さくらももこさんが染み付いている
さくらももこさんの訃報を知ったのは、
ちょうど、我が家のある東京都新宿区が雷で荒れていたタイミングで、
あらあら落雷しまくってますね、なんて思っていたら、
訃報の衝撃でわたしも雷に打たれたようになってしまった。
この世の終わりかと思うほどの荒れた天候を真っ暗な部屋で眺めながら、
エーーーーーーーー!!!としか言いようのない気持ちでいた。
さくらももこさん、というかちびまる子ちゃんとの出会いは幼少期、
美容院を営む我が家の客待ちコーナーに並ぶ漫画のひとつだった。
(もうひとつは「クレヨンしんちゃん」)
「ちびまる子ちゃん」の新刊が本屋から届くたびに
こっそりリビングのある2階に持ち上がり繰り返し読んだ。
わたしにとってさくらももこさんは、ほぼ、まるちゃんだ。
中学生、高校生、大学生と成長しながら触れたのは、
永沢くん、神のちからっこ新聞、ひとりずもう、コジコジ。。
エッセイはもしかするとちゃんと読んでないかもしれないな。
風邪をひいて寝込んでいたときに、
母親が「たいのおかしら」を買い与えてくれたけれど、
(なんで今活字…)と思った記憶があるからきっと読んでいない。
一昨年は横須賀美術館でやっていたさくらももこの世界展を見に行った。
展示でいちばん笑ったのは、たしかちびまる子アニメの原稿で、
町内会の役割を押し付け合う近所のおじさん夫婦の会話。
こんなにもなにげない会話なのになんでこんなに面白いんだ、と感激した。
まるちゃんは決して大それたことはしていない。
つらいけれどもちゃんと朝起きて登校し、
学校で起こる些細な出来事も見逃さず首をつっこんだり、
そして巻き添えをくらったり、
たまちゃんや友蔵と暮らしの中のなにげない美しさや可愛さを喜んだり、
そうやって毎日をけっこうがんばって生きている。
そのなかで、彼女のズルさや言葉のセンス、情けなさ、容赦なさ、
純粋にいいものに感動する姿、しつこさ、行動力、なんかを、
自分の分身くらいに吸収しがら成長してきた。
まるちゃんと出会ったころ、
おそらく同じくらいの年の女の子だったわたしは33歳になった。
いまだに小学生のころから変わっていないなと思うことが多々ある。
夫とゲップの大きさを競ったり(負け続けている)、
犬や金魚に話しかけたり、お好み焼きを失敗して死ぬほど落ち込んだり。
そういう毎日をちゃんと必死に、楽しんで、
あと納得いかないことにはちゃんと怒って、
表情コロコロ変えながら生きてるかんじ、
ベースはまるちゃんの中にあったのかなあ、なんて思う。
53歳はお若い。
今はあまりにもさみしい。
でも彼女の生み出したキャラクターや作品はずっと生き続けるのだ。
わたしはそれもちょっとさみしい。
同時にすごいことだなと思う。
「なにもいらないから漫画家になりたい」と泣いていた少女は
今どんなふうに感じているのかな。
あなたの生み出した子たちはものすごくたくさんのひとに愛されています。
頭と心に染み付いてぜんぜん取れないくらいです。
あーあどうかおもしろおかしく感じていてほしい。
たくさんありがとう。安らかに。