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ブライトン・グロサーズ 第8話
「去り行く夏」
最終出勤日。朝から空は真っ青で、遠くで蝉の鳴き声がかすかに聞こえていた。この夏休みを埋めるためだけに始めたアルバイトが、今日で終わる。
スーパーマーケット「ブライトン・グロサーズ」の自動ドアをくぐると、店内の明るい照明と冷房のひんやりした空気が僕を迎えた。これが最後の一日だと思うと、いつもと同じはずの光景がどこか違って見える。
制服に袖を通し、タイムカードを押した瞬間、胸にぽっかりと小さな穴が空いたような感覚がした。これで最後なんだ――そう思うと、自然と深い息が漏れた。
いつもと変わらないルーチンワーク。レジに立って、次々とやってくるお客さんを捌いていく。缶コーヒーを買う常連の男性、買い物リストを握りしめたおばあさん、お菓子売り場の親子連れ。彼らの顔を見るたびに、もう自分がここで働く姿がなくなるのだという実感が押し寄せてきた。
休憩中、バックヤードで制服の袖を軽く引っ張りながら、自分がここで過ごした時間を思い返す。最初はただの時間つぶしだった。だけど、僕はいつの間にかここに馴染んでいた。お客さんの顔や仕草、商品を並べる感覚、レジ越しに聞こえるざわめき――それらすべてが、僕の中で夏の風景として記憶に刻まれていた。
「もう少しだけ、この場所にいてもよかったかな」
そんなことを考えた。けれど、それは叶わない。夏休みは終わりに近づき、僕もまた次の場所へ向かわなければならない。
夕方、最後のレジ作業を終えたとき、店長がそっと僕に声をかけた。
「お疲れさま、君が頑張ってくれたおかげで、すごく助かったよ」
その言葉に僕はただ「ありがとうございました」と頭を下げた。僕のバイトが誰かの役に立ったのだとしたら、それは少しだけ誇らしい気持ちにさせてくれた。
タイムカードを押し、ロッカールームで制服を脱ぐ。いつもなら何とも思わないこの一連の動作が、今日はやけに重く感じられた。制服を畳みながら、心の中で「ありがとう」と静かに呟いた。
店を出ると、外はオレンジ色の夕陽に染まっていた。駐車場では家族連れや買い物を終えた人たちが忙しなく行き交っている。これからもこの光景は変わらないのだろう。ただ、そこに僕はいない。それが少しだけ不思議だった。
ふと、店の入口付近に目をやると、見覚えのある姿があった。面接のときに見かけたあの少女だ。彼女は制服を着て、小さなカートに商品を並べている。ぎこちない手つきで、それでも一生懸命に作業をしているのが伝わってきた。
その姿を見て、僕の中にあった寂しさがほんの少し和らいだ。僕がいなくても、この店には彼女がいる。彼女がこれからこの場所の一部になり、同じようにお客さんたちの日常に触れていくのだろう。
最後にもう一度だけ振り返ると、店の明るい照明が夕闇の中でぼんやりと輝いていた。その光景を見て、僕は静かに店を後にした。
「ありがとう、ブライトン・グロサーズ」
そう心の中で呟き、自転車のペダルを漕ぎ出す。夏の空はすっかり茜色に染まり、遠くで風が秋の匂いを運んでいる。
この夏は、何もないようで、確かに何かがあった。去り行く夏に背を向けながら、僕は次の季節へと進んでいった。
(9話へつづく)