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献血に行けない
「血液が足りていない」
「将来血液が圧倒的に不足する」
「献血へのご協力をお願いいたします!」
よく聞く。見る。
そのたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私は献血には縁がない。
体重が40kgに満たない時点で、スタート地点にすら立てないのである。
それに加えて失神常連者だし、注射で失神するし、常に体調不良だし、貧血だし、常時薬を飲んでいるし、もう献血ができない人の条件満たしまくりのオンパレードである。逆優良物件にもほどがある。いや訳あり物件かな……。
むしろ私にとっては、献血ができるような健康な体というものが想像できない。それを手に入れられたならどれほど幸せなのだろうか。何だってできてしまいそうな気がする。事実、きっと何だってできる。
私は人の役に立てることが好きで、自身に無理のない範囲でできるだけ力になりたいと思う。見ず知らずの誰かであっても。
元々貧弱だった体がさらに弱くなってしまってから、できないことが増えた。頑張りすぎると自身が弱って、周りに迷惑をかけてしまう。結果自分第一に生きざるを得なくなる。所謂「自分のことで精一杯」状態。
しかしこれは自分の経験によって出した結論である。
「誰かのために頑張りすぎて弱って、自分のこともままならなくなり周りに迷惑をかける」よりも「最初から自身のやるべきことに力を注いで、自分のできることだけを精一杯やる」の方が、遠距離から見ると誰にとってもいちばん負担が少なくて済む。
もちろん最初は躊躇った。というより最初のうちは相変わらず人のために動いていた。そのうちに何度も心身を壊して、だんだんと学んでいった。こちらの方が誰の負担にもならないと。相変わらず躊躇いはあれど、仕方のないことだとようやく割り切れた。
献血も同じことである。しかも献血の場合は基準と目的が明確であり、献血する側の人と輸血される側の人、お互いの健康を守るため、あらゆるリスクを少しでも抑えるために厳しい制限が設けられている。
わかっているのだ、それは当然そうあるべき基準であり、それを満たさない者は協力者にはなれない。部外者だ。残念ながら。
だけど、
「献血へのご協力をお願いいたします」
お店の前に停まった献血カーを見るたびに、苦しくなる。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。どうしようもないことなのに。これだけはまだ割り切れていない。
誰に責められるわけでもないのに、ごめんなさいと、心を痛めながら献血カーの横を通り過ぎる。痛みが走る。
きっと、同じ思いをしている人は私以外にもいる。自分を許してあげてほしい。そして私も、自分を許せるようになりたい。
誰の力にもなることのできない、生きることで精一杯な弱い自分を。
部外者なりに、ほんの少しでも協力できればと思い、この言葉を最後に。
条件を満たせる健康な方は、献血に行くと誰かの助けになることができます。それはとっても素敵なこと、私にとっての憧れです。
なのでぜひ。献血に行ってください!
私は別の方法で、ひとを助けられる方法を見つけます。きっと誰かを助けられるようになります。
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