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愛するということ/著エーリッヒ・フロム

20世紀を代表するドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムの世界的な名著「愛するということ」

この本を、一言でまとめるならば「愛するための技術の本」だ。

きっと、この本は読む度に違った解釈を読者にもたらしてくれるだろう。

なぜならば、よくある恋愛本のような小手先や恋愛心理について教えてくれるのではなく、人間の奥底に眠る、どこかで目を背け続けていた核心の世界を解説してくれる本だからである。

今回は、この本についてご紹介させて頂こうと思う。

【この本を読んで得られるもの】
✔️愛され方ではなく、愛し方
✔️傲慢な自分自身に気付ける
✔️どこか日常的に感じる孤独の正体を知り、ヒントが得られる

愛とは、誰もが浸れる感情ではない。努力してようやく手に入れる事の出来る技術である

愛するという技術について安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう。この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する――愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない。この本は読者にこう訴える――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P3


世の中の人たちは、どうして当たり前のように”愛”を手にしているのに、どうして自分には、まだ”愛”がないのだろうか。

そんな孤独感を、ひっそりと心に抱いた事に心当たりのある人は決して少なくはないだろう。

しかし、この本を読み始めると、いきなりフロムはこう断言するのだ。

「愛は誰もが簡単に浸れる感情ではない」「愛は、技術である」だからこそ「知力と努力」が必要不可欠であると――。

どうやら、愛とは習得可能な技術であり、当たり前のように多くの人が手に入れられるものではないらしい。

【フロムの主張】
✔愛とは、技術である。


現代人は、そもそも”愛”を誤解している

人びとにとって重要なのは、どう愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということだ。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P11


世の中を見渡せば”モテる方法”とか”愛される人になる方法”とか、そんな情報で溢れている。

しかし、そもそも愛は、”いかに自分が貰うか”が前提なのかという話である。

「社会的に成功すれば…」
「お金さえあれば…」
「見た目が良ければ…」
「身長が高ければ…」
「気のきいた会話ができれば…」

〇〇があれば、自分は愛が貰えて当然の人間に…

多くの人は、自分が学ぶべきものは”愛”そのものではなく、社会的な成功や外見を磨く事に時間を使うべきで愛については学ぶ必要がない、と考えているのだ。

愛されて当然の人間になりさえすれば、自然と愛はやってきて勝手に恋に落ちる。

それが、一つ目の誤解である。

そして、フロムは現代人が陥りがちな愛の誤解について、こうも言っている。

愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはそこの人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのはむずかしい、と。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P11-12


つまり、多くの人にとって愛とは、突然どこからかやってくる運命的なものであったり、好ましい人が現れたら愛が生まれるという”運”なのだ。

この考えも、そもそも誤解であるとフロムは断言している。

【現代人の危険な”愛”の誤解】
✔多くの人が関心を向けるのは、「愛すること」ではなく「愛されること」
✔もしくは、愛するに値する人がいないなどという運に由来するもの。


”愛”を軽視してはいけない理由

人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P23



人の最も強い欲求は”孤独からの解放”である。

この事実は、どの時代のどの社会においても変わらない、一つの問題として存在し続けるものである。

これまで、人びとは孤独から逃れる為に崇拝、征服、芸術、信仰、同調…と、ありとあらゆる解決方法を手にして来た。

しかし、フロムはこれらの行動では本当の意味で人は孤独から逃れる事はできないと言うのだ。

生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。だから、いずれも、実在の問題にたいする部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P35



つまり、人の行動理由の根底にあるものは、大半が孤独からくるものであるが、この孤独を本当の意味で癒してくれるものは”愛”しかないとフロムは言う。

愛、それは人間が実在する答えなのだ。

【人を救えるのは”愛”だけである】
✔人の最も強い欲求は、”孤独”から逃れる事
✔本当の意味で人の孤独を救う事ができるのは”真実の愛”だけである


自分の持てる力の最も高度な表現、それが「愛」

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。(中略)愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、ということができよう。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P41



”真実の愛”とは、愛される事が重要なのではなく、愛する事が重要
であると訴えるフロム。

では、なぜ愛される事が重要なのだろうか。

それは、与えるという行為自体が”豊か”な人にしかできない表現だからである。

生産的な性格の人にとっては、(中略)与えることとは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びを覚える。(中略)それは剥ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P42

与えるということはその人が裕福だとうことである。たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何かひとつでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P43



ここで言う、豊かというのは物理的に”裕福”である人という意味ではない。

日常的に愛は与えられるものだという”受動的”な思考の人は、何かを人に与えるという行為が「あきらめる」「剥ぎとられる」「犠牲にする」という思い込みがある。

それは、人間性そのものの性格が、物事に対して受動的であり「受け取る」「利用する」「貯めこむ」という段階から抜け出していないのだ。

また、フロムはこうも言っている。

商人的な性格の人は喜んで与える。ただしそれは見返りがあるときだけだ。彼にとって、与えても見返りがないというのは騙されるということである。基本的に非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。(中略)いっぽう、与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。(中略)喜びを味わうよりも剥奪に耐えるほうがよいという意味なのだ。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P42



