、その上皇が皇太子から天皇陛下になられる時にですね、ちょっと期間があるんですよね
そしたら、逗子に住んでらっしゃったんですけど、日本製紙の部長の家にある日電話がかかってきたそうです夜、たまたま在宅してたので電話に出てたら、その今度天皇陛下になる皇太子からで、ちょっとこれから君の家に行っていいかい?って言われたそうです、そして、どうしたの?って言ったら、ちょっとねって言って、そしたらなんと家の前に黒塗りの車が来て、当然パトカーも白バイも一切先導がなくお忍びで、天皇になられる人が皇太子最後の挨拶に来てくださったそうです
そして、家の中に玄関先でですね、実は知っての通り僕は今度天皇陛下になるんだと、今までのように君達と会えなくなるんだって言って、だけど友情は忘れないよっていうよりも、これからもよろしく頼むねっていうことで挨拶をしてさっと帰っていく、良い話じゃないですか?天皇陛下になられる前の皇太子がお忍びで別れの挨拶に来たというとても良い話でした
そしてですね、新幹線の線路の話はあのまたいずれします
ちょっと時間が押してきましたので、私が大学1年生の冬にですね、こういうことがありました、冬の間ですね、先程私はちょっと家が貧しかったっていうのがあって、アルバイトもしてたので、スクーターで藤沢キャンパスに通ってたんですね、善行という駅の近くに借りたアパートからスクーターで通っていてその日みぞれが降ってすごい寒い日で、スクーターに乗って半キャップをかぶっていたので、自然と鼻水が出て鼻水が半分凍ってたような状況でした
そしたらその信号待ちしてる私のスクーターの横にボルボ、これは最近のボルボですけど
その当時世界で一番安全な車って言われてたボルボが止まってですね、ウィーンと窓が開いたんです、左ハンドルですから、ちょうど左側にいる私のバイクの横の窓が開いて、わたしは鼻水こんな状況なんですね寒くて、でボルボの窓が開いて、中から暖房が効いてますからフワッと湯気が出るような煙が出て、某上場企業の息子さんがそこにいました
よう松ちゃんって言って、おはようって言われたんです、で、おはようって言って、そしたらその彼の助手席に乗っていた当時の彼女が一色紗英さんって皆さん分からないと思いますけれども、当時ポカリスエットのコマーシャルに出てたりしてすごく人気のある人で、今で言うとですね吉岡里帆みたいな感じだと思いますけれども、非常に人気のあった一色紗英にそっくりなキャンパスで一番か二番かって言われるぐらい美人の彼女を助手席に乗せていたんですね
その助手席に乗っていた一色紗英がですね、私の顔見て笑ったんですよ、そりゃ笑いますよね、顔が真っ赤になっててこんな顔してたわけですから、その私の顔を見て笑ってあぁおはよう松尾君って言ったんです
その時に僕は絶対に成功してやろうと決めたんですね、今は貧乏だけど、今は自分の人生変えられないけど、大学卒業して働いたら、絶対に成功してやると、で、ボルボには乗らないけどいい車に乗ることを決めて今日まで頑張ってきました
皆さんにですね、言いたいことは、自分を信じるって言うことを一番大事にしてください
実は働き出すと、このことが一番難しいんです、自分を信じるということが大人になっていくと一番難しいんです、子供の時とか学生の時にはみんな持ってるんです、だけどこれが一番やられちゃうんです、そしてみんな自殺とか心を病んでしまったりするんですね
皆さん自分を信じるっていうことを是非大事にしてください
そして、これはなぜかと言うと自信につながるからなんですね、自分を信じるから自信なんです、今日は私ペラペラ喋ってますけれども、それは、自信があるからなんです、それは自信があるようなふりをしてるからとも言えるんですけれども、世の中は自信のない奴の言葉は誰も聞いてくれません
さっきの門松先生の講義もそうですけども、仕事を一生懸命やってきた自信があるから説得力があるし面白いんですね、私が今こうやって話してるのも、色んなことがあった上で今があるから、自信があるから、自信があるフリをして喋ってるからなんです、この自信がない奴の声は誰も聞いてくれないので、みなさんぜひ自信を持つということを
大事にしてください
そして、慶應SFCが出来たのが30年前ですけれども、それからさらに100年足して130年
前という期間を考えてみてください、江戸時代なんですね、なんと日本は、130年前って江戸時代なんですよ
皆さん今SNSで繋がるとか、学校に来れなくて友達となかなか会えないということで、繋がるっていうことが非常に大事だったり、SNSでいいねを押してもらったりinstagramでいいねを押してもらったりすることが大事になってるんですけれども、人はですね、孤独になるんですね
