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歌舞伎町ペーパー・ボーイ:5
オレがこうやって新聞奨学生時代のことを話せるのは、それが今までの人生で最も青春を謳歌した時期だったからだ。
オレ達の販売店は、みんな仲が良かった。事務所の連中でバンドを組んだりしたし、遊びに行く時も一緒の面子だった。販売店によっては店員同士まったく口を利かないという所もあるようだし、ホームシックやイジメで田舎に帰ってしまったという話も聞いた。
オレは最初に新宿に降り立って自分の担当区域が「歌舞伎町」だと聞いた時、とても不安で、暗い気持ちになった。しかし、何ヶ月もこの販売店で過ごしているうちに
「ここに配属になって良かった」
と思えるようになった。それはやはりジュンジをはじめとする愉快な仲間達がいたからだろう。
あの日から1年。あんなに恐怖だった歌舞伎町は相変わらずバイオレンスなままだったけれど、オレにとってはそれすらも良い意味での刺激になっていた。
何よりも、オレ達には意味不明なエネルギーがあった。土曜日の夜には新聞を配達するのと同じ道路を歩き、新宿のリキッドルームやコマ劇場のCODEで3時前まで踊った。そしてその足で日曜日の朝刊を配った。
12人の愉快な仲間達。みんなの事についてはちゃんと一人づつ書きたいところだが、とりとめが無くなってしまうので、代表して親友ジュンジの事を書く。
いけいけジュンジとオレ物語
「なんかよくわからんけど、憎めないし、いい奴」
ジュンジという男の人間的魅力はこれに尽きる。
元暴走族で、スティードを乗り回すバイカー。ヴォーカリストだが、ギターは弾けず作曲もできない。見た目は屈強で、訛りの強い東北弁を話す。そして、意外な事に気が弱い。これがヤツと最初に会った時のプロフィールだ。
新聞屋時代の彼にまつわるエピソードでその人となりを紹介しようと思う。
エピソード:1
近所の銭湯で靴ロッカーの鍵を無くしてしまったジュンジ。 江戸っ子風の番頭に怖れをなしてその事を言い出せず、結局、新聞店まで裸足で帰ってきた。
「だって、あのオッチャン、おっかなくね?」
結局、靴はずっとそのままだったな。どうしたんだろうな、あれ。
エピソード:2
遠距離恋愛で付き合っている彼女に曲を送ろうと今まで弾いたこともなかったアコースティックギターを猛練習したジュンジ。なぜかオレも付き合わされる羽目に。3ヶ月後、見事オリジナル曲を完成させカセットテープで彼女の元に送り、いたく感激されたが、それと同時にもう既に別の男がいることも告白された。
「どういうことだっぺ!」
「そういうことじゃねーの」
エピソード:3
ジュンジ、怖がっていたピアスに挑戦したでござる、の巻。理由は「モテたいから」。それは近道どころか遠回りなんじゃないかという気がしたが、面白いので黙っといた。安全ピンと消しゴムがありゃなんとかなるんだけど、怖がりなのでピアッサーで穴あけ。儀式を執り行うのははもちろんオレ。
19歳でピアスデビューのジュンジ。「あまり痛くないこと」に気づいたらしく、1ヶ月後には10Gのボディピアスを入れていた。 そして、その6ヶ月後には右腕にタトゥーを入れてしまっていた。幾らなんでもブリがつきすぎだろう。
1年後には磐城の暴走族からすっかり「東京のチーマー」に……。しかし東北弁はとうとう直らず…。見た目は「半グレ」だが口を開けば「磐城〇〇狂走連盟」という、キャラが立ちまくりのナイスガイにメタモルフォーゼした。
そんなジュンジだが、人知れずヴォーカリストとしての壁にぶち当たっていた。確かに歌はうまかったが、突出した何かを持っているわけではなかった。本人もそのことには気付いていた。
そもそもヴォーカリストとして食っていくのに学校は必要だろうか?
なかなか結果が出ない中で、ジュンジは音楽学校の退学を検討しはじめた。しかし、 持ち前のチキンハートで踏ん切りが着かず、結局オレが学校を中退した次の週に退学届けを出した。
「だって、キジマも辞めるって言うから」
「そんな理由かよ」
学校中退編
オレが専門学校に退学届けを出したのは9月。7月頃にソリの合わない講師と講義中に喧嘩してから、学校には週に1度も通わなくなってしまった。
揉め事の発端となったその講師は、自慢話ばかりで何かを教えたりコミュニケーションを取ろうとする意思がないクソ野郎だった。所詮バンドで一時期有名だった過去の栄光が捨てきれず、時給2,000円でバイト講師してるような奴だ。
事件があった日の事はよく覚えている。「絶対音感」についての講義だった。“絶対音感持ってるやつ一番偉いマン”のアホアホ講師は、またお決まりの自慢話を披露し始めた。
「山手線の発車メロディが瞬時にドレミの音階で頭の中を駆け回る感覚わかる?聞こえる全ての音に音階がつくんだよ!」
自分の話す内容に興奮してヒートアップするタイプのアホだった。
(それは大層お困りでしょうねえ!)
