日記という精神安定剤
日記を書いている。
中学1年生のころからなので、20年弱くらい。今の日記帳は13冊目。
日記を書いていると言うと、みんなに驚かれる。
そんな殊勝なことをやっているのか、続けてるのすごいと。
その言葉を聞くたびに思う。
殊勝でもなんでもない。日記がないと多分私は自分を保てない、半ば依存している状態なのだ。
幼少期
今思えば、書くことで気持ちを発散しているところが幼いころあった。といっても”死ね”とノートに書きなぐったりと褒められる代物では当然なく、やばめの子供であった。
日記を書くことになったきっかけ①
中学生のとき、先生と交換日記をする?的な儀式なのか宿題なのか、そのようなものがあった。それが苦ではなく意外と楽しかったのだ。
書いているうちに、「こんな楽しい感情でも、数日経ったら”楽しかった事実”は覚えていても”このときならではの感情”を忘れてしまうのがもったいない」と思うようになり書くようになった。
私の日記ルール
気持ちを発散する、残したいことを残す、という考え方のため毎日書くルールはない。気持ちを発散する必要がないのに自分を強要する必要がないからだ。
それを含めまとめるとざっとこのようなルールで日記をつけている。
1 毎日書かない。書きたいときだけ書く。
2 手書きで書く。
3 自分以外の人には見せない。
自分だけのものにすることで、人目を全く気にすることがない。日本語が変でも構わない。とにかくその時の感じでだれにも遠慮せず書くことができるのだ。
私にとっての日記の概念
上記3つのルールで書いていると、書き始めたきっかけとは別の概念や意味づけが日記に出てきた。
1 書かない日も含めて自分を表すものが“日記”
2 字の汚さ、何かの切り抜きの記事が貼ってあるだけのページなど、
内容以上に物語る“見た目”の存在
3 自分を整理するもの
全然書かない期間もあれば、内容だけ見ればなんで書いたんだろう?というような1行のみの日もある。それを読み返すと、書かない日も含め“自分”であり”日記”だなと感じる。字の汚さなどビジュアルから読み取れる情報も同じである。
また、日記ではないかもしれないけれど、自分の考えを整理するためのノートになることも多い。転職の時など自己整理のためによく書いていた。
最後に
私から言わせると「日記をつけるゾーーー!」と皆さん気負い過ぎている。
もっというと何のためにそんな一大決心をするんだろうと思う。
書きたいものを書きたいときに書くことが私にとっての心の拠り所なのである。