【ネタバレ】正直もうオワコンだと思ってました。007 No Time To Die を観て思ったこと。
007の最新作、No Time To Dieを観た。
結論から言うと、俺は好きです。
No Time To Dieの話をする前に、007のざっくりな歴史と、自分が持っている007の大まかなイメージを書き出してみようと思う。
007はイギリスの小説家、イアン・フレミングが発表したスパイ小説。初作品の『カジノ・ロワイヤル』は1953年に初版が出て、それからすぐの1962年に映画1作目の『ドクター・ノオ』が発表されて、その映画シリーズは今でもずーーーーーっと続いている。
(ちなみに、映画1作目の『ドクター・ノオ』と映画2作目の『ロシアより愛をこめて』は、日本ではそれぞれ『007は殺しの番号』と『007危機一髪』というタイトルで公開されている。さすが、スター・ウォーズを『宇宙大戦争』、ナポレオン・ダイナマイトを『バス男』っていうタイトルで公開したor本気でしようとした国ですわ、バンザイ!!)
まぁ、ざっくり言うとこういう歴史があると。映画は今年で59年目になるのだ。
そんで、007=ジェームズ・ボンドのキャラクター性といえば、クールでスタイリッシュ、そしてやたらと女好き。
任務中に出会った現地女性や、別の組織の女スパイと、すぐいい感じになり、すぐ一晩を共にしてしまう。つまり、行きずりの恋とか簡単な肉体関係ってことね。
そういう部分は、やっぱり日本だけじゃなく海外でも俗にいう、「昭和感のある憧れ」みたいな部分として意識されていたと思うし、それはそれでよかったんだと思う。
まぁこれを簡潔に言うと、「もう!ボンドさんのエッチ!💓(全然嫌がってない)」みたいな感じだろう。
ただ、近年、それが非常にまずくなってきた。
別に手が早いことが悪いんじゃなくて(別に今も昔も、女性にだって手が早い人はいるしね)、ボンドと関係を持った女性の結末がアカン!!という風潮が出始めた。
突然だが、「冷蔵庫の中の女性たち」という概念を知っているだろうか?
この言葉の起源は、『グリーン・ランタン』というアメコミヒーロー(バットマンとかスーパーマンの同僚っていうイメージでOK!)の雑誌で、彼が家に帰ると、彼の恋人の女性が殺されて、冷蔵庫の中に遺体をぶち込まれていたということに由来している。(さすがにやりすぎ)
その後、このグリーン・ランタンの物語は急速に加速していく。ちなみに、こういうストーリーは他の映画にも多く登場する。それはなぜか。
結論を言うと、男性ヒーローの物語が進んでいくための「仕掛け」として、女性の死や悲劇が用いられることが本当に多いのだ。
例えば、同じアメコミで言うと、スパイダーマンの恋人、グウェン・ステイシーが、彼の宿敵であるグリーン・ゴブリンに殺されたという経験が、彼の復讐心と後悔を奮い立たせて、スパイダーマンの物語を豊かにしていることは事実だし、
つい最近でも、『アベンジャーズ・エンドゲーム』で、戦いに必要な武器を手に入れるために、主要登場人物のナターシャ・ロマノフがあっけなく殺されてしまった。彼女の死によって物語は進んでいくが、彼女の死を誰かが思い出すことは、そのシーンの直後以外なかった。
このように、女性の死が物語の進みを加速させていくという事実は、たしかに映画や小説、漫画などではよくあるのだ。今読んでいるそこのあなたも、自分が好きな映画や漫画などを思い出してほしい。絶対に一つはこういうケースがあるはずだ。
007シリーズは、この「冷蔵庫の中の女性たち」の宝庫だった。
例えば、1960年代にボンド役を担った(ボンド役はけっこう交代している)俳優、ショーン・コネリーのシリーズの、『ゴールドフィンガー』(1964)という作品では、金(金属)にまつわる犯罪を行っている大富豪、ゴールドフィンガーを裏切り、ボンドとヤっちゃった女性が、その報復として、全身に金を塗られて窒息死させられる。
このシーンによって、ボンドと我々観客は同時に、ゴールドフィンガーの恐ろしさを知ることになる。
また、これは昔に限ったことではなく、最新作の『ノー・タイム・トゥー・ダイ』でボンド役を担っている、ダニエル・クレイグのデビュー作である、『カジノ・ロワイヤル』(2006)でも、物語の最後にボンドが本気で愛した女性、ヴェスパー・リンドが不慮の事故で亡くなってしまう。
ヴェスパーの死は、クレイグ版ボンドの物語に大きな影を残し、かつ深みを与えているのだ。
その後も、それに尽きず、その続編の『慰めの報酬』(2008)でもボンドを性的関係を持った女性エージェントが、オイルまみれにされて殺されてしまう。これも物語の重要なターニング・ポイントになっている。
さらにさらに、そのまた続編の『スカイフォール』(2012)でも、ボンドの上司であるMという女性が映画の最後に亡くなってしまう。Mはボンド映画でも最重要人物の一人であるために、この展開は衝撃的であった。あ、ちなんでおくと、別にいいんだけど、このMの後任は、白人男性です。
クレイグ版のボンドは、かつての007シリーズといかに違いを作っていくか?みたいな目標があった。実際、有名なオープニングのやつ(ガンバレル・シークエンスっていうらしい)を変則的にしてみたり、あえて映画の最後に入れてみたりしている。(この動画の11:46からがクレイグ版。それより前のシリーズのものとも比較してみて!)