いつか、いろんなことで、集団の中にいても組織の中にいても、いつか必ず孤独を感じるし疎外感を感じる時があるんです、これがまた危険なんですね
孤独を感じる時に人は死んでしまいたくなったり、心の病になってしまいますけれども、このことをね覚えてていただきたくて話すんですけども、皆さんにはご両親がいると思うんです、すでに亡くなられてる方、離婚されてる方、いろんな方がいますけれども、生みの親っていうのが少なくとも、必ずお父さんとお母さんっていうのが皆さんにはいます、そしてそのお父さんお母さんにも産みの親がいます、つまりおじいちゃんおばあちゃんで四人いるんですね、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんになると8人います
江戸時代の130、年前までさかのぼる、なんとですね64名の先祖が繋がってるんです私達に、で、皆さん想像してみてください、親に虐げられる人ももちろんいるでしょうけれども、自分の子供に幸せになってほしいってみんな思ってると思うんです親は
私も2人の子供の親なんですけれども、わたしも自分の子供には自分より幸せになって欲しいと思いますし、幸せな人生を歩んでほしいと思って育ててきました、上手く育てられてるかどうかっていうのは別の話ですけれども、そういう思いではいました
皆さんもきっとそうやって育てられてるはずなんですね、みなさんのご両親もそうやって育てられたと思うんです、皆さんのおじいちゃんおばあちゃんもそうやって育てられてると思うんですね、で130年前江戸時代から64人の先祖がずっといるんだけど、64人の男女がいて、その人たちが生まれた子供が32人になって16人になって8人になって4人になって2人になって、この二人っていうのが皆さんの両親になって今あなたがいるんです
つまりですね、64人の誰もが途中で死んでたり欠けたら、あなたはいないんですよ、僕もいないんです、つまり僕らの存在って奇跡なんですよ、130年前江戸時代です、この時代は人がバンバン死んでました、だから子だくさんでした、当然コレラもありました、スペイン風邪も流行りました、戦争も2回ありました、戊辰戦争もありました、色んな戦争があって、人殺しもいっぱいあったり、多くの人が死んでる中で生き延びてる非常に奇跡の命だっていうことを覚えといてください
そして孤独になった時に思い出してください、私たちは上を見ればですね、自分の両親だけじゃなくて、頑張れと言って、もしさとるという名前だったらさとる頑張れよって心の底から応援してるご先祖と繋がってるんです、わずか130年前で64人も繋がってるんです、そのことをですねぜひ覚えてて欲しいんですよね
誰かと、今のこの時代の人と繋がるだけが繋がるだけじゃないです、私たちのっていうのは魂で繋がることができますので、過去の自分の先祖で自分の事を死ぬほど応援して、あなたに幸せになってほしいと思ってる人たちがたくさんいるって事をぜひね覚えといていただきたいなと、これは僕が広告の仕事をしている時にあるキャンペーンで気づいたことなんですね
続きましてですね、SFCが危険な事が一つあります
それは我々の1期生とか2期生、3期生、4期生くらいまでは無いんですけれども、5期生ぐらいから起きている、非常に危険なことです、それは、SFCの卒業生は起業をいっぱいしてるってことなのね
サイバーエージェントの副社長もSFCの出身者、楽天の共同創業者もSFCの人、クックパッドの人もそう、GREEの人もそう、カヤックの柳沢さんもそう、ネットプライスの佐藤君もそう、いっぱいいるんです、卒業生で起業して成功してる人が、なので今あなた方はSFCに入ったら起業しなきゃいけない、成功しなきゃいけない、早くお金持ちになんなきゃいけない、それが成功なんだ、人生が成功なんだSFCに来てる価値なんだって思ってる人もいっぱいいると思うんですけど、そんなことありません
もちろん早くに成功して起業して成功するっていうのも大事なことだと思いますけれども、みんな自分のタイミングがあるんですね、レイ・クロックってマクドナルド作った人は、52歳でマクドナルドをはじめています、江戸時代を作った徳川家康、今東京という街、世界で一番大きい街ですけど、61歳から作り始めてますからね、その時は江戸の町には50世帯しか家がなかったんです、今1300万人が住んでます、61歳から始めてます、カーネルサンダース62歳からケンタッキーフライドチキンを始めてます、ココシャネル、今みたいなお店の形態になったのは、何と彼女が戦争犯罪人として捕まった後に商売を再開した69歳から今世界中にココシャネルというビッグブランドができています
