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ブライトン・グロサーズ 第2話
「僕のブライトン・グロサーズ」
バイトを始めて1週間ほど経つ頃には、僕はだいぶ仕事に慣れてきた。スキャナーを通す動作や釣り銭を渡す手つきはぎこちなさが消え、レジの前に立つ時間にも少し余裕ができた。気づけば、目の前を通り過ぎるお客さんたちの顔や癖を観察することが、僕にとって密かな楽しみになっていた。
「ブライトン・グロサーズ」。このスーパーマーケットの名前を初めて聞いたとき、僕は何か外国映画に出てきそうな洒落た響きだと思ったけれど、実際は至って普通のスーパーだ。食品も日用品も何でも揃うし、郊外に暮らす人たちの日常を支える場所だ。
毎日決まった時間にやってくるお客さんたちもいる。その中でも、やっぱり目につくのは汗ばんだTシャツを着た男性だ。彼は必ずペットボトルを2、3本買っていく。仕事帰りなのだろうか、日に焼けた腕と無精ひげが疲労を物語っている。会話らしい会話を交わしたことはないけれど、ペットボトルを袋に入れるときに彼が一瞬だけ見せる「ありがとう」の頷きが、妙に印象に残る。
おばあさんもまた、いつものお客さんだ。片手に握りしめた買い物リストを確認しながら、慎重に商品を選ぶ。その真剣な表情は、まるで日常の中のささやかな勝負に挑んでいるようだ。レジに来ると、僕に一言「暑いねえ」と声をかけてくれる。その一言が、なんとなく僕の気分を軽くしてくれるのが不思議だ。
一方で、お菓子売り場の親子は、僕にとって仕事中の癒しの時間だ。小さな女の子が「これがいい!」と無邪気に母親にねだる声は、フロアの中でもよく響く。母親が「ダメ」と渋い顔をするのも毎回同じだけど、結局は折れて、女の子が満足げにお菓子を手にするシーンで終わる。そんなやり取りを見ていると、つい微笑んでしまう。
仕事にも慣れてきた頃、僕はバックヤードの作業を頼まれるようになった。果物や野菜を冷蔵庫から運び、棚に並べるのも僕の役目だ。冷たい風に包まれるバックヤードは、フロアの喧騒とは違い、独特の静けさがある。単調な作業だけれど、自分がこの店の「歯車」として動いていることを実感する瞬間でもある。
ある日、期限の近い商品を整理していると、古株のパートさんがこう言った。
「この店はお客さんの顔を覚えると楽しくなるよ。いろんな人がいて、みんなそれぞれのドラマがあるからね」
最初はピンと来なかったけれど、レジ越しに見るお客さんたちのささやかな行動や言葉が、どこか愛おしく感じるようになっている自分に気づいた。
仕事が終わると、広い駐車場を眺めながら一息つくのが僕の習慣になっていた。夕陽に染まる車の列や、買い物を終えた人たちが帰っていく光景を見るたびに、「自分はここにいるけど、みんなそれぞれの家や生活に帰っていくんだな」と、少し不思議な気持ちになる。
僕が「ブライトン・グロサーズ」で過ごす日々は、特別な出来事があるわけではない。でも、ここでの経験は少しずつ僕の中に何かを刻んでいる気がしていた。お客さんたちの姿や、店内のざわめき、夕陽に包まれるフロアの景色――そのどれもが、僕にとって「夏の風景」になりつつあった。
ただ、そんな風に思う一方で、僕はこの街を離れたいという気持ちを抱えていた。もっと広い世界を見たいし、自分の可能性を試してみたい。でも、その漠然とした思いは、まるで空に浮かぶ雲のように、掴みどころがない。
それでも、「ブライトン・グロサーズ」の日々は、そんな僕にとって居心地のいい場所になりつつあった。この場所で、もう少しだけ働いてみようと思った。
(3話へつづく)