他にもボンドの超有名な名セリフである、
「ボンド、ジェームズ・ボンド」
や、
「ウォッカ・マティーニをステアせずにシェイクして」
みたいなセリフをあえて言わせない、とかね。そういう工夫はたしかにあった。
でも正直、芯の部分、女性を犠牲にしてボンドのミッションが進んでいくという構造は、結局変わらないのだ。
別に俺が、男しか活躍しない映画が嫌いとかじゃなくて、女性だって戦えるんだぞ、男に頼らなくたっていいんだぞ、ということが映画で表現されて当たり前、いやむしろされるべきだ、という映画市場の中で、ずっとこんなことやってたら、さすがにもうオワコンになるよ?
っていうことを毎度毎度思っていたのだ。
するとどうだ。この前公開された最新作、"ノー・タイム・トゥー・ダイ"は。
ここからはネタバレを書きます
ボンドはバカ正直に、「ボンド、ジェームズ・ボンド」とも、「ウォッカ・マティーニをステアせずにシェイクして」とも言うのだ。
もちろん、いつも通りアストンマーティンに乗るし、オメガの時計をつけるし、トム・フォードのスーツを着ている。
でも、唯一違うのは、この作品では、女性が一切無駄死にしないのだ。
新007となったノーミも、Mの秘書であるマネーペニーも、前作からボンドと恋仲になったマドレーヌも、ボンドをサポートするCIAの新エージェントで、しんどいほどかわいいのに、めちゃくちゃかっこいい、なんならこの子になら俺は撃ち殺されたっていいパロマちゃんも死なないのだ。(落ち着け)
一方で、男ばっかりが死ぬ。
ボンドも死ぬし、ボンドの長年の相棒、フィリックスも死ぬし、ボンドの宿敵のサフィンも死ぬし、宿敵ブロフェルドも死ぬ。
この有り様を見て思ったのは、死によって映画の進展がある、という仕掛けは別にこれから先あったっていい。なんならけっこうおもしろい。でも、それが死ぬのが男でも別にぜーんぜん面白いじゃん!!ということだ。
女性が死んで、男がキレる、という構図、もう飽きてるよ。
だったら、男が死んで男がキレる構図、悪くないじゃん。
ここまで明確に男女の死のバランスが逆転している映画って最近あっただろうか。あんまり見ないかもな。俺はね。
スター・ウォーズのエピソード9では、レイの代わりにカイロ・レンが死ぬみたいな描写があったけど、レイがパルパティーンの孫で~みたいな映画史に残るどうしようもないくだりがあるせいで、そういうとこは一切触れられないよね。でもそこはカイロ・レンの改心っていう意味合いだと思うから、もしレイのパートが男性でも、間違いなくカイロ・レンが死んだだろうな。
007の話に戻るけど、この映画って、女性が死なないプラス、女好きなボンドが将来を誓った一人の女性以外とは性的関係を持たないところが新しいよね。ヴェスパーとの純愛劇みたいなイメージがある『カジノ・ロワイヤル』だけど、普通に人妻とヤってしまってるからね。うん。
ヴェスパーとは添い遂げられなかった(死んだから)ボンドはそれを悔やみ続けるけど、今作では実際にヴェスパーの墓に弔いに行くシーンもあるし、マドレーヌとも子供ができるし、そういう意味では、ボンドはもう遊び人ではなくなった。女性をたぶらかして、道具みたいに扱うみたいな節があったからね。この変更はかなりデカいと思う。
というかさ、そもそも007が英国紳士っていう巨大すぎるカテゴリーに与えた影響とか、これまでのボンドの確立されすぎたイメージとかを考えても、よくもここまでいさぎよくそれを壊せたな、と。
この映画は面白い、面白くない云々はいったん置いておいたとしても、この固定概念をブチ壊すのに成功したことに一番大きな意味があると思うんだよ。
だって、この映画がそれをできる、本当に最後のチャンスだったから。
映画としては高く評価されないかもしれない、でも、007という超巨大なブランドの存続をかけた、一世一代の賭けには、辛勝したんじゃないかと思うよ。
という感じの感想でした、、、
このシーンがいい!みたいなのは、他のブログとかTwitterでもよく見るから、この記事では歴史と紐づけて考えてみました!
『ノー・タイム・トゥー・ダイ』の副題をつけるとしたら、
「そして父になる」
で決まりですね!はいはい!!
というわけでまた明日~!