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FOREIGN AFFAIRS 2月号(1)

 【資本主義の未来】「新社会主義運動」の幻想と脅威ー富は問題ではない

         米カトリック大学歴史学教授 ジェリー・Z・ミュラー

 著者であるジェリー・Z・ミュラー氏は専門は近代ヨーロッパの知性史、資本主義の歴史。著書である「測りすぎーなぜパフォーマンス評価は失敗するのか? 」では、数値化のデメリット点を歴史的に解説しました。

 資本主義の強さと弱さがある。実際、自由市場を基盤とする資本主義が18世紀に定着して以降、このシステムは長く批判されされてきた。

 国家は19世紀型のレッセフェール(夜警)から混合経済・福祉国家へと変貌していきました。かつて左派勢力が模索し、現在も模索する社会民主主義と今回テーマになる新社会主義運動は大きく違います。

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 イギリスのコービン、アメリカのコルテスサンダースなどの左派政治家をはじめとして、極左の学者は長く眠った社会主義イデオロギーの伝統を復活させ、再生しようとする試みを行なっているとジェリー・Z・ミュラー氏は指摘します。新社会主義運動はより公正な社会の実現にこだわり、富裕税などのを通じて資産の突出を削り取る政策を主張している。

 資本主義には強さや弱さがある。

 この一言は、批判とともに延命し続けた資本主義とそれをある側面で肯定し続けた社会民主主義への痛烈な批判になっていませんか?

 一方、新社会主義運動は資本主義を改革するのではなく、むしろそれを終わらせようとする民主社会主義と新社会主義運動の分類を明確化します。

 ヴォルテールデビッド・ヒュームのような思想家は「商業の拡大は人類に恩恵をもたらす」と考え、「市場は、貧困、階層社会、宗教紛争ではなく、繁栄、思想的ダイナミズム、社会的平和を促進する」と言ったのに対し、ルソーは「人間は社会的地位にこだわるものだ」と主張し、そうした競争がゼロサムであるために、悲惨な環境を作り出すとしました。

 アダム・スミスは適切な条件下であれば、競争的市場は「普遍的な豊かさ」、つまり、誰もが尊重に値する生活レベルを手にする機会をもたらせると主張した。

 まさにアダム・スミスの主張は資本主義を肯定していった社会民主主義(制限下の資本主義運営)と類似した立場でありますが、物質的解決策になってもルソーの社会的地位への不安に派生する心理的な問題への解決策にならなかったと言います。

 富裕税は、軽く見做される傾向がある。筆者は、富裕税は所得税、それの延長線にある概念ではないことを主張しています。富裕税の大きな機能は、「大きな資産を保有するのは得策ではない」と仕向けることにあり、この富裕税の機能により、資本家の多くは膨大な計算とタックスヘイブン、専門家の顧問料など、多くの投資以外の消費を促進してしまいます。結果として、民間投資を冷え込むのではないか?という懸念を本文で提示します。市場価格はあるが、収益を上げていない状態はスタートアップどころか、どの大手企業にもある局面に資本家が富裕税の機能によって、投資を引き上げたらどうなるのでしょうか?

 大手企業はイノベーションのような冒険をとらず、未来に備えて資本を投資でなく貯金へ回すのでないか?といった所に段落最後を締めくくりました。おそらく、これは彼なりの回答でしょう。

 本文の目的は新社会主義運動の分析でした。確かに主題は捉えていますが、社会民主主義で補えなかった資本主義の失敗についてのアプローチが気薄に感じます。

 独占と技術革新の章で、GAFAのようなプラットフォーム型大企業による独占状態をアメリカの伝統(=アダム・スミスの数多くの小企業による完全な競争状態)に従い、解体していこうとする新社会主義運動の一側面を、ジュンペーターの大手企業の技術革新のエンジンとしての機能から批判的主張を展開します。

 「測りすぎーなぜパフォーマンス評価は失敗するのか? 」でも述べていたように所得階層別の統計や統計数値を弄ぶゲームに注意を呼びかけ、それを裏付けるように中間層に所属する人間の上昇や富裕層の生活改善が中間層より早いだけで中間層の生活も追随する形で向上すること、数多の例を示していきます。

 モンティ・パイソンの【ライフ・オブ・ブライアン】では、古代エルサレムの革命家がその支持者に『ローマはわれわれに何をもたらしたのか』と問うシーンがある。『わかった、わかった。公衆衛生、医療、教育、ワイン、公共秩序、灌漑、道路、清潔な水供給システム、公衆衛生の他に、何をもたらしただろうか』と革命家が問いなおすと、『平和をもたらした』と述べる者がいた。

 新社会主義運動をエルサレムの革命家に例えて、批判します。GAFAのようなプラットフォーム型大手企業は一つのサービスとして、生活レベルの改善も行なった。著者の主張は大まかに言うと、この事実を無視し資本主義の批判はできないということだ。しかし、資本主義に対してルソーをはじめとした精神的充足の欠如は、やはり問題として存在している。新社会主義運動は的の外れた危険な運動という論理で終わっていきます。

感想

 一言で言えば、主張はわかる。社会主義運動に感じたクリエイティビティへの異常な軽視は、ニコニコ動画やYoutubeで娯楽を享受し、IphoneとLINEで人と繋がった若者なら誰しも感じることでしょう。しかし、中間層に所属する人間の階級上層は特殊な事例であるし、見るに堪えない、死屍累々たる中間層の没落が進む日本社会においてはクリティカルな批判にならない。移民に一発逆転のチャンスを与えるアメリカンドリームを国家理念に据えたアメリカなら通用するのかな?と考えています。

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ホソヤ
数年前にトルコに渡航していました。現在はオルタナティブ系スペースを運営しています。夢はお腹いっぱいになることです。