「科学的根拠がない」は「間違っている」を意味しない

「科学的根拠がない」は、科学において検証されていない、という意味にすぎない。
「科学的根拠に間違っているとされた」だったら<科学的に>間違っているということが言える。

これらについて、科学とは何かについて共通認識を持った上で、書いていこうと思う。

科学とは

科学とは次のサイトによると

・実証性: 仮説が実験等により見当できること
・再現性: 同一条件のもとでは同一の結果が得られること
・客観性: 導出した結論が事実に基づき客観的に認められること

に支えられているらしい

実証性も客観性も大事だけど、再現性の「同一条件のもとでは」というところを後述のためにピックアップしておく。

「科学的根拠がない」は、科学において検証されていない、という意味にすぎない

これは文字通り。

科学的に証明されていることが知られていない、という意味に過ぎない。

ここにはさらに2つの観点がある

・証明する人がいるかどうか
・証明されたと言って知っているかどうか

「証明する人がいるかどうか」

証明されるということは誰かが証明するということである。誰かが時間(人生の一部・命)をかけて調べて初めて科学的証明が行われる。

証明するのは科学者や研究者である。その人達がやる気にならないと証明が行われない。そのやる気を生むのは以下のようなものである。

・本人の熱意
・得られる報酬(お金・名声)

となると、そもそもやる人が少なく、やれるテーマも誰かが調べたいと思うものに限られるということである。

それも時間をかけないと調べられないことから、コスパが高いものしか調べられない。つまり、ニッチなものから始めるのではなく、ある程度粒度の大きいテーマからしか調べられない。ということは私達が「科学的に証明されているのかな」と日常の中で思うことの中でも取りこぼされていることは多そう。

再現性という観点からも、証明できないから研究が行われないということもありそうだし。

つまり、「科学的に証明される」こと自体結構限られた領域で行われそうという感覚がある。

「科学的根拠に間違っているとされた」だったら<科学的に>間違っているということが言える

これは確か。

ただ、このことは単に「科学的に」間違っているということがわかっただけだから、なんとも言えない。

前述の通り、科学は再現性「同一条件のもとでは同一の結果が得られること」に支えられている。つまり科学はある状況において実験や検証が行われている。その状況が、自分がテーマにしたいものと合致しているかは確認したほうがいい。状況が違ったらその科学的証明も機能しない。

あとこれは最悪の逃げ道だけど、主観に逃げるというのもある。科学的に間違ってるとしても自分だけは信じるとかで安心は得られる。とはいえ、科学がテーマになるときには大抵は「AしたらBになる」という法則に絡むもので、それの再現性が否定されたのに信じるのはなかなかつらいけど。

おわりに

今回は「科学的に証明されていない」というパワーワードについて書いてきた。

まぁ「それって科学的に証明されているの?」という会話をする私達は「科学的証明」を印籠や免罪符のように使ってるけど、科学について知らないんだよね。

水素水がいい例だけど、よく知らない科学様の天啓に振り回されて生きており、まぁその状況が自覚できただけでもよかった。

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