ヒステリック・メランコリック
自分が嫌いな自分に向き合うということは、自分をメンヘラだとかコミュ障だとか、大きく「こんな人間」と括ってただレッテルを貼るだけでなくて。「どんな時にこうなってしまう」「だからこう対応しよう/この部分は自分はこうだから仕方ない」と、自分とOHANASHIAIをすること。なのかもしれないね、というnote.
一般論ではなく、あくまでも自分が考えられる範囲でのはなし。
否定された時に。嫌な顔をされた時に。反論された時に。
「私が消えればいい、死ねばいい、と思ってるんでしょ!」という言葉がついて出るひとがいる。実際に手を切ったり、高台に行って、「これから私死ぬから」と言うひともいる。私はそこまではいかないが、やっぱり自殺を仄めかしたことを言う癖はあるし、「従わない自分なんて要らない子なんだ」とは思うこともあるし、「はいはい従えば全部満足ですか?」という出力になることもある。
思うようにいかないことがあった時に。自分のミスか、状況が悪かったか、その両方の原因で、にっちもさっちもいかなくなった時に。
「私が死ねば全部解決する」という発想に至るひとがいる。電車のホームに立てば、線路を跨ぐ橋に立てば、道路際に立てばここで飛び込んだらどうなるだろうとイメージが動き、家で横たわっていても、絞首台の縄のイメージがつきまとい、高い高いところから落ちていく光景がつきまとう。「私が死んだら、みんな後悔してくれないかな、あの時ちゃんと話を聞けばよかったって、引き止めればよかったって」と夢想する。私は割とこうなりやすい。
好きなひとができて、ある一定の関係を結んで。その「好きなひと」とは、恋人かもしれないし、親子かもしれないし、友人関係の時もあるだろうけれど。関係が始まった時は、胎内で物理的に結ばれていたか、告白なり結婚式なり非日常の中で精神的にとけあっていたか、何にせよ合一だと思い込めていたところを。日々を共にし、時間が経ち、互いに少しずつずれていく、嫌なところが見えてくる。その時に。
「相手に合わせられない自分なんか嫌いだ、死ねばいい」と思うひとがいる。相手の理想にか、相手の生き方にか。何にせよ相手との不合一を嫌い、時に実際に行動を起こして、しかし理想も憧れる生き方も遠く遠く離れている、自分は遅々として進まないし、何ならその生き方をすることは自分には大きく負担だったりする。私はこっちを起こしやすい。
「自分の言うことを聞かない相手なんか嫌いだ」となるひともいるだろう。自分と違うのならそれでいい、私は出ていく、と。でも根本的には好きなので、自分の思い描く相手であるうちは猫可愛がりして甘やかして何でも身を削って尽くして、自分の思い描かない部分が出たら「こんなにも尽くしてあげてるのに!」「こんなにも愛してあげてるのに!」と声を上げるひともいるだろう。そうやって相手と自分と合わない部分を曲げて削ろうと画策する。
そんな自分が嫌いである。
でもこういう人間がいることはよく聞く。だいたいセットで「地雷」と書いてある。
なので、どうしてこういう発想に至るのか、ならばどうすればいいのか。
ちょっと考えてみようと思った。
1.感情を受け止めてほしい
→感情を受け止めてもらえることと、自分の意見が通ることとは、別だと理解する
クレーム処理の鉄板である、らしい。
「つまり不安なんだろう? 適性検査でも熟慮型って出ているし。でも企業はどこだって、説明会でも内定式でも、良い部分しか見せないもの。もうこれだと決めて信じて飛び込まないと、分からないものは分からないよ」
某企業の人事によく言われている。
「奥様の気持ちはよく分かりますよ。でもこっちとしては仕事なんで、ここは言わせてもらわないと困るんです」
なんかTwitterで見た。
「感情を的確に受け止め、言語化する。相手のことを分かっていると、具体的な形で口にする。→そのうえで自分の立場を表明し、意見を伝える」
という方法は、良くも悪くも有用ではあると思える(悪用するとカルトっぽさそう)。
結局「死んでやるから」と口にするほどに、感情が昂っているのである。それだけ怒ったり悲しかったり辛かったりするのである。その部分はまず受け止めてほしい、理解して欲しい。そう感じていたりする。
だから発してしまう側としては、そういう自分をまず受け止める。「自分は冷静に話している」と思い込んだ方が、逆に拗れてしまったりするから。ヒステリックになるのは、仕方ないのだ。
