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メッシュワークゼミについての雑談

先日メッシュワークゼミ第3期の10月27日回に、お邪魔させていただいた。3期ゼミ生の皆さんの話をお聞きして面白かったことや、そこから考えを巡らせたことについて、2期生である村上さんと川端の二人で、思い思いに喋り合った会の記録です。
(収録日:2024/10/28)※村上さん=M、川端=K


■はじめに

K:何からいきましょうか。

M:それぞれに面白いと思ったことから話していきますか。3期生の方々の話を聞いて、興味深かったことがいくつもありました。

K:それがいいですね。“オブザーバー”という役割をいただいていますが、正直なところどう振る舞えばよいか分からず、まだ戸惑いがあります。ただ振り返ってみると、僕ら2期生がゼミ展を開催していたときに、声をかけてくれたお客さんの目線って、こういうものだったのかも……と思いました。

M:そうですね。たまたまその場にいたことで巻き込まれてしまった、参与してしまった、という人の目線ですよね。そこで感じたことを話してみたいですね。

■厚みのある報告

M:まず率直な感想としては、「すごいな……」って思いました。

自分が去年の10月に何をしていたか考えると、こんな厚みのある報告をできるような状態では全くなかったなと思って。3期ゼミはまだ序盤のはずですが、お二人ともゼミ序盤の私よりはずっと先のところにいる印象です。

K:うんうん、かなり厚みがありましたよね。ちなみに村上さんは、特にどんなところに厚みを感じましたか。

M:報告のフォーマットが整っているというか、しっかり作られているなと。Asukaさんは二つのフィールドワークをすでに行われていましたが、何が起きてどう感じたか、漏れなく記述されているように感じました。前情報なしに入った私でも、なぜそこに参加して、どういう風に、何をしてきたのか、コンテクストまで含めてよく分かる。もうすでにエスノグラフィーみたいな記述だなと思っていました。

K:本当にそうでしたね。フィールドワークの足取りを感じられるというか、実際にいろんなところに足を運んで、自分の目で見た記録をしっかり残されている印象でした。コンテクストも共有していただいて、昨日のお話を聞いただけでも、当事者研究の舞台とはどういうものなのか想像できて、興味が湧きました。

■文化について語ること

K:ちなみに、Asukaさんがお話の中で“文化圏”という言葉を使ってらっしゃったと思うんですけど、僕はそこに連なる話にすごく興味を惹かれました。フィールドワークをちゃんとやっていくと、文化圏について考えていくことになるんだなと。人類学はああいった文化圏をどのように扱うんだろうかというのも気になりました。

べてるの家の人たちと地域住民の話は、その輪郭が浮かび上がっている感じがして面白かったです。そうした文化圏に入ったり出たりすることをこれから繰り返していくのだとしたら、今後どんな風に見え方が変わっていくのか、続きのお話も聞いてみたいなと思います。

M:べてるの家の話は、実践としてまとまりがあるようにも感じました。施設の中には独自の言い回しとかがあったと思うんですけど、施設の外では話されないものだった。その文化圏の中でしか成立しないものがあると、施設を中心としたまとまりも見えやすいのかもしれませんね。

K:なるほど。骨太な話だったので、僕はまだ咀嚼しきれてないところがあるんですけど、もう一つ個人的に興味を惹かれたのが、べてるの家の方々が「言語的な表現にこだわる」という話でした。それは村上さんがおっしゃった特徴的な言い回しともつながるのかなと思うんですけど、文化を共有する上で、すごく言語が重視されているのも面白い話だなぁと思って。あと名前をつける話とか面白かったですよね。

M:うん、面白かったです。

K:「名前をつけることで客体化できる」という比嘉さんのお話もありましたけど、“自己病名”という試みを、当事者の人たちがやることの意味についてとか。

M:現代的なトピックのようで、意外と古典的な人類学の議論、理論とかとも響き合いそうだなという印象があります。名前をつけるとか呼称とか、その言語の使い方。古典的な人類学者たちの親族の研究とかでも扱われてきたものかなと。“言説空間を共有する”ということは、すごく広がりがある話なんだろうなという気はしました。

K:なるほど。僕は文化的なものをリサーチの対象にするのって、やっぱりすごく難しそうだなって思ったんですよね。べてるの家という場所が、集まる人みんなが自分を研究しているコミュニティなのだとすると、その人たちについて知ろうとすることは、なんだか入れ子構造のようだな……と。文化を見ようとすると、それだけ複雑な構造に足を踏み入れることになるんだなと感じました。

自分がフィールドワークをやった時は、文化をダイレクトに扱うことはなかったので。すごく難しそうだなって率直に感じました。

M:そうですね。見ている対象が一つの研究であるっていうのも難しいポイントだし、それが文化っていう抽象概念といえるもの。具体的なものというより、何かしらの総体というのもまた難しい。2期ゼミ展での川端さんの発表は、身体動作とか言語表現とかを起点に記述されていて、イメージが湧きやすいと私は感じられたんですけど、文化現象ってこれという実体が定められなくて、ともすると捉えどころがないのが難しいと思いました。

