人生ってずーっと暇だけど、何する?
人間とは精神である。
精神とは自由である。
自由とは不安である。
これは、デンマークの思想家、セーレン・キルケゴールの有名な言葉だ。この言葉は、僕の中で長い間、ずっと響いている。
今日、高校からの友人のnoteを読んだ。
すごくいい記事だと思う。しかもタイトルよ。「人間幻想生命論」、、、なかなかいいじゃないか、、、盗用しよっと。(小声)
この記事のはじめの一節に特に心を惹かれた。
人生に意味はない。あってたまるか。ないから、いいのだ。意味も目的もないから、何にも束縛されず、全方位に無限に広がる。
たしかにその通りだ。人生に意味などない。
今を生きる、ほとんどの人間は生まれてきた意味などないし、その先の人生を生きる意味もない。
ただ、生きているのは、頼まれてもない使命感や、ささいな楽しみ、そして死への恐怖とかを、勝手に感じているだけに過ぎないのだ。
だから、その意味もない人生に、何らかの意味を与えるために、僕らはいつも行動している。
食べて、寝て、呼吸をする以外に、僕らは美味しいものを食べたり、映画を観たり、音楽を聴いたりする。別にしなくても生きていけるのに。
僕らはこうやって、「暇」と呼ばれる時間を殺して生きているのだ。
そもそも「暇」というのは、かなり最近生まれた言葉だ。
最近、と言っても、人類が趣味をはじめだしたころに、この「暇」は生まれたはずだ。
それまでは、人類は生きるのに必死で、明日の食糧や寝床を探すのに必死だったからだ。
我々は幸い、狩りをしなくたって生きていけるし、明日の朝に、マンモスに踏まれているかも、などという心配をする必要もなくなった。
みんなが同じことをしていた時代は終わり、みんなが違うことをしていても良い時代が訪れた。
しかし、そこから我々は新たな壁にぶつかってしまった。
それは、自由への不安である。
生きていくために不自由を強いられていた時代が終わり、好きなことをやっていい!と言われても、それがまた不安になる。
この逆転現象はなんとも不思議だ。
みんなが歩く道は、舗装されているだろう。その「不自由さ」は不自由どころか、むしろ楽かもしれない。
人類が、長い年月をかけて、命懸けで手に入れた「自由」は、「不安」というたった一つの感情によって、失われようとしている。
僕は、それを決して危惧しているわけではない。
人間、楽な道に進みたいのは当然だ。
でも、心底、くだらないとは思う。
みんなが進む道には何があるのか、もう標識が立っているのだ。ここにはこれがあって、角を曲がると、これがある。
しかも、みんなが進む道には、その道の「正解」がある。こうなるべきだ、こういう人でありなさい、もううんざりだ。
そして、そこには、「意味」という、古本のような、古臭くて錆びついた、価値観がある。
この「意味」とやらは、すごくやっかいだ。
意味があるから、人の言葉は説得性を持つし、人は流されていく。
人一人の視界は狭いから、その意味をいつしか妄信している。
意味に縛られているから、僕はいつも嫌な思いをするのだ。
意味から解放されよう。
崇高な人生などないし、目指すべき人格なんてものもない。
そもそも、人生に意味なんてないんだよ。何回も言うけど。カメに生きがいがあるか?シマウマに生きがいがあるか?猫はなぜ生きてる?サルはなぜ生きてる?答えられない?じゃあ、人間は?みんな同じなんだ。
人間だけが、好きなことをやっていいという特権を与えられたのに、その権利を「意味」という呪縛によってはく奪されたままでいいのか。
僕は、その意味を脱ぎ捨てよう。
意味もない人生を送ろう。文字通り。
誰のためにもならないし、誰を救うこともしない。
気づけば誰かが救われているくらいがいいのだ。
最後に、『天才バカボン』の作者、赤塚不二夫先生の葬儀で、タモリさんが読んだ、弔辞の一部を引用しよう。
あなたの考えは全ての出来事存在を、あるがままに前向きに肯定し受け入れることです
それによって人間は重苦しい意味の世界から解放され軽やかになり、また時間は前後関係をたち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています
すなわち「これでいいのだ」と
すべてを受け入れ、あるがままに前向きに肯定して受け入れる。
それによって、人は意味の世界から解放され、時間は前後関係をたち放たれて、その場が異様なほど明るくなっていく。
すなわち、何が起ころうと、「これでいいのだ」
万物流転、諸行無常、古い日本語にもこんな表現がある。結局、昔からそうなのだ。今一度、考えてみよう。人生とはどれだけのものか。基本的にはしょうもないよ。人一人の人生なんてそんなもんだ。
それをどう楽しむかは自分次第。
ところで、人生って暇だけど、これから何する?