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【連載小説】私小説を書いてみた 2-2

前回までのお話はhttps://note.com/sev0504t/n/nf1fdf6b7e91b
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治療

「え、高校のお仕事やめちゃったの」
 坂下先生は驚きを隠せない様子だった。
 診察の手が止まった。

「ちょっと、隠しながら働くの厳しいかなって。でも、しばらくは失業保険とかでなんとかやってけると思います」

「実家に帰るとか、いろいろ考えなかったの」
「実家には……帰れません。いろいろ家族は事情があって」
 僕は親にこの症状について話していない。話せるわけもない。ふと何かが思考に入り込む。胸の底に何か重たい物を置かれたような、あの父親の言葉の塊を僕は一瞬で払い除ける。払われた言葉は不思議と重さも形もなくなった。

「そうなの。でも、健康な生活が何より一番大事ですよ。一人暮しで栄養も偏るでしょ」
「そうですね。そうやって心配してくれる人はもう先生くらいです」

 好奇の目でみる誰かが、僕を取り囲むような景色が刹那に浮かぶ。それらの人は知り合いのような気もするし、国籍や人種すら違う何者か達のような気もした。

「そんなことないわ。みな心配するわよ」
「誰かにこの状態を晒すというか、知られることが何だか耐えられないんです」

「言いたくても言えないのかな。知ってほしいけど、知られた時にどんなふうに思われるのか不安なんじゃない」
「そんな感じかもです。不安というか、自分が自分でなくなってくみたいな」
「何か変わっていく…か」
「不思議な感じで、何か前向きなエネルギーもあるけど、ちょっと踏み出せないというか。なんなんですかね」
「大丈夫って、簡単に言ってはいけないと思うけど、私はね…何て言うか、いろいろな人を治療してきて、やっぱり私自身変わった気がするの。人は本質的に変化するものよ。きっと」

「ありがとうございます。こうやって言葉に出して話すって大事ですね。あたりまえかもだけど」
「セラピーは領域外よ。でもこれはただの会話。コミュニケーション。美容室とか行ったら美容師さんが話しかけるでしょ」
 先生は少しだけ笑った。
 外来患者は僕で最後だったからなのか、今日の先生は饒舌だった。

「次はいつものドライアイスしますね」
 いつもとは違い診察台の近くまで重々しい鉛色の容器は既に運ばれていた。僕を待ち構えていたような顔。

「やっぱり少しずつ広がってるけど、ちょっと生えてきてるのもあるし、効果がでてるわね」
 容器からドライアイスがゆっくりとりだされ、そのまま先生は僕の頭皮にあてる。

「何でこうなったか、はじめは混乱で分からなかったんですけど、自分でも仮説というか、思い当たることがあるなって、ここ最近思うんです」
「そう、それは回避されたり、なくなったりするのかな」
「わかりません。でも、自分の深いところで燻ってるんです。きっと」
「根が深いのね。湊さんにしかわからないことがあると思うけど」

 前置きをして坂下先生は続けた。
「失うことと得ることは表裏一体なんじゃないかな。喪失感の裏にはまた違った環境や感覚を得ることもある」
 一瞬だけ、僕は別人のような先生を見た。

「不思議なんです。はじめは怖かったけど今は心静かというか、何か新しい感覚。なんでしょうね。これ。でもやっぱり晒すのはハードル高いな」

 虚栄もあった。乾いた笑いのなかに、ある思いが去来する。僕は今までの自分がとんでもなくつまらない生き方を選んできたのではないかと。急に自分が小さくなったような気がした。酸素ボンベのようなドライアイスの容器が鈍く光った。

「変化は人を弱くも、また強くもするわ」
 遠い眼で坂下先生は、パソコンの画面のもっともっと奥の方を見ているような気がした。
 そこで話は終わってしまった。

「ありがとうございました」
診察室を出ようとしたその時、「あ、湊さん」と、坂下先生は思い出したように、机の引きだしからあるものを取り出した。

「これね、医療用のオーガニックコットンのニット帽なんだけど、こんなのもあるからよかったら試してみて。蒸れにくいし、割りと自然よ。チラシどうぞ」
 先生は「ちょっと若者向きではないかな」とでも言いたそうな微妙な表情をしていたが、僕としては嬉しかった。
「あ、ありがとうございます。」
 僕はその状況に従い、礼を言った。


 会計をいつものように済ます。受付の中年の女性は全く表情を変えなかった。
 毎回の治療費も、家計を圧迫した。ネットオークションでギターを売ろうと思った時、僕にとってのの底が知れた気がした。

 あの少女の、ステージで光を放つあのギターを握りしめた少女の眼が脳裏をかすめた。少女の瞳から吸い込まれ、虹彩があのステージの光を調節し、僕を見ている光景まで、まるで彼女に成り変わったような感覚を得る。

 ある予感があった。なぜか言葉にしてはいけないと思ったが、それは無視することもぬぐい去ることもできぬほど、確信じみたひとつを僕に与えた。

 もしこの髪の毛が抜ける特異な現象に誘因たるものがあるとすればあの少女だ。あの少女の眼が僕の身体の最奥に潜む何かに働きかけ、現代医学でも証明できないような具象を発現させたのではないか。

 いや、事実と真実は違う。もう考えることはやめようと思った。必要なことはこれから生きることだと僕は自分に言い聞かせた。生き方を失わないためにそうすることが最善だと、直感的に感じた。
 
 
 少し遅い時間になっていた。病院の外に出れば、紺色に染め上げたような空を雲が半分覆う。混じりっけのない、秋の風が吹けば、髪は舞い上がり、頭皮の薄橙色が覗いているだろう。

 そう思った時、通行人が僕を見た気がした。

 僕は頭を押さえ家まで帰った。人気のない自分の家は、とても小さく見えた。じゃりっとした足元を見れば、遥か昔からそこにあったような石灰石のような不揃いの小石が街灯に照らされている。治療で使われたドライアイス。それに似たその白っぽく見えた石。今しがた見えた冷気を思い出したら、胸が焼けるように熱く呼吸が乱れ目には涙を湛えはじめた。おかしくなった涙腺から視界は歪み、見えている世界は屈折した。

 ただ一人で僕は立ちすくむ。冗談でも何でもない。世界が少しずつ、少しずつ歪んでいくような、そんな気がしたんだ。

つづく
 
 

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