似たようなことを、Saeさんの報告でも感じましたね。宗教体験とか宗教実践って、一つの行為とかに落とし込めない総体であって、捉えるのが難しい。一方で、だからこそ調べがいがあることなんだろうと思います。

K:そうですね、かなり大きなテーマになり得るものですよね。

M:Saeさんもすでにフィールドに何回か行かれていることもあって、記述や映像にすごい厚みがあったなっていう印象を受けました。あと、「Saeさんにとって、“神とともにある”とはどういうことか」といった3期生の方からの問いも、すごい印象に残っていて。宗教実践みたいに、実践はありつつも抽象化されているものの捉え方って、人によって違うんだな、と考えさせられました。

■身体的な表現と異国の文化

M:沐浴して上がってきた人から魚市場の匂いがしたっていう話は、個人的にすごく面白かったですね(笑)

K:細かなところに色々込められていましたよね。現地でのフィールドワークからある程度時間が経過しているからか、お話の語り口からは一定の距離感がある印象を受けたのですが、映像としての記録であったり、「インドのヒンドゥー教の人たちはどんな風に社会を“まなざし”ているか」という言葉づかいだったり、端々に身体的なニュアンスを感じられて、そこが面白かったです。

特に映像に興味を惹かれたのですが、それは裏を返すと、異国の文化を言葉で知ることの難しさなのかもしれないとも思います。インドの文化はもともとインドの言葉で表現されていて、それを翻訳して日本語の言葉で表現したとしても、同じことを表現したことにはならないのではないかと思ったり。翻訳全般に言える基本的な困難さの話かもしれませんが、ある文化における特定の言葉の意味を捉えるというのはかなり難しいことだなと再認識しました。

Saeさんが現地にフィードワークに行った時に感じた言葉の壁についてお話しされていましたけど、表現する時においても言葉の壁がある。「水」という言葉を使っても、インドの人が想像する水と、日本人が想像する水に違いがあるみたいなことが起きる。

M:そうですよね。物体としても違うし、その“神聖さ”、それが“holiness”だったとしても、その言葉の意味合いっていうのは、なんなら人によって違うのかなと思いますね。

K:そう考えると説明的な言語ではない、違う形の表現はすごく面白い。

M:魚市場の話は、結構バッと情景が浮かぶじゃないですか。そこが面白かったのかもしれないですね。

K:もしかしたら言語表現だと、エッセイみたいなディテールを積み重ねていく方法は、そうした面白さに迫りやすいのかもしれないなと思います。

■メッシュワークゼミのコミュニケーション

K:3期のゼミに参加させていただいて感じたのですが、集まる人によって、その場のコミュニケーションの質感はかなり違ってきますね。

M:いや〜本当にそうですよね。これはゼミに限らずでしょうけど、相手が動いた、会話をしそうか、みたいな予測や期待が、自分のリアルタイムの発話や言語表現に結構影響しているなというのを感じますね。それが“応答”っていうものだとは思うんですけど。一回話したので次は相手の番です、といった分かりやすいターンテイキングよりも、もっと細かい次元で応答は起きてるんだと考えられますね。

K:その応答の場として、メッシュワークゼミって何ていうんですかね……かなりアドリブでルールが決まっていないところがあるじゃないですか。

M:そうですね。

K:先生たちが、「このコミュニティでは、このルールに基づいてコミュニケーションを取りましょう」っていうのを定めていくんじゃなくて、居合わせた人たちが「この場ではこういうコミュニケーションがいいはずだ」みたいなものを各々に持ち寄って、それを反映していく形でルールが作られていくのかなと思うんですけど。

M:うん、すごい実験的っていうか、実践が先行している感じがしますね。規則規範がない。良くも悪くも(笑)。良い方にはたらいて、実際ある種の雰囲気というか、グルーヴ感みたいなものが作られているのを感じますね。

K:これはオブサーバーとして参加させてもらったからこその気づきですね。集まる人が違うと、その場のあり方は自然と違ってきますね。

■自分の問いを、自分に取り戻す

K:村上さんは、今回参加してみていかがでしたか。

M:やっぱりモノ好きな人が集まる場所なんだな、っていうのを改めて認識しました。

K:はい (笑)

M:学部生の頃に人類学の講義を受けていたとき、教授がある日「人類学者はブルドッグみたいなもので、問いや興味関心を見つけたらひたすらそれに食い下がる」といったことを言っていたのを思い出しました(笑)

たぶん皆さん、我々もそうでしたけど……ひたすらテーマなり問いなりにしがみついていくんだなって、見ているこちらも気が引き締まるような思いがしました。普段の生活とか仕事って、問いを手頃なものにアレンジしちゃうというか。リサーチの仕事でも発見があって、事業に役立てやすいような問いを設計したりするんです。

