21.間違えであってもいい、と思える選択がしたい
決断をするのが、すごく苦手だ。
それでも感情がそれと定まれば、ぽんと飛び込むことは割と出来る。
臆病なのか、大胆なのか。
飛び込んでしまえば覚悟を決めて、そこからの手持ちのカードで精一杯動けるなんて、頭じゃちゃんと分かっているのに、今の私は全然そうじゃない。
これって一体何なのだろう、と思ったけれど、たぶん話としては単純なのだ。
「やらなかったら後悔する、と思えるか」
「もし選んで、その結果が失敗に終わって、それでも選んだ自分を誇りに思えるか、あの時の私ならそうしたと胸を張って言えるか──そう今の自分が思えるか」
これだけである。たぶんこれしかない。
苦手なのは、決断というより、
次善の選択を取ることなのだ。
何かを「選ばない」という選択肢はない(それを選ぶには死ぬしかないし、死ぬことは明らかに最悪の選択と見えている)。
しかしどちらの選択も、良い部分もあれば悪い部分、期待できる部分もあれば不安な部分もある。
その時に、どちらを選ぶか。
それを理性が効いているうちにさっさと行うことが苦手なのだ。
さっさと行うことが理性的に見れば最善でも、私にとっては「さっさと選んだ自分を、その選択が失敗に終わった時に、未来の自分は誇りに思えるだろうか。その程度の覚悟で、ものを選んでいいものか」と。
しかしまあ、選ばないで先延ばしにすることが、精神状態を悪くしていくのも分かっている。
臆病な私、自分で自分の可能性を諦めている私、自分を信じてやれない私のことを、私は好きではないのである。
それでも渋々と「冷静な」選択をした私のことも、たぶん私は好きではない。
この選択が間違えかどうかは、飛び込んでみないと分からない。
大域的な最適解など、誰にも演算できないし、何を最適と言うかも変わりゆくし、何にせよ人生はやり直せないので取りに行けない。局所最適解を取り続けるのが、次善の策なのは分かっている。
「正しい」選択なんてないと今の私は分かっている。むしろ「正しい」「まるい」選択をし続けるなんて、案外クソ喰らえだと思っている。
そんなことより、そんなことより、
「後悔してもいい、間違いであってもいい、それでも」と思える選択をしたい。
人生はやり直せるかもしれないし、やり直せないかもしれないし、何にせよ時は前にしか進まず、価値観は移り変わる。
それでも、だからこそ、局所最適解が欲しいのだ。……いや最適解じゃない、局所最善解と信じた手応えが欲しいのだ。
最適解と言ってしまえば。
「何も選ばないでタイムオーバー」が最も悪い選択肢だと言われても、
「タイムオーバーの絶望で自分が狂って死ねばそれが最善では?」と思い詰める節があるから。
でもそれを最適解だと人は言わないのなら、「局所最善解」を取るしかないでしょう?
……ここら辺の歪み方をうまく修正していくことが、たぶん次の私の価値観矯正ステップである。たぶん。