見出し画像

私の来し方とトラウマの話(中)

前回は中学受験が終わるまでの経緯を書いたが、ここからは中学高校、いわゆる青春時代の話になる。私の青春時代は悲惨だった。

1.中学に上がる

受験を全敗したので結局地元の公立に進学した。半分は同じ小学校だ。だが、私は中学受験でスパルタ缶詰教育を受け、代償で人との接し方がわからなくなっている。まるであの塾に行った時と同じような精神状態で臨んだ。救いだったのは1年のクラスが小学校時代仲が良かったメンバーと一緒だったことだ。小学生の頃のようには接せないが、皆親しくしてくれて何とか自分を保てた。また、失敗したとはいえ受験勉強を経ている。私の成績はクラス上位だった。その頃の私は試験で結果を出すことしか自己表現の方法が無くなっていた。私は自分を見失っていたが、1年はそれでなんとかなった。

問題は2年に上がったとき。仲の良いメンバーとほとんど離され、別の小学校から来た連中とばかり一緒になった。また、学年内が荒れ始めた。学生生活に暗澹たる空気が垂れ込めてきた。塾ほどでは無かったがやはり軽いいじめを受けるような状態になり、友人はほとんどできなかった。
なぜかクラス投票で班長に選ばれたが、よくある勉強ができる生徒に学級委員を任せる理屈でしかなく、班の男子は全然言うことを聞かなかった。副班長の女子と一時期すごく打ち解け、まんざらでもない空気になったが、周りが噂し始めて関係は終わった。このクラスには良い思い出がほとんどない。クラス分けをした教師を心底憎んだ。

3年になったとき、例年ならクラス替えがないらしいのだが、私の代は荒れているクラスがいくつかあったのでクラス替えがなされた。1年の時ほどではないが仲の良い何人かと一緒になって、少しだけマシになった。だが、この頃から私の「勉強ができる」というアイディンティティが崩れ始める。小6の算数特訓のおかげで得意科目になっていた数学がだんだんできなくなってきていた。努力のみで身につけた実力は努力を続けないと駄目になる。そう痛感した。
高校受験だったのでまた塾に通い始めたが、親も少し懲りたのだろう。大学生バイト主体の個別指導スクールに通った。先生達とは年齢的にも距離が近く、ストレスは無かったがさほど身にもならなかった。高校受験はあまり覚えていないが親が高望みした第一志望が駄目で、第二第三志望は受かった。第二は良いか悪いかで言ったら良い部類に入る偏差値だったので第二に行くことにした。
ここで毒祖母がまた登場する。同い年の近所のヤンキーが地元の工業高校に受かって立派、なのにうちは聞いたこともない高校…と言い始めた。こちらの方が偏差値20以上も上であり比較される筋合いなどなかったが、根っからの田舎者である祖母は地元の高校進学こそ立派と考えていて譲らない。このクソババア早く死ねと思った。

中学卒業の日。大事件が起こる。父が職場で脳梗塞と心筋梗塞を併発して倒れたのだ。知らされたのは卒業式から帰宅後。何が起きたか分からなかった。母は病院にいるという。その日の夜、親戚とタクシーで病院に向かった。面会謝絶で父には会えず、器具に繋がれた父をガラス越しに見るだけだった。ここから我が家の大暗転が始まる。

2.高校時代

高校入学の手続きは既に取っていたので予定通り進学したが、家のことが気がかりで新生活を楽しむどころではなかった。だが、不幸中の幸いで父は一命を取り留めた。言語と右半身に重い障がいが残った。母は父のリハビリと職場復帰に奔走しており、家族で食卓をかこむということが無くなった。思えば、まともな母の姿を見たのはこれが最後だった気がする。
父が倒れてから1年後、母の努力もあって職場復帰が叶った。職場も家から車で20分ほどの所に落ち着いた。母はこれで精魂尽き果てたのか、毎日寝込むようになった。その隙に付け入るように、コロニーを形成している父のきょうだいが我が家に出入りし、母を責めるようになった。後で知ったが、祖母が告げ口して回っていたらしい。また、父も障がいの影響で理性を保てなくなり、苛々することがあると家中の扉を乱暴に閉めて威嚇した。私は音に敏感になって、ずっと遠くの車のエンジン音すら気になるようになってしまった。

家族も親族もまともな大人が1人もいない、いがみ合いと機能不全の家庭が出来上がった。私はなんとかする力が欲しいと思い、勉強を頑張って特進クラスに入ったが、それが限界だった。大学受験は全落ち、浪人生になることが決まったが、勉強する気はさらさら起きなかった。高校生活の記憶はほとんどない。(続く)

いいなと思ったら応援しよう!