(短編小説)通り過ぎる光景
ホームに立つ彼女は、淡々とした時間の流れに身を委ねていた。午前10時20分。通勤ラッシュが終わり、人々の足取りは軽やかで、駅構内にはまばらに人が行き交っている。ホームに立って待つ彼女も、特に急ぐわけではない。次の電車に乗るため、ただそこにいるだけだった。
薄曇りの空が広がる中、遠くから風を切るような音が聞こえ始めた。まもなく、通過列車が近づいてくる。彼女は一歩も動かず、ただその音をじっと聞いていた。
その瞬間、まるで時が止まったかのように、周囲の景色が薄れていく。構内にまばらにいた人々の姿は消え、足音や遠くのざわめきもかき消されていった。彼女の前に広がるのは、通過列車だけの世界だった。
列車は轟音を響かせ、目の前を一瞬で駆け抜けていく。その風圧が彼女の髪を揺らし、体に冷たい風を感じさせた。けれど、それすらも現実感が薄れている。視界に映るのは、ただ速さだけを刻む列車の流線。周囲の音も何もかもが、列車の走行音に飲み込まれていく。
彼女は、その世界に取り残されたかのような感覚に陥っていた。まるで、自分だけがここに存在し、列車とともに時が過ぎ去っていく。目の前を過ぎるその一瞬が、果てしなく続いているかのようだった。
列車が通り過ぎた。次の瞬間、世界が一気に開けた。風の音、駅のアナウンス、人々の足音――すべてが一度に戻ってきた。先ほどの静寂が嘘のように、駅は再び日常の音を取り戻していた。彼女は一瞬、心臓が強く鼓動するのを感じたが、それもすぐに落ち着いた。
再び、彼女は静かにホームに立ち、何事もなかったかのように次の電車を待つ。その表情は淡々としていて、感情の起伏は見えない。しかし、心の奥底では、何か大きな波が静かに打ち寄せていたのかもしれない。
遠くで電車が近づいてくる音がした。彼女はそっと視線を向けた。