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ブライトン・グロサーズ 第5話
「中年男性と夕陽」
バイトを始めて1ヶ月が過ぎた頃、夏の暑さは少しずつ和らぎ、夕方になると風が心地よく吹くようになった。スーパーマーケット「ブライトン・グロサーズ」の日々にもすっかり慣れ、僕はレジ越しに見る人々の姿が「日常の風景」として心に馴染みつつあった。
その中でも、ずっと気になるお客さんがいる。40代半ばくらいの中年男性だ。彼は夕方になると、週に2、3回の頻度でやって来る。背は高くがっしりとした体格で、日に焼けた肌と少し疲れた顔が印象的だった。仕事帰りなのだろうか、ワイシャツの袖を無造作にまくり上げた腕には薄っすらと汗が光っている。
彼の買い物はいつも決まっていた。缶ビール、簡単な総菜、そしてペットボトルの水。僕がレジで「袋はお使いになりますか?」と尋ねると、彼は無言で小さく頷き、深くため息をつくことが多かった。その姿を見ていると、彼の疲れが言葉よりもはっきりと伝わってくるようだった。
僕は彼のことを「無言の人」と勝手に呼んでいた。レジを打っている間も彼はほとんど喋らない。ただ、商品を受け取るとき、少しだけ顔を上げて僕に一瞬視線を向ける。その目には、どこか遠くを見るような虚ろさがあった。
「何を考えているんだろうな…」
そんなことを思いながら、彼がレジを通り抜けるのをいつも見送っていた。帰り際、彼は夕陽が落ち始めた駐車場を静かに歩いていく。その後ろ姿が、妙に孤独で、でもどこか穏やかにも見えるのだ。
ある日、僕がレジに立っていると、彼がいつものようにやって来た。その日はいつもと少し違った。缶ビールも総菜もなく、代わりにカゴには野菜と簡単な調味料が入っていた。レタス、トマト、玉ねぎ、それからパスタの乾麺とソースの瓶。
「……あれ?」
思わず、レジを打つ手が一瞬止まりそうになった。これまで彼が選んできた商品とは、まるで違う組み合わせだ。何かあったのだろうか。誰かのために料理をするのだろうか。それとも、自分のために食生活を変えようとしているのだろうか。
もちろん、僕にそれを確かめる術はない。いつも通り彼は静かに会計を済ませ、商品を袋に詰めると、また無言で店を出ていった。でも、僕の中で彼への印象が少しだけ変わった。「無言の人」という名前が、なぜかその日からしっくりこなくなったのだ。
仕事が終わり、僕は裏口から外に出る。空は茜色に染まり、スーパーマーケットの大きな駐車場がその光に包まれていた。ふと目を向けると、例の男性がゆっくりと車に向かって歩いているのが見えた。手にはさっき買った袋が一つ。
その姿が、まるで映画のワンシーンのように美しかった。彼の足取りはいつもより軽く見えたし、顔にはほんの少しだけ柔らかい表情が浮かんでいるようにも感じた。夕陽が彼の後ろ姿を長く引き伸ばし、影がアスファルトに滲む。
「この人にも、きっと何かがあるんだろうな」
仕事帰りの疲れた顔。無言のレジ。缶ビールと水、そして今日のパスタソース。それらを繋げると、見えてくる物語があるような気がした。僕にはそれが何なのか分からない。でも、彼が今日選んだ野菜やパスタは、これまでと違う「何か」の始まりなのかもしれない。
スーパーマーケットで働いていると、たくさんの人たちがやって来ては去っていく。彼らは誰もが自分の生活を抱えていて、僕はその一部しか見ることができない。でも、たった一つの商品、一つの選択が、その人の人生の小さな変化を表しているのかもしれない。
夕焼けの中、車に乗り込む彼を最後に見届けて、僕は静かにため息をついた。
「僕の知らないところで、みんな、ちゃんと生きてるんだな」
駐車場には少しずつ夜が降り始めていた。自動ドアが開くたびに、店の中の光がこぼれ、そこにまた新しい誰かが入っていく。その光景を眺めながら、僕は今日もこの場所に立っている自分を、不思議と誇らしく思った。
「また来るかな、あの人」
そう呟いて、僕はゆっくりと自転車に跨った。空の赤が青に変わり、僕の夏休みは少しずつ終わりに近づいていた。
(6話へつづく)