「そう言うだけ心配なのだ、悲しいのだ」などと口にして伝える。「本当は手元から離したくないだけなんだな」などと、私利私欲な部分が自分にあることを、口にしなくても自覚する。自分の一部が否定されたとしても、自分の存在丸ごと否定された訳ではない(自分の存在丸ごとなんて、そもそも相手には見えてはいないのだから)。そう伝える時間で、そう考える時間で、一呼吸置いて少し落ち着いて、むしろ冷静に「どうして欲しい」の話し合いに向かえるのではないか。
そして、どんなに自分が辛い思いをしていても。どんなに悲しくても。「だからといって」自分の意見が通るべきだとは限らない。そこはきちんと忘れないでいよう。相手だって表さないだけで、とても辛くてとても悲しかったりするかもしれないから。
そして受け取り側としては、まずは感情に寄り添えばいいのではないか。発した側が自分でも混乱していたら、「つまりこんな気持ちなんだね」と声をかけるなど。……とはいえそれが的外れだと、その言い方が悪いと、火に油を注ぎかねないが。そしてその感情に寄り添うことが、決して「自分を曲げなければならない」ではない、と、感情の濁流の中でもしっかり掴んでいながら。
とはいえ、感情が昂って溢れ出て、それを、落ち着かせるのには時間がかかる。互いに距離を置いて、音ゲーしたりケーキ食べたりTwitterしたり寝たり。そうして回復したら向き合う、そっちの方が、無理くりその場で収めようとするより、案外早い解決になるのかもしれない。
……それでも意見を通さないと気が済まない、通らなければ死んでやると叫ぶ、そういう相手とはどうすればいいんでしょうね。合わないので、互いに離れた方が互いの幸せなのではないかと思うけれど。だってそれでいちいち死んでたら、たぶん関係を築く前にもうどこかで死んでいる。
互いに好きで、互いに大事だと思っていても、関係を結び続けることが、互いを傷つけることになったりもする。愛の発露が恋人関係で、愛に包まれるのが親子関係だとされるからこそ、矛盾していてしんどくて、でも現実そういうこともあるんじゃないかなあ、と勝手に思う。
好き、って難しいね。
2.死んだらどうなるか誰も分からない、それでも後戻りできない
→リセットボタンを押すよりも次善の策の方がせめてマシだと引き受ける勇気を持つ
「私はこの世のすべて」。世界と私とが混じりあってとけあって1つになり、たぷたぷと羊水のようなあたたかい微睡みの中で遠くを夢見ていた。
しかしそんな夢見心地も、地に足つけて歩いていけば、どんどんと解体されるものである。「周りの人に迷惑かけない」「もう小学生なんだから」沢山のルールで自分は縛られ、それに慣れた頃には規範が内在化しており、この時代では内在化していることさえ適応的でない。「べき論で自分を縛るのは呪いだ」、そうしたのは誰なのか。
それでもなお、「世界と私とは1つ」にする、最終手段だとぎりぎり信じられるものがここにある。自殺である。
この世界は結局のところ、自分の五感で知覚できるところにしか過ぎない。ならば誰も、客観的な世界の実在を、証明することは出来ない。ならば自ら選んだ一人称の死と共に、世界も終わるのではないか。自殺とはワイルドカードなのではないか。
そういう発想に至ることもある。その裏側には「0か100か」、決して完璧ではない「次善の策」をとってその選択の結果を引き受けてなお生を続ける、そんな痛みに、そんな不完全さに、耐えられない、という感情もある。
また「自分が死んだら後悔してほしい」という思いも一方ではある。取り返しのつかない選択を君たちはしたのだから、一生引きずってしまえという叫び。つまり「助けて欲しかった」「話をもっと聞いて欲しかった」「寄り添って欲しかった」という怒りとかなしみ。
現実問題、人の感情をすべて、人の人生をすべて、引き受けられる他人はいない。肩を貸し合うことはできても、すべてを丸投げにされてもあまりに重い。だから、三人称の死を自分が見るように、自分が死んでも世界が続くなら。その死は、その思いは決して、「三人称の死」以上になれない。それを引きずって生きてくれる人はいない。死人に口なし、思い出も想いも過去で止まれば風化していくもの。自分の感情を、自分の人生を、まるっと引き受けて歩いていけるのは、本当に自分しかいない。
だから、今に叫んで。話を聞いて、と。
