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【アーカイブ・解決済み】作品制作をする上で、生きる上でのパートナーが欲しいという切実な話

 次の瞬間、自分はもう息をしていないかもしれない。
 自分が自分ではなくなっているかもしれない。
 明日目が覚めないかもしれない。
 手が動かないかもしれない。目が見えないかもしれない。

 それらはごく当たり前のこととして、日常的に起こり得ることだと考えている。

 私は21の誕生日を迎えた直後、一度死んだ。何の脈略もなく唐突に、「次の瞬間もう現実を認識できない」「このまま寝てしまったらもう二度と目が覚めない」、そんな未だかつてないほどの、魂の底から湧き上がるような恐怖感が襲いかかってきて、常にその考えだけで頭が支配され 他のことは何も考えられず、どうすることもできなくなった。ただ布団に潜り込んで 一人震えることしかできなかった。
 その恐怖が続いた時間は、当事者的にはうんと長く感じられたけれど、日記を見る限りでは 一日のうちに始まって終わった出来事のようだった。
 だんだんと震えが収まってきて、100%「死への恐怖」で占められていた思考にも隙間ができて、そしてその後、「あ、死んだんだな」と直感的に、思った。
 その日から、私の生活はじわじわと変化していった。

 うんと幼い頃に封じたであろう感情や、人間として本来持って生まれたであろう感覚が戻ってきた。感情が自分の中に生まれていくさまはとても気持ちが悪くて、あの嫌悪感は忘れられない。こんなものを背負って生きていくなら、感情なんて失ったままの方が良かったとすら、その時は思った。

 感情や感覚が戻ってきてから色々な変化があった。詳細は長くなるためこの場では割愛し、大まかに単純化して書くと、「鋭すぎる感性が戻ってきたために 外にまともに出られなくなった(そこにいる他人の気や感情を勝手に吸収してしまい、すぐに体調不良を起こす)」「極端に体力が落ちた」「今まではできなかった(興味すら持てなかった)読書や、文章を書くことができるようになり、感情を使って何かを感じ取ること、生み出すことに楽しさを見出せるようになった。世界がとても美しいものに感じられ、生きるってこんなに楽しいことだったのかと思うようになった」などが主な変化として挙げられる。

 良くも悪くも、普通の生活を送ることはできなくなってしまった。
 私は鋭すぎる感性を持って生まれ、世界から自分を守るため 無意識に感情・感覚を閉ざし、なんとか人並み……とは言えないが、一応の日常生活を送っていたのだ(精神科の先生曰く)。その守りが解かれてしまった。得たものも、失ったものも、あまりにも大きかった。自分自身の言動や考え方も大きく変化し、まるで別人かと自分でも思うほどに 何もかもが変わっていった。

 そして そんな変化していく日々において要となったのが、「あの日一度死んだ」という感覚である。人生二周目のような、ボーナスタイムのような、そんな感覚が付き纏った。
 一度死んでいるから、常に死と隣り合わせで、死は日常であり、どんなときも手を繋いでいるものだ。
 何をするにも、常に死の感覚が付き纏う。それを前提として考えてしまう。「次の瞬間死んだとしても、死ぬまでにお風呂を洗ってお湯を張ることができた。私がいなくなったとしても 家族は今夜お風呂に入れる」「死ぬまでにどれくらい作業を進められるだろうか。ここで死んだら今までの作業分が本当に勿体ないなあ」

 あの日から、ずっとそうだ。
 それを日常として耐えながらも、年月が過ぎるにつれどんどんとその感覚は肥大し、本当に自分、死ぬのではないか……今度こそ本当に…… と怖くなっていった。

 常に何かを作っていないと息ができない性であるが、作品制作にすら身が入らなくなり、明日目が覚めなかったらどうしようという恐怖感から、かつてはたっぷりと時間をかけて クオリティを高めていくことが「作る」ということにおいての最大の楽しみだったのに、それすらできなくなってしまった。自分の手元にある未完の作品が 誰にも知られることなく私と共に死ぬことが怖くて怖くて、制作が進めば進むほどペースアップし体調を崩し、クオリティはどんどん落ちていき、もう私はかつてのように楽しんで作品制作ができなくなってしまった。なんとかぎりぎりのところで「作ることをやめていない」状態である。何も生み出せなくなった私なんて本当に死んだも同然だ。

 もう嫌なのだ、こんなのは。私はまた以前のように、楽しんで何かを作りたい。自分の死なんて恐れずに ただ目の前のことに熱中したい。自分の明日を信じたい。
 だから、覚悟をもって今、この文章を書いている。

 どうすればあの頃の自分を取り戻せる、もしくは近付けるのか。今の自分の苦しみを少しでも和らげることができるのか。そんなこと、深く考えるまでもなく明白だった。自分の制作途中の作品を共有してくれる人がいればいいのだ。たとえ明日、自分がどうなったとしても、この人に預けていれば絶対に最善の方法を取ってくれる。それ以前に、この人に預けているから私は大丈夫。生きてこの作品をしっかりと仕上げることができる。そう信じられる人が、自分の心が、明日があれば、きっと私はこれからも生きていけると、そう思ったのだ。
 逆にもう、その相手をどうにかして自分から探し出さないと、もうダメだと思った。限界だった。

 ここからようやっと本題に入ります。何卒よろしくお願いします。
 ここまでの流れでちゃんと説明を果たせていれば嬉しいのですが、要するにタイトル通り、「作品制作をする上で、生きる上でのパートナーが欲しい」のです。
 人脈のある人、あるいはコミュニケーションが難なく取れる人であれば、色々と探す方法はあったのかもしれない……むしろ探す必要さえないのかもしれない……と思いつつ、私はどちらも致命的であり、他にやり方が考え付かなかったので、運は絡みますが この方法を試してみようと思いました。思いましたというかものすごい覚悟で挑んでいます。
 話が逸れそうなので元に戻します。
 パートナーと一口に言っていますが、つまるところ何を求めているのかと言うと、

 ・制作途中のもののデータの共有(共用クラウド)
 ・上記のデータをきちんと扱える(技術的にも人間的にも)
 ・それとない雑談

 ができる方、してくださる方を探しています。以上です。

 下書きはここで終わっている



20.09.11 本にも載せたやつ
こういうことがあったという記録……今見ると相当な焦りが見えて文章下手くそだな……

今はもう落ち着いているので大丈夫です!パートナー探してもいません。
相変わらず一人でいますが、これらの感覚はかなり薄まって恐怖感はないし、そうなったらなったでエモいな……という諦観にも似た良い感覚を得たので。

ちなみに、数年がかりでようやく辿り着きましたが、おそらくこの死にそうな恐怖のプロセスは「積極的分離」と言うみたいです。ものすごく納得した。
そういうものがあるのだとわかってすっきりした〜。もうこわくない。

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setonai
なにか感じていただけましたら、よろしければ。よろしくお願いいたします。

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