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シャアは極左:4(最終回)

前回の続き。

「こんなもここらで男にならんと、もう舞台は回ってこんど」

手駒がなくなったシャア、自ら動く。

ザビ家への復讐から、理想的な社会への変革を目指した青年期を経て、政治的、平和的手段による人類の改革は不可能であると悟ったシャア。彼の導き出した、たった一つのシンプルな結論とは……

「小惑星を地球に落として人類が地球に住めなくなればの、みーんな宇宙の民となって新たな可能性が開けるんじゃけえ。地球も人類によって汚染される事がのうなってWin Winじゃろうが!」

だった。Yeah!めっちゃテロリスト!

シャアは、父であるジオン・ダイクンの遺児としての自分を前面に出し、ジオニズムの信奉者に敢えて担がれる形で軍事組織を結成した。自ら総帥を名乗って。その出で立ちは真っ赤な軍服にビクトリア調の装飾。「これでは道化だよ」とボヤくのも無理はない。旧ジオンの爺やたちが「馬子にも衣裳やで!」と張り切ったのだろう。ファンキーでホラーショーなお面かぶって大暴れしていたあの頃であれば「認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを」と吐き捨てる事も出来たが、嬉し恥ずかし道化師。シャアはもう33歳だ。

そして、その反連邦組織ネオ・ジオンは軍隊と呼べるほどの規模はなく、言ってしまえば寄せ集めのテロリスト集団であった。正面からの決戦では到底勝負できないので「小惑星を地球に落とす」という奇計をもって地球連邦軍に襲いかかる。「狙われるモンより、狙うモンのほうが強いんじゃ!」今回のシャアは本気だ。

変わろうとしない「愚民」にじれったさを覚え、いっその事こいつらを殺してしまった方が早い、という合理性は世界史に見る「武装蜂起による革命」の歴史をそのままトレースしたものだ。シャアが「極左」である所以だ。ようかくか。ようやくここで極左か。

そうなんだ。極左活動家は、生まれもって極左だった訳じゃないんだ。初めは誰もが平和的、理想的な改革の方法を模索し、活動・実行する。しかし、殆どのケースで現実が理想に追いつかない事に挫折してしまうんだね。。そして、それならばと急進的な考えにシフトしていく。もはや綺麗事じゃ済まされんど!ワシは理想の社会実現の為、鬼になるでぇ!という事だ。ヤケクソともいう。

シャアもその一人だった。革命というのは、何もリーダーシップを取る革命家一代によって成し遂げられるものでなくても良いと思うんだけど、シャアは自らの手で革命を成し遂げるため、最も早い方法を選んだ。「こんなもここらで男にならんと、もう舞台は回ってこんど」と旧ジオンの残党が囁き、シャアを担ごうとする。そして亡霊たちの存在もその声を後押ししたのだろう。シャアはこれまでの課程で同志や後継者と言える人物を全て失ってしまった。そこに対しては責任も感じていたのだろう。「死んだもんに、スマンけんのぉ」という気持ちはあったかもしれない。ララァ、カミーユといったニュータイプや同志たちの事だ。いや、カミーユは死んどらんけれども。もはや自らの手で革命を成し遂げるほかに道はなかったのだ。

「わしらの時代は終わったんじゃけん」

ネオ・ジオンを率いるシャアは、それを迎え撃つ地球連邦軍のエース組織「ロンド・ベル」と対峙する。その部隊を率いているのがアムロ・レイとブライト・ノアのコンビだ。保守本流の地球連邦軍にあって、ニュータイプに理解のあるアムロやブライトは左派マイノリティとも言える立場だった。彼らは常に運営の中枢の外側に配置され、最前線に立たされていた。もちろん彼らは組織の中では最も能力が高い軍人なので、それは必要な事だった。一方で高官からは「死んでも構わない」と思われていた節もある。上層部への不平不満を漏らしながらも、目の前の戦いに臨む、正しくも哀しい職業軍人であった。

アムロは、本来ならばシャアの一番の同士となる筈の人間だった。アムロ自身がニュータイプであり、自らの経験から「人はもっとわかりあえるはずだ」という考え方を最も強く持っていたからだ。けれども、彼はシャアにとっては「ララァを殺した人間」でもあった。アムロの前ではシャアも革命家ではなく、人間シャアだった。

