
長塚圭史演出 KAAT×新ロイヤル大衆舎「花と龍」を見た。
先日の上京で再び訪れたKAAT、今回は「花と龍」の観劇のためである。
いわゆるピュアな“演劇”の舞台を観ることが少なく、この前に観た演劇は静岡SPACでの宮城聰演出「白虎伝」なので、半年ぶりくらい。
以前から長塚さん演出の舞台を観たい、観なければと思ってきた。
一方で、この数年、日本のいくつかの“ビッグプロダクション”に抱いた疑問が胸にもやもやと残っていた。日本における舞台芸術は独特の偏りや特徴があるようで、たまたま日本より欧州の舞台芸術シーンを先に見てきた自分には不思議な形で固定化されたものに感じていた。
(逆に北米やアジアなどの舞台芸術一般の状況を詳しく知らないので自分自身が偏っているのかもしれない。)
日本の現代的な舞台芸術の中心はストリートプレイ(台詞劇)で、注目を集めるには著名な役者やタレントが必要なようだ。役者はもちろん重要だけれど、どちらかというと本来、舞台芸術は「どのような作品か」が問われるのであって、出演者の人気で全てが決まるなんてことは無い、はずだ。
プラス、この国では、ほんの一握りの芸術監督が国全体としては極めて少ない公的文化予算の多くを使って創作することができるが、結果的にそれは日本の芸術文化全体を押し上げるとも思えず、悶々とする。
とはいえ!である。
個人的には悶々として立ち止まるのが性に合わないので、例えしんどくても、自分なりにばっさばっさと道を切り開くほうがなんぼもマシ、と思うし、上記のような「芸術監督制度って…」という論議も、“芸術監督”という一言で一括りにするのは非常に安易だし失礼なことだ。
とにかく、濁りの無い目で見てみよう。
花と龍
新ロイヤル大衆舎版「花と龍」は原作・火野葦平の長編小説を舞台化したもので、いわゆるストリートプレイ。
最初に言うと、見終わったあとの気持ちは清々しく、劇中の人物たちと同じ空気の中に生ききった3時間10分があった。
舞台上に屋台村が仕立てられ、観劇前はその屋台村でなんと、焼き鳥など様々なものが売られ、舞台上でも1階客席でも飲食ができる(1階部分は上演中も飲食可!)。
なので、劇場内は美味しそうな食べ物の匂いで満たされ、また、客席前半分は赤座布団の桟敷である。物売りが桟敷を歩き、劇中にも演者はこの座布団部分にどんどん進入し、笑いが起こる。
私は購入が遅かったので2階席最前列で観たのだが、舞台全体の様子が見て取れて、それはそれで良かった(正直にいえば、もう一度1階席で観られたら最高)。
なので、あの巨大なKAAT大ホールが、あたかも私が見慣れたこんぴら大歌舞伎の光景そのままに、すべてが互いに手に取れるような親密さ、特別な雰囲気の芝居小屋に変貌していた。
芝居の空間というのはとても大事で、そこに足を踏み入れた瞬間から観劇が始まるわけで、その意味で見事な空間づくりだった。
本編はというと、これも見ごたえがあった。
特筆すべきはやはり、舞台まん中に据えられて360度回転する、巨大な三角形の斜め舞台である。
あれほど大きく高さもある構造物がど真ん中に、劇中最初から最後まで鎮座するわけだ。普通に考えれば邪魔に思える場面が出て来ても不思議でない。
ところが、そうならない。
この三角形の巨大オブジェは、昔の北九州の荷揚げ人足「ゴンゾウ」たちがよじ登る、または荒波に揉まれる船にもなり、
町民が住まう家にもなり、
まちの入り組んだ辻にもなり、
人々の上限関係を表す暗喩にもなる。
また、360度回転することから、時代や社会に翻弄される人間の怒涛の状態や、あるいは場面転換にも使われる。
また、役者の動きの半分近くはこの三角の急傾斜の上で行われるのである(!!!)。
これが驚異的。
自分「森のサーカス」という企画で、水平面がない現場に数日間いた際、斜めというのが人間の身体にどれほどの負担をかけるか思い知った。
この急傾斜の斜め舞台で、役者たちはあたかも「何事もないように」演じなければならぬ。
原作を読んでいないのと、まだ長塚演出の舞台を他に知らない(これから見ます!)ので正直なところ演出について正確な意見を述べられると思えないのだが、
自分が感じたところでは、長塚さん(と新ロイヤル大衆舎)がとにかく観客と平らな目線になることに注力していて、そのため観客は折に触れて舞台上の彼らにぐっと近づけられるのだが、極めて巧みに、すっと劇中の別世界に戻っていく、その繰り返しがあり、寄せては引く波のように押引きをしながら、いつの間にか別の次元に連れていかれているような感覚であった。
最近小池博史さんの演出を見る機会が多く、比較するわけではないけれど興味深いなと思ったのは、
小池さんの舞台では、演者たちは力と魂の限りを引き出され、自分たちも放とうとしているのが見え、
長塚さんの舞台では、演者たちは、とんでもなくハードなことをしながら、あたかも自然状態にいるように見える。
どちらも、とんでもない凄みがある。
長塚さんの過去のインタビューで「自分は受動的エンターテインメントを目指していないが、能動的エンターテインメントならば良い」という趣旨のことをおっしゃっていたと思う。
つまり、観客が自分の意志と想像力をもって舞台を楽しむという姿勢である。その姿勢を導く要素として、前述の空間づくりも深く関わっている。
見る側の内なる(時には物理的な)努力なくして、本当の愉しみは得られない、という部分に賛同する。
空間・美術の力
「花と龍」は演出も役者も素晴らしいと感じたが、空間演出が大好きな自分としては、やはり美術の木津潤平氏にも感嘆の拍手を送りたい。
かつて宮城聰監督がフランス・アヴィニヨン演劇祭で「マハーバーラタ」公演に提案したリング状の舞台が、あらゆるルールを変えさせるに足るインパクトと説得力だったと聞くが、それが木津潤平氏のプランである。
舞台は良い。
良い舞台を観た。
結局は、判断はそう思えるかどうかに尽きるのではないか。
「花と龍」はそういう舞台だった。
***
KAAT×新ロイヤル大衆舎 vol.2「花と龍」
2025年2月8日(土)〜22日(土)
神奈川県 KAAT神奈川芸術劇場 ホール
原作:火野葦平
脚本:齋藤雅文
演出:長塚圭史
音楽:山内圭哉
美術:木津潤平
いいなと思ったら応援しよう!
