
ブライトン・グロサーズ 第3話
「親子とお菓子売り場」
僕がスーパーマーケットで働き始めてしばらく経った頃、すっかり仕事に慣れて、周囲を見渡す余裕が出てきた。店内を歩き回るお客さんたちの様子や会話が、僕にとってちょっとした観察ゲームみたいになりつつある。日々の中で気づいたのは、この店にはよく来る「いつものお客さん」がいて、その一人ひとりに小さな物語があるということだ。
その中でも特に僕の記憶に残るのは、毎週のようにやって来る親子だ。お菓子売り場で聞こえる小さな女の子の声が、最初に僕の耳に飛び込んできたのは、たしか2週間前のことだった。
「ねえ、これ欲しい!」
女の子は、ピンク色のパッケージのお菓子を小さな手で持ち上げ、母親に向かってそれを振って見せる。母親は、ため息をつきながら「またそれ?ダメよ」と手を振る。でも、女の子はめげない。少し下を向いて考えたふりをした後、今度は別のお菓子を選んでくる。
そのやり取りは毎回のように繰り返される。僕がレジに立っていると、親子が商品を手にレジに向かってくるのが見える。女の子の手には、結局母親が折れて買ったお菓子が握られている。そして、レジで女の子が袋詰めをじっと見つめながら、自分のお菓子が入る瞬間に満足げな表情を浮かべるのが、なんとも微笑ましい。
ある日、親子がまた店に現れたとき、僕はふと自分の幼い頃のことを思い出した。僕も小さな頃、母親と一緒に近所のスーパーに通ったことがあった。母親が「今日はこれだけしか買わないからね」と言ったのに、僕はどうしても欲しいお菓子をねだり、困らせた記憶がある。あのときの僕の無邪気さを、今目の前にいる女の子に重ね合わせていた。
その親子が来る日は、僕にとって少し楽しみでもあった。忙しい時間帯でも、彼女たちのやり取りを耳にすると気持ちが軽くなる。母親は少し困った顔をしていても、最後には折れてしまうあの感じ。女の子の無邪気さに振り回される様子は、どこか愛情が滲み出ているように思えた。
ある日の夕方、僕が休憩中にバックヤードで飲み物を飲んでいると、さっきのお母さんと女の子が買い物を終えた後、店の外に出ていくのが見えた。カートを押して歩くお母さんの隣で、女の子は買ってもらったお菓子を嬉しそうに抱きしめている。その姿を見て、ふと「この子が大人になったら、こういう日々を覚えているんだろうか」と思った。
僕はその問いに自分で答えを出すことができなかった。覚えていないかもしれない。でも、少なくともその瞬間、彼女にとってお菓子を買ってもらった喜びは本物だ。それは、僕の幼い頃の記憶と同じように、きっと心のどこかに残るのだろう。
親子が店を去った後も、僕の頭の中には女の子の笑顔が残っていた。その日、レジ越しに見た親子のやり取りは特別なものではなかったはずだ。でも、僕にとってはなぜか心が温かくなる光景だった。
僕がスーパーマーケットで働く日々は、こうした小さな出来事の積み重ねでできている。誰かにとってはありふれた日常でも、それが僕には新鮮に映る。夏休みのアルバイトとして始めたこの仕事が、ただの時間つぶしではなくなりつつあるのを感じていた。
夕方のフロアには柔らかな夕陽が差し込み、お菓子売り場のピンク色のパッケージがほんのりと輝いて見える。それを眺めながら、僕はそっと息を吐いた。「またあの親子に会えるかな」と、次に店に来る日を楽しみに思いながら。
(4話へつづく)