18歳の僕へ。 28歳を迎えて(1)
2019年5月25日。
僕は、28歳になった。
今から10年前の5月25日。
18歳の僕は、大好きだった彼女と別れ、心にポカーンと穴が空いていた。
当時高校3年生の僕は、毎日サッカーに励みながらも、頸椎を怪我して再起も難しく、絶望の真っ最中。
「なりたい自分」や「やりたいこと」もわからず、人から嫌われることに怯えながら、平々凡々、悶々とした高校生活を送っていた。
10年後の今、僕はShare Re Greenという団体の代表をしている。
まだまだ動き出したばかりで、何も結果は残せていないけれど、ちょっとした夢や目標はある。
大好きな地域や国があって、全然稼げてはいないけれど、最低限の仕事は得られている。
いろんな人に助けてもらって、幸せに生きている。それは胸を張って言える。
28歳の誕生日を迎えて、10年単位で人生を振り返った。
そしたら、無性に18歳の自分を励ましたくなった。
決して不幸せではなかったけれど、未来に漠然と危機感を抱いていたあの頃の自分。カッコつけてた自分。見栄を張っていた自分を。
まず、君に伝えたい。「これからの人生は少なからず平坦ではないから覚悟しておいた方がいい。」
ここからは、成功(定義はわからないけど)もしていない、何も成果も出ていない僕の10年間の話だから、長いし、興味ない人は読まない方が良いです。
東洋大学に入学、溜まっていたものが爆発
なんだかんだ進路には悩み、東洋大学を受験する。
理由は、色々とお世話になった副顧問の先生が東洋大学の出身だったという単純なこと。
結果的に東洋大学は合格する。
東洋大学に進学してから1ヶ月、早くも大学に馴染めず、ヒッチハイクの旅に出る。というか、鹿児島のおじいちゃんに会いたくなって、でもお金がないから仕方なくヒッチハイクするしかなかった。
その旅から大学に復活するその日の朝、大学の門の前で某旅行会社のスタディツアーの冊子をもらう。その中の、「カンボジアの地雷撤去した小学校に遊具をつくる」という活動にものすごく魅かれ、参加費の21万円を稼ぐために、大学に通いながらトビ職のバイトをする。
でも、結局振込期限までにそのお金は集まらず、めちゃくちゃ凹んだ。
「なんで”良いこと”しようとしているのに、お金が理由であきらめなくちゃいけないんだ」という怒りから、自分で始めることを決意する。
意を決して、大学の数少ない友人に声をかける。
↑※お世話になった人の名前を書き始めたらキリがないからこの後も個人名は伏せていくけど、あえて小山裕也、相澤宥人、小林夏実に一番はじめに声をかけたことだけは伝えたい。本当に、ありがとう。
そして、若者団体Shareという、いわゆる学生団体を結成。
こっから全部始まった。人生が狂ったんじゃない。自分の人生が正常になったんだ。
喧々諤々を重ね、「笑顔の連鎖」という理念を掲げ、東南アジアのラオスという国の小学校を改築するという活動内容に決める。
当時、学校を建てるという活動が流行っていた。容易だった。
「ラオス」という国には馴染みがあるよね。君が小学校5年生の時、たまたま来日していた同世代のラオス代表が近所でホームステイしていて、一緒にサッカーをして遊んだ。
その時は何も知らなかったけど、大学生になって改めてラオスという国を調べてみたら、とても経済的に未発達な国だった。でも、なぜか国民の幸福度は高いらしい。
経済学を勉強している僕にとって、「経済活動は効用(≒幸せ)を高めるためにおこなう」と教えられていたから、強烈な違和感を憶えた。「え?貧乏なのに幸せなの?」って、とても純粋に。
ここまでは、国際協力活動を始めた“ちょっとキレイな”理由。
ぶっちゃけ、誰かに必要とされたかったのが本当の理由。
当時、サッカーも辞め、バイトもクビになった僕は、とにかく誰かに必要とされたかった。
そんなときに、スタディーツアーの情報を見て、「日本では必要としてもらえないけど、発展途上国なら、日本人ってだけで必要としてもらえるんじゃないか」って、卑しい気持ちが湧いた。これが本音なのかもしれない。
そんな矢先、2011年3月11日。東日本大震災。
東日本大震災を決して無駄にしてはいけない
