2013年、後悔
どうしても書き記しておかなければならないことがある。
いつか、いつかちゃんと、と、その「ちゃんと」書ける余裕を待っている間に7年が経過してしまった。
あれからもう7年……? どんなに頭を捻っても、それほど長い年月が過ぎていったとは考えられない。あの出来事は私の中で、ずっとすぐ傍にあって、何かの拍子にふと目前を掠めては後悔を募らせる。
ひとのやさしさと未熟な人間の懺悔の話。
2013年12月11日。当時の日記によると、今から書き出す出来事はその日に起こったらしい。
予め記しておくと、これは壮大な悲劇の物語でも、大犯罪を犯した罪人の手記でもない。客観的に見れば本当に小さな、誰も気に留めないような些細なことだと思う。しかし、そんな取るに足らないほどの小さな出来事で 人生をまるっと変えてしまうのが人間なのだ。小さな大事件のたびにふと別方向へとレールを切り替え、それらが重なって重なって一人の人間が形成されていく。
私にとっての大事件は他人にとって 日常の隅に転がっている石ころのようなもので、逆もまた然り。
そんな一個人の後悔と懺悔に、どうか気楽に構えてお付き合いいただければ幸いだ。
その時、私は大学1年生で、一人暮らしをしていた。高校生までは外の世界にまるで興味がなく(させられていた)、ただでさえドが付くほどの田舎で、そのほとんどを家の中や学校、バイト先、自宅までの道のりの範囲内で過ごしていたため、県外の大学に入ってはじめて外の世界に触れた。それは思っていたよりも怖くなくて、とにかく自由で楽しくて、人生でいちばんの自由を謳歌していた。
12月11日。ほどほど肌寒くはあれど、空気はからっと乾いて水色の空が広がる、気持ちの良い朝だった。午前中は講義が入っていなかったので、自宅からは少し離れた場所にあるものの、以前サークルの先輩に教えてもらった 個人経営の美味しいベーグル屋さんへと向かうことにした。やさしい味のおいしいベーグルが食べたい、そんな空の色をしていたから。
自転車に乗って、あまり通り慣れていない 広いとも狭いとも言えない道を走る。大きな主要道路からは離れていて、人気もほとんどない。ほんとうに空気が心地よく、晴れ渡る空に静かな自然の声だけが寄り添う。とてもとても美しい、冬の朝だった。
ベーグル屋さんに到着すると、駐車場はないので 自転車を道路の端に停め、お腹の鳴りそうな良い香りの漂うお店の玄関からその中へと誘われる。あれこれ迷いながらもそのうちの2つを選んで、ここに並ぶベーグルたちの作り主であろう女性の職人さんへと手渡し、気持ちよく会計を行う。一言お礼を言ってから、玄関のドアを開けて外に出た。
すると、先ほどまで全く人気のなかった道に、人の良さそうなおばさんが立っている。ベーグル買いに来たのかな? と思いつつ、私が乗ってきた自転車に近付こうとすると、それよりも早くおばさんはこちらに近付いてきて、何やら世間話を始めた。
その頃の私は(抑止力が高まっただけで、今の方が余計にかもしれないけれど)とても好奇心が強く、田舎中のド田舎から出てきたばかりの 何の知識も経験もない世間知らずだったので、おばさんの話に付き合うことにした。何か自分の知らない世界を教えてもらえるかもしれない、違う考え方に触れられるかもしれない。当時の私には、見るものすべてが新しくて、触れるひとすべてが先生で、例外はあれど基本来るもの拒まず、どんなものからも学びを得ようとしていた。
このおばさんとの世間話にも、それを期待していたのだ(おばさんというのは人を見つけると話したがるものだと思っていたし、そこに何の疑問も抱かなかった)。
自分から話すことは苦手なので、とにかく話を聞いていた。いつものように、答えを求められれば口を開く。軽い世間話かと思いきや、それは全然終わらない。しかし時間の余裕はまだあるし、単純に人の話を聞くことは楽しかったので、その後もしばらくその場で立ち話をしていた。
すると、人通りのほとんどない(が、遮蔽物がなく開けているため、周囲からの見渡しは良い)道路に、突然一台の車が通りがかった。
優しそうなおじさんが運転している普通車で、そのおじさんは「敢えて私たちの立っている場所とは向かい合う反対側の位置」に停車させ、「私ではなくおばさん」に声を掛け近付いてくるように促し、「この辺りに住んでいるなら誰でも知っているであろうスーパーまでの行き方」を尋ねていた。
その時点で気付くべきだったのだ、本当に。
私はおじさんの行動を不思議に思いながらも、まだ話の途中なので、道順の説明をしているおばさんが戻ってくるのをそのまま待っていた。
一通り説明を終え、おじさんがお礼を言い、おばさんがこちらに向かって戻ってくるとき おじさんは私の方を見て、「ごめんね、邪魔したね」と言った。やさしい笑顔だけど どこか心を締め付けるような、痛みを伴う表情だった。驚いて、「い、いえ……」としか言えないうちに、車は遠くへ走り去ってしまった。
おばさんとの世間話が再開した。と言っても先ほどまでとは少し感じが違う。あれ……? と違和感を覚えた矢先、小さな冊子を手渡された。
宗教だ!