ちょうど今日、2期生の読書会で読む予定の『<責任の生成>―中動態と当事者研究』のまえがきだけ読んだんですけど、「完璧な研究計画書を求めるならば、その研究はすでに終わっていなければならない」って書いてあって。なんかグサッときてしまったんですよね。

問いとか目的とか仮説がきっちりと書き下せるんだったら、そもそもそんな研究しなくていい。そういうふうに受け止めたんですけど、メッシュワークで探求する話って、たぶん完璧な研究計画書には全然できないようなことに、しがみついていくことだろうなと。それは真摯な、真面目な生き方だなって思いましたね。

K:なるほど……。それは問いの中でも、“自分の”問いにしがみつく、ことだとも言えるでしょうか。他の人にとっても意味があるものになり得るとは思うんですけど、出発点としてはやっぱり個人的な問いっていうのが、その中核にあるのかなとも思ったり。職業人類学者となるとそうじゃないよっていう人もいるのかもしれないですけど。

M:たしかに。それはありそうですね。当事者研究はその最たる例なのかもしれないですね。分かりやすい問いとか手頃な計画書にしてしまったら、自分が納得いかない、みたいなことってありそうですよね。

K:そういえば昨日Asukaさんがお話しされていた、「自分の苦労を、自分に取り戻す」というべてるの家の理念の話が印象的だったんですけど、同じ話なのかもしれないなと思いました。“苦労”を“問い”に置き換えて、「自分の問いを、自分に取り戻す」みたいに。勝手にメッシュワークの理念を説明するのであれば、そういうふうに言えるかも。

M:たしかに。誰からもやれと言われていないし、メッシュワークゼミで何かをやったからといって、誰かからお金をもらえるわけじゃないですし。ただただ自分のためにやっているっていうことは、大事なポイントかもしれないですね。

■“納得いかなさ”に出合う

M:それはある意味、発表する人は自分の発表へのフィードバックを、すべて真に受けなくていいということでもありますよね。ピンとくるものもあれば、違和感を覚えるものもある。その感覚を足掛かりにして、知りたいものにしがみついていくっていうのが、メッシュワークゼミのあり方なんだなと。

K:うん、そうですね。

M:そこは2期も含めて、皆さんに共通しているなと思うところです。

K:他の人からの応答とか質問を受けたりしたとき、それにまっすぐ答えなくてもいいんですよね。他の人の意見に「確かに……」とか思いながらも、それにまっすぐ答えるんじゃなくて、迂回して答えるのもあり、というか。

M:はいはい。

K:言っていることは分かるけど、「自分にとってそれは重要なことではないな」ということを、そこで再認識するみたいなこともありますよね。

M:そうですね。

K:違う進み方で自分の関心を発見するとかも。それはゼミっていう場で他者がいるからこそ得られる体験なのかもしれませんね。

M:“納得いかなさ”みたいなものに出合えるっていうのは、他者がいるからでしょうね。

K:“納得いかなさ”ですね、たしかに。それはいいですよね。2期でもよく見た光景だったなというのを今思いました。

M:はい、僕も自分たちのことを思い出していました(笑)

K:それぞれに思ったことを言うんだけど、納得いかないときはそれぞれに「うーん…‥」みたいな感じで自分の問いと向き合うみたいな(笑)

M:「そうなんです…でも、そういうのが見たいわけじゃないんですよ…!」みたいな(笑)。そんな会話もメッシュワークゼミだと許される感じがありますね。仕事とかだと、その関心の持ち方に合理性ないから~とか、費用対効果が~とか怒られるかもしれないけど。

だけど、どんなに費用対効果が悪かったとしても気になっちゃうことに向き合える意義はあるんじゃないですか。

K:そんなことができたのは、僕も2期で参加してすごく良かったなって思うところですね。普段の生活でも、そういう風に問いに向き合うのはおかしいことだと思わせられちゃっている。経済合理性みたいな、「何のためにやるの?」と問われる感覚。それが当たり前になっているけど、それっておかしい。

会社の中で、何のためにやるのかと問われるのは、まぁそういう集団だと思えるけど、そこに自分が適応しすぎなんじゃないか、みたいな思いがありますし、そんな状態から解放される場としてメッシュワークゼミは面白いなぁと思います。

M:本当におっしゃる通りで、先ほど話した“規範”っていうものが外側にはなくて、やり取りの中から内側に生成してくるという話とつながりますね。経済合理性みたいなロジックで普段は切り取られてしまっているようなこだわりとかを掬い上げる、一個の枠というか居場所のような感じかもしれないですね。

K:今回色々お話しして、改めてこの本(『<責任の生成>―中動態と当事者研究』)の内容が気になってきました。ここまでの話と地続きの話がありそうな気がします。

M:今回オブザーブさせていただいて感じたことは、私たちの読書会の話と相互につながるところがありそうですよね。同じように対話の記録を残してみてもいいかもしれないですね。

――おわりーー
3期生の皆さま、とても刺激的な時間にご一緒させていただきありがとうございました!


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