一見人に与えるように見える人でも、見返りを求める事が前提である思考から脱却できていない人も多い。

つまるとろ、よく見るタイプのギブアンドテイク人間である。

しかし、人は鏡だ。

見返りを求めてしまう人もまた、損得感情の対象としてしか周りからも扱われていない。

見返りを求めず、与えられる事自体がこのうえない喜びとして与える事のできる人には、結果的に他人の中に何かを生み、それが自分に跳ね返ってくるのだ。

愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P45



自分から能動的に見返りを求めずに人を愛する者しか、真実の愛は現れない。

愛を手にできる者は、深く人を愛せる者だけである。

【愛されることよりも、愛することの方が重要である理由】
✔自分から愛する事ができる人しか、愛されない
✔愛する事は、豊かな人にしかできない表現である
✔受動的な思考から抜け出せない人は、愛する事は「犠牲」や「失う」事である


私たちは消費欲を満たし、希望を失わず、永遠に絶望をしている

現代資本主義はどんな人間を必要としているのか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。(中略)その結果、どういうことになるか?(中略)現代人は商品と化し、自分の生命力を費やすことを、まるで投資のように感じている。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P131



フロムは、現代人がそもそも”愛”を誤解している背景について、個人の問題ではなく社会的な問題だと考えている。

孤独から逃れるため、あるいは、愛されるために必死にしがみついた資本主義という社会が、より孤独を悪化させている。

機械的な仕事だけでは孤独を克服できないので、娯楽までが画一化され、人びとは娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐにそれを他の物と交換したりして、孤独を紛らそうとする。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P132



あまりにも、交換する事と消費する事に適応してしまった現代人。

それは、物だけではなく”愛”も、当然のように”交換と消費をする”思考を生んでいるのだ。

いかに、自分という商品価値を高めて「パッケージ」とし、その商品と交換可能な「お買い得品」を探している。そして、そこに愛着がなくなれば交換される。

また、フロムは、現代社会の結婚に対してこんな事を言っている。

幸福な結婚に関する記事を読むとかならず「結婚の理想は円滑に機能するチームだ」と書いてある。そうした発想は、滞りなく役目を果たす労働者という観念とたいしてちがわない。(中略)こうした関係を続けていると、ふたりの間柄がぎくしゃくすることはないが、結局、ふたりは死ぬまで他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」とはならず、相手の気分をよくするように努め、礼儀正しく接するだけの関係となる。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」(2020年)紀伊国屋書店 P134



つまり、結婚とは孤独の”避難所”とはなるが、利己主義が二倍になったものに過ぎないと。

結局のところ、本質的な”孤独からの解放”を得たいのならば、前述したような「愛すること」をしっかりと学び努力するしかないのだ。

【資本主義社会における”愛”の難しさ】
✔資本主義社会に求められる人間は、受動的で非生産的な扱いやすい人間である
✔資本主義社会では、消費と交換が”当たり前”であるため、愛に対しても同じように考えやすい
✔現代社会は、愛が全般的に欠けている

まとめ

✔愛は技術であり、知力と努力がそこになければ得る事はできない。
✔人間の最も大きな欲求は、孤独から逃れる事である
✔本当の”愛”を手に入れるためには、「愛されること」よりも遥かに自分から「愛すること」が重要である
✔「愛すること」は成熟した豊かな人間がけができる高度な表現である
✔物事に対して、ギブアンドテイクではなくギブに喜びを感じなければ成熟した人間であるとは言えない

感想

感想、なので赤裸々な私事の話になってしまう事をお許し頂きたい。

私は長年「人をなかなか好きになれない」という事について、真剣に悩んできた人間である(1人もという事ではないが、絶対数が少ない)。

その、問題のヒントを得る為に本書を手にした。

結論から申し上げると、自分の悩みの問題がスパッと言語化されていてとても爽快な気持ちにさせられた。

私の抱える問題は、人に「ギブ」する事を多く行う性格ではあるが、そこに対して激しい消耗を感じてしまうという事。

それはなぜかと言うと、人を愛したくて行っているはず「ギブ」が「自己犠牲」に差し掛かりやすく、結果、人を通して自分を愛せなくなってしまうという問題である。

本書にも記載があったように、どこかで、自分を愛せていない部分があり、それが他者への人間関係にも表れる部分があるのだなと、思考のヒントを得られてとてもスッキリとした気持ちになった。

是非とも、「愛」や「孤独」について実態のない悩みを抱えている人にお薦めした本である。

本書は、難易度的には難しく、自身の人間としての成熟度によっても理解の深さは違うように思う。

是非とも、「愛」や「孤独」について実態のない悩みを抱えている人にお薦めした本である。

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