突然雰囲気の変わった話の違和感とも合わせて、こういったことに疎い私でもさすがに気付いた。と言うかおばさんはもう答えを出している。私は最後まで気付くことができなかったのだ。
それから、本性を顕にしたおばさんは宗教観全開で話を振ってくる。私はたじろぎつつも 初めての経験ゆえにどう対応すればいいものかわからず、流されるがままに は、はあ…… などと情けない返事をすることしかできなかった。
教徒の集まりに誘われた辺りで これはまずい…… といたたまれなくなり、ふと腕の時計に目線を逃がすと、いつの間にこんなに……!? と思うほど時間が過ぎていた。午後の講義に間に合わなくなる。逃げる口述ができた!(別にそんなものなくとも適当にでっち上げればいいのだが、当時まだクソ真面目で嘘のつけなかった私にそんな発想は存在しなかったのである)
それでも、なんだか悪いな……と思いなかなか言い出すことができず いよいよ困り始めた時、突然背後から声が聞こえてきた。先ほどベーグル屋さんで会計をしてもらった職人さんだった。
「お店の前でそういうことはやめてください」と、その方はおばさんに向かって厳しく言い放った。怯んだおばさんは、何やら言い訳じみた小声を発しつつ、そそくさといなくなった。
呆気にとられている私にも、「ああいうのからはちゃんと逃げなきゃいけないよ」と諭すように声が響く。「あ、ありがとうございました……」と絞り出すように言うことしかできなかった情けなさと、ここまで色々なことが起こりすぎたせいで 頭がすっかり回らなくなっていた。何も考えられず、無心になって 静かな道路に自転車のカラカラという乾いた悲鳴を撒き散らしながら、全速力で家に帰った。
その後のことはあまりよく覚えていない。だが、ものすごく心を痛めたことは忘れられないのだ。
あのおじさんは解っていた。解っていながら、私の意思を尊重し、こちらに判断を委ねてくれたのだ。困っていれば助ける、同意の上なら口を出さない。あまりにも理想的な、大人の在り方だった。私はそんなことなど何も知らず、向けてもらえた親切心を棒に振った。
今でも謝りたいと思う。お礼を言いたいと思う。それが叶うのならば。
あの痛みを伴うやさしい笑顔の理由が、今ならわかる。
「やさしさを享受する側は、それがやさしさであるということを知っていないと やさしさとして認識できない」
それに気付いたのは近年である。私はきっと感情を正しく認識できずに、一体どれだけの人のやさしさを棒に振ったのだろう。考えれば考えるほどに苦しい。情けない。申し訳ない。
だから決めたのだ。この世界に一体どんなやさしさがあるのかを知っていきたいと。知らないままでは、この先もずっと後悔を繰り返すだけだ。それは嫌だ。多くのことを知るための努力をしなければならないと思った。
私自身はやさしい人にはきっとなれないだろうけれど、やさしい人に感謝できる、やさしい心をきちんと受け止めて その気持ちを無駄にせず、大切にできるような人になりたいと願う。
2013年12月11日午前 私を助けてくれたやさしいおじさん
何もわかっていなくてごめんなさい。本当にありがとうございました。