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ブライトン・グロサーズ 第6話
「夏の終わり」
夏の空気は、いつの間にか柔らかさを帯びていた。日中はまだ暑さが残っているけれど、夕方になると風がひんやりと肌に触れてくる。アルバイトを始めてから1ヶ月半が過ぎ、僕のスーパーマーケットでの時間も残り少なくなってきた。
「あと3日で最後か……」
そう思うと、心のどこかに寂しさが広がっていく。親に勧められて始めたこのアルバイトは、最初こそ時間つぶしのつもりだった。でも、気づけばこの場所での出来事が僕にとって特別なものになっていた。
レジに立ちながら、ふと顔を上げると、いつものお客さんたちが目に入る。ペットボトルを抱えた汗ばんだTシャツの男性、買い物リストを握りしめたおばあさん、お菓子売り場で小さな戦いを繰り広げる親子連れ。彼らの姿を見るたびに、僕はこの場所で過ごしてきた夏の日々を思い出す。
お菓子を抱えた女の子が母親と楽しそうに笑いながらレジにやってきた。いつもより少し大きめの声で「こんにちは」と挨拶をすると、女の子は僕に元気よく「こんにちは!」と返してくれた。母親は少し驚いた顔をして、僕に軽く頭を下げる。それだけのやり取りだったけど、胸がじんわりと温かくなる。
そんな中、ふと視界に入ったのは、例の中年男性だった。今日はビールではなく、野菜と鶏肉、それに調味料をカゴに入れているのが見えた。彼が缶ビール以外のものを買うのを見るのは二度目だ。レジを通るとき、僕はいつも通り「袋はお使いになりますか?」と尋ねたが、彼はそのとき初めて小さく「お願いします」と口にした。
いつも無言だった彼の言葉が、やけに印象的だった。
彼らのような「いつものお客さん」たちは、これからもこのスーパーマーケットにやってくるだろう。だけど、僕はいなくなる。そう考えると、まるで自分だけが取り残されるような気持ちになる。
仕事終わりにバックヤードで制服を脱ぎ、汗を拭いてからフロアに戻ると、広い窓から夕陽が差し込んでいた。その光景はいつも通りだったけれど、僕にはどこか切なく映った。
タイムカードを押しながら、「もうこれを押すのもあと何回かしかないんだな」と思う。僕の中にわずかな誇らしさと、ほんの少しの空虚感が入り混じった感覚が広がる。
帰り道、自転車を漕ぎながら空を見上げると、オレンジ色から濃い青へと変わる空が広がっていた。真夏の力強い夕焼けとは違って、穏やかで静かなグラデーション。それが今の僕の気持ちにぴったりだった。
「この夏、特別なことなんてなかった。でも……何かが残った気がする」
自分にそう呟いてみる。僕がこのバイトで得たものは、はっきりとした成果や成長ではないかもしれない。ただ、スーパーマーケットという日常の中で、たくさんの人のささやかな人生の一部に触れた。それが僕の中で確かな記憶として残る。
そして、この夏は終わるのだろう。少しずつ気温が下がり、日没が早くなり、空気に秋の匂いが混じり始めている。それを感じるたびに、僕はこの場所で過ごした日々をそっと噛みしめていた。
「あと2日か……」
そう考えると、自分がいなくなった後も、店が何事もなく回り続けることに安心する一方で、少しだけ取り残されるような寂しさも感じる。だけど、それが当たり前なのだ。この場所は僕のためにあるのではないし、僕がいなくても回っていく。
夏の終わりは、何かが失われるようで、何かが次に進む合図のようでもある。僕はまだその感覚にうまく折り合いをつけられないけれど、それでいいと思った。
残りの数日を、この夏の締めくくりとして丁寧に過ごそう。それが僕にできる精一杯だ。
駐車場の向こうに沈む夕陽を眺めながら、僕は静かにそう決めた。
(7話へつづく)