【4月の第四週】ひみつきちのはなし【ある喫茶店にて】
「ありがとうございます。またどうぞ。」という声に見送られてお店を後にする。
小道を戻って道路に出ると、人の往来があった。
学校帰りの学生や、夕飯用の買い物をしたと思しき袋を持っている老人、犬の散歩をしている親子。
いつもなら、私が絶対に見られない光景だ。
私がこの道を通るのは早朝か深夜のどちらかで、犬と一緒にランニングしている人が通り過ぎることはあるけど子どもなんて絶対に見かけない。
「ここって、こんなに人が住んでるんだ……。」
自分が住む地域に住む人たちの多さにもそうだけど、それに気づかないでいた自分に驚いた。
気づけないくらい、いっぱいいっぱいだったのかもしれない。
すこしゆっくり歩きながら、目に焼き付けるようにして景色を見た。
次にこんな光景を見られるのはいつになるだろう。
だって……、と続くネガティブな情報を払うように頭を振った。
到着したのは古いアパート。
オートロックなんて検討したこともない、セキュリティが鍵しかないようなふつうの建物だ。
ここが、私の家。
さっきまでいた空間を思い返すと、気分が沈んだ。
なんてつまらない所に帰ってきてしまったんだろう、もっと寄り道をするとか、何かすればよかったのかも。
だからといって、今更どこかに再出発する気にもなれない私は諦めて鍵を回した。
靴で埋まった玄関に始まり、なんだかどんよりした空間が広がっている。
ゴミを最後に出したのはいつだっけ、洗濯したのはいつだっけ。
トイレを、お風呂を掃除したのは、自炊をしたのはいつだっけ。
なんだか空気も濁っている気がする。
いれたてのコーヒーの匂いなんて贅沢はいわない、けど、いい匂いじゃないならきれいな空気くらい吸いたかった。
でも、こうなってるのは誰のせいでもない。自分のせい。
それがわかっているから、なお辛かった。
諦めて玄関に入りドアを閉め、鍵をかける。
てきとうに靴を脱いで、床に散らばったものの隙間を縫うように、たまに足でかき分けながら歩いていく。
……こんなとき、バレリーナだったらもっとスイスイ歩けるのかな。もっと優雅にものをどかすんだろうか。
廊下部分を抜けて部屋部分に到達すると、さらなる混沌が私を待っていた。
「さっきと、全然違うや。」
さっきまで私を待っていたのは、とっても素敵なカフェオレボウルやどっしりとしたバナナブレッドだった。
こざっぱりとしてるけど落ち着いた空間に、素敵なカウチやテーブルがセットになって配置され、そこに素敵な器やトレイに乗せられて運ばれてきたんだ。
席を離れたら、じっと私を待ってくれてたんだ。
こんなんじゃなくて。
もっと落ち込みそうになった瞬間、ふと店員さんとの会話を思い出した。
「あの、カフェオレボウルなんですけど、引き取り期限ってありますか?今日は持ち帰れなくないんですけど、できればスーパーとか見て帰りたくて。」
「お支払いいただいたので、お引き取りはいつでも結構です。ですが、あまりにも時間があくと、お忘れになっていないか確認させていただくことがあるかもしれません。引き取りだけでご来店されて問題ございませんので、お持ち帰りできるタイミングでいらしてください。」
「ありがとうございます!このカフェオレボウルをお迎えする準備ができたら持ち帰ります!」
スーパーなんて寄るつもりは最初からなかった。
でも、今の精神状態で落として壊しでもしたらきっと私は発狂してしまう。
持ち帰っても置き場所なんて無いし。
だから持ち帰らなくていい口実として、行きもしないスーパーの話なんかしたんだ。
そもそも、私は家でカフェオレなんて飲まないし、牛乳だって買わないし。
何のためにあのカフェオレボウルを買ったんだろう。
ああ、私ってものすごく考え無しで見栄っ張りなんだな。
でも、でも、本当に欲しいと思ったんだよ。素敵だと思ったんだよ。
今ここにあのカフェオレボウルがあったらどんなに素敵だろう。
あのお店みたいな空間だったら、この家はどんなに素敵なことだろう。
私は暗くなってきた部屋の電気をつけて、モノに埋もれたローテーブルを見つめた。
こんな状態のテーブルに、あのカフェオレボウルは相応しくない。
私は足元に散らばるコンビニ袋の中から特別大きいものを2つ選り分けると、中身を可燃と不燃に分けた。
「うっしゃあ!」と大きな声を出して、自分を奮い立たせる。
こんなテーブルの状態で、あのカフェオレボウルを迎えることなんてできない。
テーブルの上だけでも、よくしないと。
その考えに突き動かされて、私はひたすら動いた。
鼻をかんだ後のティッシュ、可燃。
わりばし、可燃。
コンビニ弁当の容器、不燃。