そしてそれに応える他者がいてくれることは幸福だし、いなかったとしても生きていくしかない。自分の思い通りには人生はならない、とはいえ、ある程度はまだ予測できる。死んだ先に何があるかなんて、何千年も議論されて未だ不明なところに賭けるのはなかなかにリスキーだ。後戻りできない選択をした自覚に苛まれながら、地獄の責め苦を受け続けるかもしれない。それでも賭けてよい場所ですか。
まあ、死にたい時は、死にたいでいいんじゃないかな、とも思う。それが「人生に楽しいことなんてない」なら牛肉でもケーキでも食べて、「ムシャクシャする、破壊したい」なら筋トレでも音ゲーでもして。
完璧でない自分を引き受け続ける、その痛みと共に、自分の人生の重みを背負って歩いていく。それはあまりに痛くて重くて、それでも自分の生を「真剣に生きる」王道は結局そこなのだろうな……。
3.完璧だから愛される、訳ではない
→相手を信じる、相手の愛を受け止めることが、恋人として第一にできることである、と念頭に置く
恋愛記事をよく見る。「前向き」「ポジティブ」「癒し系」そんな女に男は癒される、だからモテる。大体そう書いてあるし、自分の実感としてもそうだ。そして自分はそうではない。
沢山好きだなと思えるポイントがあって、沢山惚れ直せるポイントがある。そんな相手と付き合っていたい。それは打算で付き合えない、軽い恋愛ができるほどモテる訳でもない、私の素直な感情である。
そして相手の立場からしても、たぶんそうなのではないかと、思う。それはそうだ。沢山好きだと言ってほしい、沢山好きなところを挙げてほしい(自分が挙げるよりも多く!)、何度だって惚れ直してほしい。好きな相手になら。
ということは、自分にとって完璧な「王子様」と付き合えるのが、自分にとって最上の幸せなのではないか。向こうにとっても完璧な「お姫様」と付き合えるのが、最上の幸せなのではないか。そう思うのも仕方ない話である。
そして凹む。自分のコンプレックスなんて山ほどあるので。勝手に病む。これじゃいつか嫌われる、これじゃいつか別れることになる。そう勝手に痛みを先取りして自分を責める。これじゃ相手に届かない、と。
とはいえ。
自分にとって「完璧な王子様」とは何者だ? と問われると、思い描くイメージはあるやもしれないが、言語化できない。絶対譲れない条件は? と問われても、あんまりそういう感覚で人を見ていない。
自分が今までいいな、と思ってきた人間は、果たして冷静に見て「完璧」だったか。そんなこともない。どっかしらが欠けていて、どっかしらに仄暗さや闇を抱えていて、だからこそ可愛いと思っていた。
度をすぎた光属性は、「自分なんて一緒にいなくてもこの人は生きていける」になる。
かといって隙のありっぷりも度を過ぎれば、「この人の面倒は見きれない」になる。
痩せてすらりとした身体を女体美と見る人もいれば、ややぽっちゃりとした身体にあたたかみと安心感を覚える人もいる。
確かに好きではないところはある、でも、それでも、まだ一緒にやっていきたい、そう思う気持ちが強い。それが恋情なのか慕情なのかはたまた「情」と化してしまったのか、そう思える気持ちがなければ、ここまで夫婦制度は続いていない(想像よりは短い歴史が事実とはいえ)。
0か100か。ゆーて63点だけれど、それでも一緒にいたいんだ。そう思われている不安定さに、耐えられない人間はいる。どうして完璧を目指さないの、どうしてもっと上を目指さないの。そう自分から問いかけたくなってしまう人間はいる(相手の価値を高く見積もっているからこそ)。それでも自分を振り返れば、「完璧だから好きなのだ」では、実はなかったりしませんか。あばたもえくぼ、一般には欠点だとされるところまで含めて、好きだったりしませんか。
恋人として第一にできることは。
相手のことを信じること。相手に愛を与えること。そして、相手からの愛を、信じて受け止めること。
これなのではないかな、と私は思う。そのうえで、自分の凸凹も、相手の凸凹も、分かってきたらきちんと見つめて、ここは治そう、ここはこう折り合いをつけよう、ここはこうやって分担して埋め合おう、そんなパートナーであれたらいいね。
4.「好き」であることは何の免罪符にもならない
→ここは絶対言っておかないと、と口にするべきことがあるならば、その言葉のせいで疎遠になることも覚悟して愛を伝えよう
「好き」であることが全ての免罪符になるならば、ストーカーは裁かれない。結局「相手が迷惑だと思っているかどうか、そう思う行為であるかどうか」が、最後には善と悪とを決める。
