社会的弱者が社会に対しての感情を忌憚なく書き出す
はじめに
私は弱い。とても弱い。
一日の半分かそれ以上はベッドの上で過ごすしかない。
そんな生活がもう6年は続いている。
外で働けば救急搬送される。
本当は自立して都会で暮らしたいが、そんな金銭的余裕はない。
結果、山奥の実家で社会から隔絶されて密やかに生きている。
それが私である。
以前は自分の感情をこまめにアウトプットできていたが、ここ数年はそれを怠っていたように思う。私にとってその感情は都合がよくなかったからだ。
けれど、もうそろそろ限界らしい。
これから記す感情は、確実に自分を傷つける。加えて、同じように苦しんでいる人たちをも傷つけてしまう。それがとても嫌だった。出力してしまえば認めざるを得なくなるから。
けれどもう、どうしようもないところまできてしまったので書くしかない。
同じような境遇にある、もしくは何かしら苦しんでいる方で、心を労りたい方はこの先をおすすめしません。こころだいじに。私は誰も傷つけたくはないので。
※ 割と脈略のない自分による自分のための文章です。出力してすっきりしたかっただけです。
弱者の努力
社会と隔絶されて生きているからこそ、常に自身の価値観や考えを疑い、最新の状態にアップデートできているか、感覚が正しく共有できているかを確かめなければならない。そう思って過ごしてきた。
ただ生きているだけでは社会はなにも見えないから、そこに生きる人たちの言葉を自分の中に集めて、噛み締めて、なにが本当に大切なのかを見極めなければならないと常々考えて実践している。
当然この身と環境では、それをするにはネットに頼るほかない。
しかし、ネットはあまりにも広すぎる。無法地帯が過ぎる。
そんなの現実世界だって同じだけれど、少なくともこの山奥にいる限りは違う。0か300かみたいなものだ。
しかしやるしかないと考えていた。実際に何年も続けてきた。結果が今のこの状態である。
見なくてもいいものまで見えすぎてしまった。考えすぎてしまった。自分の感情に、また蓋をした。
足枷より愛をこめて
無法地帯インターネットにて、繰り返し目にしてきた話題、もしくは自分の中で行き着いた質問がこれだ。
国にとっての足枷。納税もできない、使えない社会的弱者は死んで淘汰されるべきなのか?
それは決して違うと声を大にして言えるのだが、ほんの少しでもそれを受け入れようとしてしまった自分が罪深くて悲しいのだ。
今の弱者が消えたところで、次点の層が弱者に代わっていくだけ。
そもそも弱者でなくても今の日本は生きるのに限界の状態。
現在の環境が弱者を弱者たらしめているだけであり、時代や環境が変われば弱者ではなくなる可能性。
だから淘汰される必要性はない。
そんな意見もたくさん見てきた。
私の中に未だ答えはないけれど、そうだと思いたいという感情は確かにある。
社会は強い人間、多数派が力を持って動かしている。
私ほどの弱者ではなくとも、生きづらさを抱えてなお社会生活を送っておられる少数派はたくさんいるということも知っている。尊敬の念が絶えない。
もちろん、多数派にあって懸命に生きている人たちのことも、そのすべての人を私は尊敬している。
しかし、文化や芸術と言ったものは、おそらくは少数派が主となって発展してきたのではないかと思っている。そこからしか生まれないものを、おこがましいとは思いつつも、確かに知っている。
多数派が楽しんでいる音楽も、映画も、本も、生み出すことができるのはきっと少数派の人々だ。
そうだと思いたいのだ。
それを失っては、決して生きていけないのだ。人間として。
少数派を、弱者を排除した世界には、人間らしい充実した生活は、きっとない。と思う。少なくとも私は。
だからこそ生きる権利がある。守られる術がある。
そんなものなくたって誰しも生きる権利はある。が、私自身を納得させるには、この筋書きがいちばんやさしいのだ。
私は長年浸かったインターネットの海に毒されているだけで、きっと何を成せなくたって、人間は自由に幸福に生きていい。
そう、心の底から信じたいと思っている。
(追記:いきなり個の話から全の話になってしまった上、弱者と少数派を同列にして書いてしまいましたが、決してその通りではないということは重々承知しております。)
不安と願い、ちいさなせかい
長年ネットの海を彷徨い続け、休むことなく思考を続け、疲弊し絶望した私には、
やるべきこと、やりたいこと、やらざるを得ないこと、ほんとうに望むこと。
それがわからなくなってしまった。
唐突な話になってしまうが、実は、現在進行系でyoutubeチャンネルを立ち上げる準備を進めている。
1本目の動画は9割方完成している状態だ。
弱者からの弱者らしからぬ発信の場として大々的に運用したく、長い時間をかけ地を整えてきた。
しかし、本当にこれでいいのか、わからなくなってしまったのである。準備はしばらく滞った。
確かにやりたくてやっていたはず。でもやるしかないから。やらなければならないから。生きるために。
でも、弱者が大層なことを言っても多数派に叩かれるだけかもしれない。大人しく淘汰されていろと。
そもそもやる前から大々的になんて言ってしまえる自信がどこから来るのか。
いざ直前になってくると、そんな恐れや迷いが生じてしまった。弱い。
不安に苛まれる中で、自分が本当に望んでいたものとはなんだったのだろう。とふと考えることがあった。
私のほんとうに望むものは。
ちいさな世界で、ほんのすこしの距離のひとと、てのひらにおさまるくらいのちょっとのしあわせを、たいせつにたいせつに育ててこころにおさめていくような、そんな生き方だった。
常に一人でも多くの方にしあわせになってもらいたいとずっと考えてきた。弱いくせに。
多くの人の暮らしを知って、多くの人の役に立ちたいと。
それが、出過ぎた真似だったのかもしれない。
もっと小さな世界に目を向けて、ほんのすこしのしあわせで、十分しあわせになれるはずなのに。
ネットは不用意に世界を広くしすぎてしまった。
広い世界を生き抜かなければ、生きていくことが難しくなってしまった。
ほんとうは、ちいさくても、弱くても 生きていけたならいいのに
人間そんなにあまくない 知ってる 夢を見ているだけだ
そんな世界になればよかったのにね
現実的には。
どんなに小さくてもいい、自分の居場所さえあれば。
そこが自分の居場所だと思えるのなら。
誰かの居場所になるために、自分の居場所をつくるために。
自分の心を見つめ直して、そう思えたから、準備してきたチャンネルの準備を再開した。
弱くても、小さくてもいいと思いたい。
結論
特に言うことがない。
言いたいことはここまでで全部言い尽くしてしまった。すっきりした。
ネットの意見を見るのはやめて、客観視は忘れないようにしつつも、広い社会よりも隣のひとをたいせつにできる生活をしていければいいよねという話。
自分の感情を忘れたくない。本当に大事なことを。
どこまでも弱いけれど、弱さを否定することなく当たり前に受け入れつつも、もっと強くなりたい。せめて自分で生きていけるくらいには。
強くなります。弱いままで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。