固くなっててダマになっちゃうマスカラ、可燃。
ペットボトルの蓋、不燃。
コンタクトの容器は……蓋が不燃で、器はプラスチックなんだ。
あっという間にローテーブルの上が片付いて、次はその周り。
洋服をいれてるチェストの上、隣のカラーボックス、ベッド横の小さいキャビネット、テレビ台、ゴミで溢れたゴミ箱とその周り。
そんな具合に私はどんどんゴミを片づけていった。
ゴミ袋はすぐにいっぱいになって、次のコンビニ袋を使うことになった。
そうやってできたコンビニ袋は可燃も不燃も5個を超え、部屋の隅に積み上げられた。
私が立っている周り、いや、部屋の床には何も散らばっていなかった。
足元が少し肌寒く感じる。
こんな状態はいつぶりだろう。
夕日にほこりが反射して、キラキラして見えた。
勢いで片付けをした反動か、少しぼーっとしていた私をくしゃみが何度も襲った。
そうか、ほこりが立ったからだ。
慌ててベランダの窓を開けて換気をすると、ザザアッと植物を揺らして風が入り込んだ。
「きもちいいー。」
ただゴミを捨てただけだけど、気持ちよかった。
掃除機をかけたわけじゃないし、片づけに迷ったものも部屋にはたくさんある。
だけど、気持ちよかった。
カフェオレボウルを迎えに行く準備はひとつ、終わったのだ。
「綺麗なテーブルに置きたいもん。よどんだ空気の部屋も、ぜんぜん似合わない。片付いていないと、カフェオレボウルが目立たないよね。素敵なカフェオレボウルで、素敵な生活をするための、素敵な空間が必要だ。」
時刻は17時30分。
私は「部屋の片づけ」「部屋掃除」でググって情報をさらうと、家の中をぐるぐる回ってメモを取った。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは!あの、今日はカフェオレボウルを引き取りに来ました!」
「かしこまりました。ご用意いたします。」
カフェオレボウルを買って、ゴミ捨てをしたあの日から5週間が経った。
私はちょいちょいお店でコーヒーやお菓子を楽しみながら、部屋の片づけに精を出した。
片付けが滞った少し疲れたときにお店に来ると、自分が何をしたかったのか、どんなイメージをしていたのかを思い出すきっかけになってメリハリがついた。
いろんな器を試したり、飾ってあるインテリアの本を参考にしながら、私はカフェオレボウルを迎える準備をした。
その間、店員さんは「いつ引き取りますか」といった質問をせず、ただ私の注文を取ってくれた。
それがとてもありがたかった。
それがようやく終わったのだ。
完ぺきではないけど、片付けが落ち着いてある程度生活や空間が固まってきたように思えたから。
今の家にならあのカフェオレボウルを置いても大丈夫だと思えたから。
だから迎えに来たのだ。
今日、私はこのカフェオレボウルを使って家でカフェオレを飲むと決めていた。
少し待つと店員さんが紺色の紙袋を持って姿を現した。
「こちらです。どうぞ。」
渡してくれた紙袋の中にはカフェオレボウルがおさめられている箱と、その上に小さな包みが乗っていたのだ。
「これは?」
「もしよろしければ、新しくお店で出そうと思っているお菓子の試作を召し上がりませんか。今度いらっしゃるときに感想を聞かせていただけると嬉しいです。きっとカフェオレにも合いますよ。」
お礼を言ってお店を出る。
スキップしたいような、走り出したいような気持を抑えて、紙袋を落としたりぶつけたりしないように早歩きで帰った。
家に着いたら、早速このボウルでカフェオレを飲もう。
店員さんがくれたお菓子も一緒にいただこう。
なんて素敵なんだろう。ご褒美をもらえたみたい。
ある土曜日のおやつどき。
私は理想のシチュエーションでカフェオレを飲んだ。
あたたかな午後、ベランダの窓を開けるとカーテンが風にそよぐ。
何も置かれていないローテーブルに湯気の立つカフェオレボウルと、小皿にうつしたお菓子。
ネット配信で「SUNDAY CAFE」なんて画像がサムネイルになったそれっぽい音楽をかけたらあとはスマホを放置。
両手でボウルをかかえて、カフェオレに専念する。
お菓子はアーモンドプードルが効いたビスケットだった。
あのお店とは違うけど、あのお店にいるような感覚になりながら私はカフェオレとビスケットを味わった。
小道の先のちょっと隠れたような場所にある、ひみつきちみたいなお店。
そこから来たカフェオレボウルはのぞき込むとそのまま秘密基地に行けるみたいに思える。
今、私の手の中にひみつきちがある。
私用の両手でかかえる、ひみつきちが。
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