【連載小説】純文学を書いてみた1-4
前回…https://note.com/sev0504t/n/nc839c66743c3
連休なのでステイホームで書いています。
コロナが落ちつきますように…
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「おきてるけど?」
「あさって、ちょっとつきあってほしいところがあるんだが、いいか?」
「いいよ」
「大丈夫だよ。行ける」
念のためもう一言僕は続けた。
「そうか、ありがとう」
父はいつものように言葉少ない。
どんな言葉を父は僕に期待しているのだろう。母がいなくなって心配だとでも言えばいいのだろうか。もし本当にそう思っていてもそんなこと言えるわけがない。たちが悪いのはそう思ってもいない自分に父が問いかけた愚かさだ。そうだ、確かに今まで僕たちは精一杯生きてきた。
僕らは不安定ながらもそれぞれの抱える感情を何とかつなぎとめようとしていた。それは磐石とは言いがたいけれども、ひとつの均衡を保っていたことは事実だ。しかし、母がいなくなった今はもう何かが違うのだ。それを見据える勇気も覚悟も僕にはない。
この奇妙な感覚を僕は煙草の煙を吐き出すように自分から遠いところへ追いやっていた。それは自分が向き合うことができないことを知っていたから、いや無意識だったんだろう。
「治療院、明日からやるの?」
僕は言葉を探しつかれたように聞いた。
「明々後日くらいだな」
それだけ聞くことができればよかった。少しの安心を覚えたとき。僕は父に妙な、今までに経験したことのない、かすかな感情がわいていることに気がついた。でも、それが何かはやっぱりわからなかった。
もう一度窓の外に顔を三分の二ほど出して煙草に火をつける。大きく吸い込んだ煙は鼻の穴と口から同じ量だけ静かに出ていった。
窓の隙間からは初秋を思わす涼しい風がふきこみカーテンが揺れる。一瞬窓のはるか向こうに下弦の月が見えた。が、その欠け方が、雲によるものなのかどうなのかを確かめる気力はなかった。ただ、吹き込んだ風が完全に終わった夏を僕に教えてくれた。
《その夜夢を見た。それを夢といってよいのかわからないけれど、太い温度計のようなパラメーターが増え続ける。そんな夢だった。背景は幾何学模様で曼荼羅のような模様が微細な点によって形作られたものだった。
パラメーターは橋のようにも見え、上昇する数値は橋の上を新幹線が通るようにも見える。増え続けたパラメーターは半分を超えて、さらに増え続けた。過去に同じ夢を見ていたかのような気がする。
不意にメーターは振り切れた。
今までなしえなかった100の数値に到達した妙な成就感と、口いっぱいに真綿が広がったような違和感を残して夢は終わった。生きる感覚ではなく死ぬ感覚だと直感的に感じた》
父が治療院を開業し、鍼灸師としてスタートを切ったのは三二歳のときだった。父の治療室には一面タイルのように専門書が並び、そのすべては点字で書かれていた。最近は予約客がない日など、無骨な顔つきで朝から晩まで専門書を読んでいて、僕はその本の点字が擦り切れてしまうのではと思ったことがある。
僕が小学生の時に、父の部屋のそのタイルのように並べられた本を取り出してみてみたことがある。
そのころは真っ白な紙の上に凹凸で言葉を形作っているなんて知らなかったから、はじめは自分の目を疑った。
「何も書かれていないじゃん」
そのときが唯一の好機だったのだろう。その6点の文字という橋を介して、最奥に潜む内なる父に触れる好機。
それ以来、父の本を見ることはなかった。永遠に解読されない文字に微塵の興味を感じずに時が過ぎた。もちろん父も自分の6つの点が織り成す文字について語らなかった。
◇
「いい?点字は6つの点でできているの」
そういうと彼女は僕の手首をグッとつかみ持っていた分厚い本の真ん中あたりを勢いよく開き、触らせた。
「うーん。まぁそのくらいはなんとなくわかるよ」
「あなた、お父さんといったい何年一緒にいるのよ」
乾いた明るい声はちっとも皮肉めいていなかった。
「二〇年だけど」
「よくそれで学ぼうとしなかったわね」
「興味の問題じゃないかな。そもそも困らないし」
「困るわよ。私のお母さんは私より先に覚えたんだから、あなたにとってお父さんってそんな存在の軽いものなの?」
「わかった、その話題はやめよ。次に会うときまでに君が分かりやすいような説明ができるように考えておくから」
「約束よ」
僕の手首を離すと、サングラス越しの彼女の目元が緩んだような気がした。
「じゃあ、簡単に教えてあげるから次に来るときまでに覚えてくること」
「むりやりだな」
誰にでもわかるように彼女は微笑んだ。
滑らかで自然な話し方。彼女の説明はとても的確でわかりやすかった。点字もローマ字のような規則があるみたいだ。
母音を基準に6点によって真っ白な紙に次々と意味が与えられていった。
あ行とからさ行まで駆け足で説明が行われたけれど、不思議と僕の胸にそのすべてがすっと入っていったような気がした。
◇
つづく