皆さん大事なことはですね、自分を耕しておくこと、そして運を呼び込むこと、このことが大事だと思います
私がアルバイトをたくさんした理由が電通九州の先輩たちが将来電通に入る時に、いろんな経験しとけよと、広告代理店に入ってする仕事ではない面白いことをやっとけよって言われたので、自分はアルバイトでじゃあやってみようと、生活がてらやってみようということでやりましたけれども、もう一つですね、つながりがあります
4年後に就職活動を始めました、皆さんも3年後に始めますけれども、電通九州に行った4年後、つまり大学3年生の冬、つまり4年生になろうという時に就活を始めたんですね、そしてOB訪問始めました、その時にもし君が将来で電通に入りたければ電話しておいで、そしたら東京の電通の人紹介してあげるよって言って、電通九州に本当に電話をしたんです、そしたら当時の人たちはみんな一人を除いてみんな大阪支社や関西支社や東京本社に戻ってたんですね、で、紹介してもらってOB訪問をしました
そして、電通の一次面接が始まり二次面接が始まり、面接が進んでいきました、そして部長面接まで運よく進んだんですね、部長面接っていうのが当時ですね、11個ブースが準備してあって、部長面接まで残った学生が来たら、順番に空いてるブースに入って行くんです、つまり20番目に来たら20番目の空いたブースに入っていくんですね、一人持ち時間10分でした、当時私の面接の時は
で、待っていたら、空いたブースがあって、そこに君は入りなさいと言われて、そうすると3人の中年の男性が座っていました、電通の部長面接ですから部長さんなんですね、そして君なんで電通に行きたいんだって言われたので、先ほど言ったようなことをかいつまんで1分ぐらいで話しました、そしたらですね、面接官の真ん中にいた人が、おいおいおいちょっと待てよ、それ俺だぞって言ったんです、え、岩永部長ですかって言ったら、俺が岩永だよと、皆さん僕は電話をした時に岩永さんとは話だけど会ってないんですよ、電話でしかお会いしてないからその面接の日が岩永さんと初めて会ったわけなんです
絶対に通りますよね、なぜかと言うと奇跡みたいな運がここで起きたんです、それは僕はさっき写真見せましたけど、鼻水が凍ってるときに一色紗英に笑われても、アルバイトをしてなんとか苦学生として頑張ってきたことで耕してたから運が呼び込まれたんだと思うんです
何が言いたかったかというと、みんな花が咲くタイミングが違うので、いつも自分の土壌を耕しておいて、ちゃんと水をあげてですね、種がいつ来てもいいように準備しておく、後ちゃんと日に当たるということですね
そして、植物は24時間日が当たっていたら枯れますから、夜も必要だっていうことなので、我々は生き物ですからやっぱり朝も昼も夜も必要なんです、なので、禍福は糾える縄の如しって言葉ありますけれども、いい時もあれば悪い時もあると思って、諦めないで欲しいっていうことと、SFCの危険なところは、起業して成功しなきゃいけないって空気が蔓延してますけど、そんなことありませんよというお話をして、最後にもう一つあります
SFCとして何をやりたいかっていうことで、ちょっと皆さん見てください
写真を、これ大企業のですね、経営者の写真なんです、知ってる企業の経営者の写真もあると思いますけれども、日本を代表するような大企業の写真の経営者の顔です
そして何の人かこの顔を出たからわかるかもしれないですけども、不正をした人たちなんです、日本の大企業、日本の最高学府大学、もしくは大学院を出たような日本のリーダーであるべきような人たちが大企業の社長になって、起業ぐるみの隠蔽とか不正をした人たちが今の顔写真です、調べました、東京大学もしくは東京大学大学院を出た人が5名、京都大学大学院を出た人が2名、早稲田早稲田大学院の人が2名
慶應一人もいないでほしいと願ったんです、今の写真の人たち、2名いました、0になってほしいですね慶應大学は
なので皆さん、SFCと一緒にもし私がやりたいとしたら、やっぱり本物のリーダーになる、心の教育をやりたいなっていうふうに思います
私は広告屋だけれども、心の教育ってのが大事だなと、それは何かっていうと全ての商い、全てのビジネスにおいて大事なことは人の役に立つというただこの一点だという、そして、私たちがこの世に生まれてきた理由の一つはただここに尽きるんです、人の役に立つということに尽きるというお話をして、締めの言葉とさせていただきたいなと思います、ご清聴ありがとうございました
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