私が求める、毎日noteという修行
私の主なSNSツールは、instagramとnoteの2つです。その違いは、ビジュアルメインか言葉メインかで、思考と感性の両方を行き来することが得意(好き)な自分にとって、どちらもとても自分向きな発信ツールだと思っています。
noteの毎日更新は今日で61日目。
発信することはあまり苦ではなかったはずなのに、最近ちょっと苦しくなってきた原因を探りつつ、毎日noteという修行を続けたい、という今日は散文。
noteに、自分が期待すること。
言葉メインのnoteには、思考の整理も兼ねて思っていることをまとめるようにしています。
詩の投稿もその一環で、感性で綴った言葉を思考で改めて読み解くために書いています。これは、自分の分析に近い。
でも、本当に私自身がnoteでしたいことといえば、社会と自分の接点についての分析、の方だと思っている。
多種多様な考え方や色々なおもしろいことが起きる世界に触れて、自分の思ったことを残しておきたい、私にとってnoteはそんな場所になりつつあります。それなのに、最近そういった投稿からご無沙汰してしまっている…。
自分の言葉で書くためには。
ご無沙汰している理由のひとつに、やはりこの閉鎖的な状況がある。
私の思考の種となる外界からの情報との接点が、今はオンライン上やメディアからがほとんど。有名人の発言やニュースはためになることがとても多いのだけど、「身になる勉強」というのは正しいことや遠い人からばかりではないのだと改めて感じます。
一次情報が大切、というのは本当にその通りで、他愛もない話や身近な人の行動に触発されてアイデアは生まれていたのだなぁと、今は「現場」が恋しくなっている。
媒体を通すと情報に対して受け身になりがちで、体感としてあまり実感ができていないのだと思う。自分の考え、にまでうまく行きつかない。
noteを書こうとして思うのです。
私は今、誰かの意見を自分のものにしてしまってはいないだろうか?
今の現場。
今、私の周りにあるリアルは、散歩や見あげた空や吹く風(と、パートナー)。そこで感じることは、やはり情緒的なことが多い。
私をフォローしてくださっている方には、思考面と感性面とどちらかに重きをおいて楽しみにしてくださっている方が多いような気がして、感性投稿ばかりの最近の更新も申し訳ないなぁと思ったりもしている。
そこは自由であっていいのだとわかっているけれど、SNSの共感力というものはとても心の栄養になるので私はやっぱり自分だけの投稿ばかりにはしたくないなぁと思っています。
それができているかいないかはわからないけれど、少なくともこの筆が進まない感じで記事を投稿したくないのに、毎日更新したいと思う気持ちが厄介。
ただ、この状況で「いかに自分が心地よく、クリエイティブに発信できるか」というのは自分が求めている修行なのだと自覚して、とりあえず毎日更新だけはできる限り続けてみたいと思っています。
続けていくために、やること改めて。
以前のnoteにも書いた気がするけれど、まずは受け取った情報にきちんと感想を持つこと。そこから連鎖するように気になることを、自ら調べること。
そうやって自分が行動を起こすことで思考を起こしていくことを忘れないように。
というわけで、こんな散文の日もあるけれど、また明日からよろしくお願いします。という日曜日の24時前。今日も更新できてよかった。
いつも読んでくれてありがとうございます、感謝を込めて。