なんでもいい、「あなたの言葉」が聞きたい
中学校の頃の「平和学習」は、なんだかちょっと寂しかった。
平和学習と言っても一年に一回くらい(たぶん夏頃に)戦争に関連した映画を全員で見るくらいだったと思うけど、映画が終わって突然明るい廊下に戻った時に、「うわー次数学じゃん、たいぎー」「あ、宿題しとらんかも」「やばー」みたいな、さっきまで見てたものが無かったみたいに日常に戻るのがしんどかった。
心でも頭でも処理しきれなかった映画の感想やその混乱具合を、隣にいる友達に共有する勇気がなかった。そのままうやむやに感じたことが消えていくのも、誰にもそれを共有できないのも寂しかった。
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今年に入って、小学生・中学生・高校生と、修学旅行や平和学習の一環で平和公園にやってくるひとたちを受け入れることが増えた。
一方的に何かを伝えるんじゃなくて、感じたことを一緒に話す時間を作りたい。いわゆる「ガイド」というよりも、一緒に学ぶ(そしてもやもやする)仲間になろうぜ、という感覚で接しようと模索中だ。
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彼らの反応は様々で、時に私はどう答えようかなと逡巡することもある。
案内も終盤になったころ、「原爆ドームってあったほうがいいと思いますか?」と神妙な面持ちで質問してくれた中学生。
振り返りの時間に「アメリカは原爆を落としたことは許せないけど、それがあったからこうやって学ぶ時間がある、ということには感謝している気持ちもある」と戸惑いつつ言った小学生。
自分ごとになった?と聞いたら「知らないこともたくさんあると分かったから、今日はまだ自分ごと6割です」と厳しめの数字を答えた中学生。
自分が書いた感想を「見せたくないので見せないです」と意思を持った目で伝えてくれた小学生。
小学生とか中学生とか、答えのない問いを重ねられる仲間だ、ということに年齢は関係ないんだなとつくづく思う。これらの問いや意思にどう反応したらいいんだろう、ということにもまた正解はなく、私もまた日々葛藤を繰り返している。
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「平和が大切だと思いました」という言葉が苦手だ。
この言葉自体に何の罪もないけれど、この言葉の中身がどう詰まってるのかはこれ単体じゃよくわからない。あなたのいう「平和」ってなに? どうして大切だと思った? 大切にするってどういうこと?
たぶん答えは本当に百人百色だ。だから「もっと知りたい。もっと話そう。あなたの言葉を聞きたい」と思う。
私もまだまだ修行中の身だけど、いわゆる「よくある言葉」の奥にある、そのひとの心にどれだけ近づけるかなあ、そして私もどれだけ心を開いていられるかなあ…。
中学の頃の私みたいな誰かに、「寂しくない平和学習」が在りますように。一回一回、仲間と一緒に、大切につくっていこうと思います。