……これは、心の声のはずだった。だが実際のオレは、
「それは大層お困りでしょうねえ!」
とハッキリ口に出していたのだった。
そこからは単なる口喧嘩が始まり、唖然とする他の生徒を尻目にオレの罵倒が始まった。当たり前の話だが、最終的には
「気に入らねえなら、ここから出ていけ!」
と言われてしまう顛末だった。
オレはもちろん元気よく「はーい」と言って席を立った。唯一仲が良かった2つ年上のクロちゃんがオレに同調し、二人でめちゃくちゃカッコつけながら教室を出て行った。イスぐらいはぶん投げたかもしれない。あの時、オレたち二人は自分の世界の中だけでヒーローだった。
結局、オレがその音楽専門学校に通ったのは通算で40日にも満たなかった。退学を決意した理由はアホ講師の件だけじゃなかった。そんな状態であるにも関わらずオレの成績が半期で学年2番の成績だったことの方が大きかった。
他の奴らは何してたんだ?そもそも習う内容が初心者向けすぎた。そんな事も知らんと、お前らは本当に音楽が好きなんか?
当時から生意気なオレではあったが、この件については自分が凄いんじゃなく周りがヌルいんだと思った。そしてそれを悟った瞬間、もうこんな学校辞めたれ、と考えるのは自然な流れだった。このまま成績優秀なら卒業さえすればある程度の業界・企業に就職できたと思う。でも、そんなのクソの紙くずだ。こんな奴らと2年。まったく時間の無駄だ。
その学校で唯一、信頼していたイベント運営関係の講師に相談してみたら、こう言われた。
「ここだけの話、本気で音楽好きなら、こんな学校なんかやめちまいなよ」
オレが90万払って得た唯一の教訓だった。
退学届けを提出するのに時間はかからなかった。もう、音楽の業界でメシを喰うって幻想からは醒めつつあった。
退学を決意するにあたっては数々のプロミュージシャンと関わりを持ち、自らもミュージシャンへの道を邁進していた先輩、ジンナイさんの影響も大きかった。ジンナイさんには毎週のようにQUEやリキッドルーム、或いは有名無名のクラブに連れて行ってもらった。
ジンナイさんの紹介で出会ったプロミュージシャンでコンポーザーのやっさん、タマキさん、マキヒトさん、タナカさん。音楽を本当に愛する人達との出会いはオレの心の財産になった。学校では何も学ばなかったけれど、新聞屋で出会った人達には音楽的にも人間的にも大きな影響を受けた。結果オーライ。オレは運がいい。
それからの半年、オレは昼間の空いた時間を使ってグラフィックデザインの勉強を始めた。販売所の近くに小さなデザイン事務所をやっている人が居て、偶然知り合ったその人にそっちの道を薦められたのだ。
講義で編集・エディトリアルの基礎をやっていたから(それだけは役に立ったな)、ある程度の知識はあった。イラストレーターもフォトショップも少しは使えた。その稚拙なスキルで色々なミュージシャンのフライヤーをやらせてもらった。
「いいよ、いいよ、どんどんやりなよ」と乗せられたのか、本当にいいと思ってもらえたのか、当時はわからなかった。才能の有無の判断がつかないままではあったが、デザイナーになろうと思った。自分がリスペクトするプロから「キジマのデザインが本当にいいからお願いするよ」と言われる事が次の目標になった。
ジュンジは学校を辞めてハーレーを買う決意をした。自分は音楽の道を行くより、好きなバイクに乗っていたい。そんな風に思ったらしい。
オレ達には、なりたい者になる才能がなかった。ただ、それに気付くのも早かった。諦めから新しい生き方を見つけたオレたちは幸せ者だと思う。
ジュンジが今どこで何をしているのか、オレは知らない。ある日、何かの事故で携帯電話が水没してしまい、連絡先がわからなくなってしまったのだ。
しかも、そのタイミングでうっかりキャリアを変更してしまい、電話番号まで変わった。これでは向こうからかけてきてもわからない。あれは生涯のミスだった。ヤツと最後に会った時は練馬のアパートで暮らしていて、肉体労働をしながらハーレーを乗り回していた。ジュンジのことだから、たぶん今も同じような感じで生きているだろう。
他のみんながどうしているのかも、時々は気にしている。でも、やっぱり、当時と同じような感じで生きているだろう。職業や住む場所が変わっても、そうなんだろうと思っている。
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クロちゃん
専門学校時代、唯一仲のよかった2つ上の同級生。クラスでは唯一クラブ好きで、俺にLIONROCKとKOMEDAを教えてくれたハイセンスな音楽マニアでもあった。ストーン・ローゼスの「ベギング・ユー」が最高ということで意気投合。例の事件後も真面目に学校に通い、映像制作系の会社に就職した。その後も何度か会って遊んだりしたが、いつの間にか疎遠になってしまい、今は行方がわからない。
ジュンジ
新聞屋時代のマイメン。ジュンジとは2018年にFacebookで再会した。その後オレが用事で上京するタイミングで一緒に遊び、滅多に行かないキャバクラに連れて行ってもらった。酒は苦手だけどアイツが一緒だと楽しい。ジュンジは女の子に「俺の名前はジャック・ダニエル」とか言っていた。女の子と話すより高田純次みたいな適当な口振りで女の子をたぶらかすジュンジにツッコミを入れるのが楽しかった。コロナが落ち着いたら、また一緒にバカな事をして遊びたい。
現在は内装工事の親方として活躍中。2児の父。まだハーレーに乗っている。