一人の人間である全ての歴史上の革命家は、等しくこのような側面を持っていたと思われる。殆どの社会・共産主義は、指導者のほんの僅かな私情や私欲を優先させたが故に瓦解している。(例外はキューバのフィデル・カストロぐらいだ。それでもかなり危なかった)。

シャアにとっては、それが「アムロへの執着」だった。アムロが邪魔であれば、暗殺でも何でもすれば良い。シャアにはそれが可能だった。けれども彼はあくまでも「アムロに対等な条件でタイマンして勝ちたかった」のだった。スペックの劣るMSでなんとかやりくりするアムロを見たシャアは連邦側に対し匿名でMSの最新技術をリークする。ガンダムを最高のMSとするために。敵に塩どころか味覇を送った訳だ。そうして完成したのが連邦軍最強のMS「νガンダム」。シャアは自らの最高傑作「サザビー」に乗り込んでこれを迎え撃った。いやいやいや、総帥自ら出て行ったらあきませんやん!あんたァ!出ていかんといてや!ウチを置いていかんで!と愛人兼秘書のナナイが止めるも、シャアは聞く耳を持たない。

結果から先に申し上げると、革命的指導者であるにもかかわらず私人としてアムロとの直接決戦を望んだシャアは、その戦いで敗死する。(まあ、相打ち的にアムロも死んでるけど。公式では二人とも行方不明って事らしい)

アムロはシャアとの決戦でこう言った。

「世直しのこと、知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、
 夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない!」

これは明確にシロッコ(もしくはチェ・ゲバラあたりか)のことを言っているのだと思うけれども、シャア、お前も同じような事をやろうとしているんだぞ、というアムロの最後の警告だった。アムロは政治の人ではなかった。一人のニュータイプとして、それ以前に一人の人間として、世の中と対峙していたのだ。あくまでも「一兵士」であるに過ぎない、という立場でいたという事だ。

シャアはそれが面白くなかった。「愚民共にその才能を利用されている」と。「それがなぜわからないのか」と。アムロはわかっていた。良くも悪くも、大人なのはアムロの方だった。ただしアムロは大人だったので革命なんて大それた事を起こす事はできなかったし、この先生き延びても世の中を変える事はできなかっただろう。感受性の強い内気な少年は、その感受性をさらに高めてしまった事で「人の気持ちがわかりすぎてしまって身動きが取れなくなった人」という、人の業と不幸を煮詰めて干して発酵させたような青年として生きるしかなかったのだ。

兎にも角にも「逆襲のシャア」、最後はあくまでも対アムロ、個人の思想のぶつかり合い、そして清々しいまでのタイマン勝負で幕を閉じたって訳だ。ガンダム的な結論で言うと、「結局、革命だ何だって言ってるけどアムロをやっつけたかったんだろ」的なオチに行き着いてしまった。極左活動家シャアは、最後の最後で革命家としての道を捨て去った。それでこそシャア、とおれは思う。明確に「ラスボス」ではなく「もう一人の主人公」だった。

全共闘世代にあってノンセクト・ラジカルを貫いた富野御大。民主主義の「衆愚政治」と社会主義の「傲慢さ・非現実性」、そして、本来政治闘争とは無関係であったはずの「巻き込まれる人々」、この無常さを見事に描ききった。アニメーション作品でありながら明確な善悪は定義せず、作中では「何が正しいか」を導き出すことはなかった。だからこそ色々な解釈があり、これだけのファンの拡がりを見せたんじゃないかな。考えすぎか。モビルスーツカッコいいもんね。νガンダムとか最高だよね。おれはジ・Oが一番すきだけど。

政治活動ではなく、アニメーションという文化的表現によって自らの思想を語り継いだ富野 由悠季という人物、この時代にあって、不世出の作家・そして思想家の一人だと思う。

最後に、シャアは本当に極左だったのか?これを自分なりに結論付けたい。彼が起こした行動について考えると、シャアは明確に極左テロリストだったと言える。彼はいつも現場のリーダーだった。常に最前線に立つ頼もしいエース級の戦士だった。ただし革命的指導者ではなかった。彼はそもそも復讐者であり、その目的を果たした後はダイクンの息子としてではなく、なりすました後の人間、シャア・アズナブルとして生きたかったんだと思う。

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