しかし、まだ何の契約もなされていない他人同士の関係ならともかく、恋人や親子や友人となれば、「親しき仲にも礼儀あり」は忘れ去られて、「愛しているのだから」「あなたの為を思って」がまかり通ることがままある。まかり通るだけでなく「愛してもらえてるのだから……これを断るなんて我儘ではないか……これを断ったら愛してくれなくなるのではないか……」と自分を曲げて血を吐きながら引き受けることもままある。
断った程度で切れる縁なら、そんなもの早く切ってしまった方がいい。そんなところに愛を注ぐ余裕はない。……そう言いきれないのが絆である。
結局のところ、他人は他人だ。自分の代わりにはならないし、自分の思い通りにはならない。自分の夢を託しても、その夢が相手にとって合うものとは限らないし、「相手の為を思って」と口にしても、失敗したとしても成功したとしても、相手の人生の責任をどう取ればいいというのか。
それでもなお。相手には病んで欲しくない、笑っていて欲しい、同じ痛みを経験させたくない、失敗して欲しくない。そう思ってしまうからままならない。その願いが綺麗だからこそ……綺麗だからといって、「正しい」とも受け入れられるとも受け入れるべきとも限らない。
私はあなたではない。失敗があっても新しい道にチャレンジする、その権利は私にはありませんか。あなたは私に何をしてくれますか。それは幸せの保証になりますか。
それでもなお、それでもなお。言わない後悔よりは、と思うのなら。その言葉のせいで疎遠になってでも、伝えるべき言葉だと思うのなら。それは伝えるべきなのではないか。本当に「あなたのため」に。そしてそれ以上にきっと、「言わなかった未来を悔いる、未来の自分のため」に。
「幸せになって欲しい」と軽々しく口にするのは無責任だ、と言われたことがある。確かに今を振り返れば、言われたくない言葉だな、と腑に落ちる。誰よりも幸せになりたかったのは自分なのだ。誰よりも諦めたくなかったのは自分なのだ。それでもなんとか折り合いをつけて、痛みに泣きながら自分を引き受けて、どうにか前へ歩こうとした時に。横から無責任に「まだ諦めるな」「もうひと頑張りじゃん」「本当にそれでいいの、本当はどうしたいの」なんて言われたら殴ってしまう……正論だからこそ、なんとか抑えた本心だからこそ、殴り返すことさえ出来ず死にたくなる。
諦めなかった先に何があるのか、ただ見苦しく時間を浪費するだけではないか、お前に私の何がわかるのか、と。そもそもどうしたら私の幸せになれるんだよ、お前の定義を私に押し付けるな、そんな御託よりさっさと私を幸せにしてくれ。
……ただ黙って話を聞いて、影で幸せを祈っていることが、なんとかできることなのだろう。何がその人の幸せなのか満足なのか、自身についてすら分からないから。
「死んで欲しくない、死にたいと言って欲しくない」は果たして我儘かエゴか。そうなのかもしれない。死に至るまで思い詰めた軌跡があり、自殺だって一つの、そして恐らく最大の、自己決定なのだから。自殺はダメと語るのは、それは社会秩序の為だろう。ならばその枠を外して、目の前の他人を止めようとするのは、果たして正しいことなのか。……それでも私は言うだろう。言わなかった私を、止めなかった私を、私はきっとずっと悔いる。
生きることはあまりに重い。
自分は完璧ではない。自分の人生も完璧ではない。
自分は冷静沈着で論理的、ではない。
自由に軽やかに気楽に、精神を安定させるように生きる、でもない。
前向きでポジティブでもないし、
今の幸せを追いかけて、色々引き受けてはこなしきって、何事も後回しにせず立ち向かっていく、そういう強さもない。
ヒステリックでメランコリック。後回し癖があって、考えても仕方ないことに考え詰めて病んで、多方面で同時多発トラブルが起きると動けなくなって、世界を自ら閉ざしていって、自分の気持ちに素直になりすぎようとするという意味での完璧主義で、かといって相手の目線を考えず自己満足に突っ走り、その結果は割と粗雑。あまり適応的な性格ではない。
それでもそれを引き受けて、「私はこういう癖があるから、こうやって機嫌を取っていきたいし、こう対応してくれると助かる」と分析して口に出していくこと。
それが、私の好きな私に近付く、結局は王道の方法なのかもしれない。まあそれでも、なかなかに対策は難しいのだけれどね。感情のことだから。