ホール・ニュー・ワールドが踊りたかった
私がまだ幼稚園に通っていた頃の話だ。
その園では、毎年冬になると、近所の小さな市民ホールで発表会が行われていた。
一年に一度の大イベントで、週末に行われるそれには家族や祖父母までもが集う。ホールの後ろ側、高い位置に三脚を立て、ビデオカメラを回すお父さんたちの図は名物と言っていい。その誰かのお父さんの横をすり抜けて移動するのが、なんとなく好きだった。
発表会シーズンになると、毎年決まって年長組は 男女別にそれぞれ数人のグループ(その年ごとにブレはあるが大体1グループ4〜7人ほど)に分けられ、それぞれ担当曲と振り付けを与えられる。
というか、おそらく順番は逆で、担当曲・振り付けに見合った人材が、その枠に割り振られる。
5〜6歳では、まだ発達の個人差が大きいからであろう。ゆったりとした簡素な振り付けの曲から、すばやく緻密な動きを要求される難易度の高い曲まで、そこには誰もはっきりとは口にしないが、確かにランクが存在していたように思う。
そして、ほとんどのグループは男女ごとに分けられていたが、ある1グループだけは男女混合の形を取っていた。
それはどの年であろうと絶対的にブレない、ランクのいちばん上。この幼稚園におけるヒエラルキーの頂点。選ばれし者のみが勝ち取る演目。
その名をホール・ニュー・ワールドという。
私は元々の気質として完璧主義なところがあり、年齢に見合わないことであろうと、自分がやりたいと感じたことはできるようにならなければ許せないたちであった。
そんなことまだできなくてもいい、できるわけがないと親に叱られながらも、悔しくて泣きながら一人で練習を重ね、結局できるようになってみせる。そういうタイプの超努力型優等生だったと思う。
唯一の男女混合グループというだけで、6歳から見ると とても大人っぽさ、他にはない特別感が凄まじかった。もうすぐ小学生に上がる年長組だけに与えられる権利、憧れの演目。勝ち組の象徴。
当然私も選ばれることを夢見た。
勝ち負けというより、単純に憧れだった。今も昔も変わらずとことん夢見がちロマンチストなのである。
ちなみに当時から、ディズニー関連作品は見聞きする機会がなく、特に興味も引かれなかったため、この曲の出処も元の作品もなにひとつ知らなかった。ただただ純粋に音楽からロマンを感じていた。
やりたいと思ったことができないなんて、きっとそれまで経験がなかった。ロマンはすべて努力で掴んできた。
だから当然、できるはずだった。
例年までの傾向を見るに、ホール・ニュー・ワールドの演目には、周りと比較して大人びている子が選ばれていた。身長が高めで、お兄ちゃんかお姉ちゃんのいる、物怖じしない子。所謂モテる子と言ってもいい。
私は長子だった。父も母も長子で、兄や姉のような存在はなかった。
生まれつき小柄で、繊細だった。
口下手で、人見知りだった。
結果として、ホール・ニュー・ワールドのグループには選ばれなかった。
(自分の体感として)その次点のレベルに相当する、むしろそちらよりも個人レベルでのダンスの技術が求められるグループに振り分けられた。
(ホール・ニュー・ワールドに求められるのは「ペアの相手に合わせられるコミュニケーションスキル」なので、求められるものが違う。)
その時初めて、努力ではどうにもならないこと、自分の力の及ばないこと、理不尽さやどうしようもない悔しさを感じたように思う。体感として会得したのである。
悔しさとやるせなさを抱え込んで、私は踊り狂った。与えられたダンスを完璧に、完璧以上に踊りこなしてやると必死になって、一人どこまでも、何度踊っても毎回完璧以上の結果を出せるまで、練習に明け暮れた。
発表会当日、私は当たり前に、完璧以上の結果を出した。ステージのライトは眩しかった。拍手が聞こえた。悔いはない。
ただ、そのいくつか後に行われた、ホール・ニュー・ワールドの演目に向けられた拍手の音が、うんと遠かっただけ。それだけだ。
私には弟が二人いる。
上の弟とは4歳差なので、弟が年長組である6歳、そして私が10歳のとき。
私がかつて通っていた 同じ幼稚園に通う弟にも、その時は来ていた。
発表会シーズン。4年経とうと、あのランク付けシステムはなにも変わっていないようだった。
そして、あろうことか弟は、あのホール・ニュー・ワールドグループに選ばれたのだ。
私には弟がとてものんびりしているように見えた。ホール・ニュー・ワールドに対しての拘りも、ランク付けされることへの執心も何も感じていないようだった。私はあれほど大きな感情に振り回されたというのに。
弟は何食わぬ顔でその枠を勝ち取り、何事もなく女の子とペアを組み、発表会では当たり前に踊ってみせた。
男の子の世界はゆるい。それはその時、なんとなく感じた。それとも、私は10歳の目線を基準として弟を見ていたせいで、のんびりしているように見えていただけで、もしかすると6歳の世界では大人びているほうだったのかもしれない。
年上の兄弟がいるから。
私にも上がいたならば、ホール・ニュー・ワールドを踊れたのだろうか?
そもそも、そんな拘りすら抱いていなかったかもしれない。それはきっとまったくの別人だ。この問いには何ひとつ得られるものはない。
今考えると、6歳の幼さにして、大人の選んだ結果に意義を申し立てず、選ばれた者に当たることもせず、ただ悔しさを噛み締め、自分の与えられた役割を完璧にこなす努力ができたというのは、(私が都合のいい記憶の改竄をしていない限りは)とても素敵な才能だと思う。
確かに今でも、そういう人間だと感じるところは多い。
あの「ホール・ニュー・ワールドを踊れなかった」という深く傷付いた経験から、完璧主義はだんだんと薄らいだ。そしてその2年後に訪れるストレス性の身体症状により、完璧どころか当たり前の生活すら送れなくなることで、そんなものは手放さざるを得なくなった。
今はもう、できないことが当たり前だ。社会生活も当然できなければ、日常生活すらもたまにままならない。今の私にとっては、それが認めざるを得ない現実なのだ。
悔しさや苦しさ、劣等感で潰れた私は死んだ。いまここにあるのはただの燃え滓だ。完璧主義をほんの少しでも残した心はとても現実に耐えられなかった。
もう劣っているとか、できないことが悲しいとか、そんなことは何も感じられない。諦観という命綱が、ほんの僅かすれすれで私を生かした。
だけども、それでも、6歳の自分が確かに持っていたあの高貴さは、誰にも見せることなく一人戦い抜いた強さは、そしてそれを胸の奥に秘めて、月日が流れた今でもすぐにあの感情を体に乗せることができる、この強すぎる感情による強い強い原動力は、いまでも確かにここにある。
抗いようもなく、それだけは確かだ。
あの日のステージライトがまぶしい。
きっとまだ私はステージを降りていない。たぶん永遠に、降りない。
一年前に9割ほど書いて下書きに温めていたものを、すこし加筆して出してみました。
私が性別に強烈な違和感を感じ始めたのは10歳ごろだと記憶していて、それ以前も、物心ついたときからあったようにも思うのですが、この演目に関してはなぜか(まだ?)そういった面では何も感じていなかったどころか憧れですらあったようです。面白いですね。
今だったら決してやりたいとは思いません。でも楽曲自体はやはり、ロマンを感じて大好きです。耳から入るタイプなので。