まさに未曾有の大災害。
テレビを見て、衝撃を受けた。同世代の方はわかるかもしれないけれど、「ここで動かなければたぶん一生後悔する」と思った。
そこで、メンバーに声をかけ、さらにそれぞれ友達に声をかけ、大宮駅で早速募金活動をはじめた。
2日目のお昼、一人の大学生が声をかけてくれた。まさに顔面蒼白。彼は、仙台で被災し、父の単身赴任先の埼玉に避難してきていた。
次の日、セミナールームを借りて、彼から現地の情報を参加者に伝えてもらった。まさに壮絶だった。
その話は参加者の結束を固め、総勢86名の大学生&同世代があつまり、毎日必死に動き、それなりの金額が集まった。その後すぐに現地に行って観たあの景色は忘れない。
震災の活動に一区切りをつけたあと、改めてラオスの活動をはじめる決断をした。そのときの参加者のうち、16名が引き続きラオスの活動にも共感し、メンバーになってくれた。
これは、一生の宝を授かった瞬間だった。
いまも心の中にある、あの景色、あの日々、あの情熱。
僕は絶対にあの大災害を忘れない。この激動の日々があったからこそ、いまの僕がある。そんな僕のような人間が動き続けることで、震災を無駄にしない。それくらいしか僕にはできないし、それくらいなら僕にもできる。
はじめての「ラオス」 19歳の僕
まず僕は、何よりラオスに行ってみないとダメだと思い、小山裕也とともにラオスへ行く。初めてのラオス。むしろ初めての海外。
いまでも、あの初めて空港に降り立った時の感動を覚えている。
匂いも、言葉も、音楽も違う。
でも、なんとなく、ビエンチャンのワッタイ国際空港の周りの景色は、鹿児島空港に似ている気がして、親近感を覚えた。
この旅の目的は、NPO法人国際学校建設支援協会様が現地NGOと協力してみつけてくれた、僕らが小学校を改築する、フォーサイ村を訪問すること。
いざ現地に着いてみると、当たり前だけど勝手が違って、現地に行くまで四苦八苦。準備不足を思い知らされたし、色々とわがままを言ってしまって、今となっては反省の多い第一回目の視察でした。
でも、そんなにたくさん行きたくなるくらい、僕はラオスという国、フォーサイ村という地域が大好きになった。
農村らしい農村。人と人のつながりの強さ。無条件な優しさ。村の子供たちの未来に対する真剣さ。美味しいご飯。おもてなし。なにより、子供たちが可愛くて可愛くて...。
たぶん、この初めてのラオスではなんとなくしか感じ取れなかったけど、こういう農村的なつながりの強さを、僕は心の底から欲していたんだと思う。
僕は早い段階で、自分たちがしていることの小ささを感じていた。それは、数字的な小ささではなくて、視野の狭さに似ている感覚。
僕らは、フォーサイ村に対して何かしてあげている以上に、学ばせてもらっていることの方がたくさんある。
その学ばせてもらっていることを概念化して、日本の地域社会に還元したい。
そう思い始めた。たぶん3回目に行ったときにはその気持ちが明確になっていた。
はじめての「代表」
僕はこれまでの人生、代表とかリーダーという役割には無縁だった。
でも、言い出しっぺだから、やっぱり僕が代表になった。
初めての経験だからというのは言い訳にならないけど、正直、散々だった。
「おもい」はあるけど、何も持っていない。
マネジメントもわからなければ、マーケティングだってわからない。ブランディングも、なにもかも。
そもそも、人間的に幼かった。※「今もだろ」というツッコミは勘弁してください...。
自分の理想はあるけど、緻密さがない。大風呂敷を広げては静かに畳むような日々の繰り返し。もちろん、成果なんて出ない。
これは、「はじめの頃」なんてことではなくて、若者団体Shareの運営を通して、全てそうだったと、いまも内省を繰り返している。
結局、何も持っていないくせに、プライドが高かったし、見栄を張っていたんだ。なにか「できている」と思い込んでいた。
僕は今もフォーサイ村に通い続けている。
「学校というハードをつくることが目的ではなくて、そのあとのソフトが重要なんだ」という大風呂敷を広げていたから。
たった一つでも、メンバーのみんなとの約束を守りたくて。
この約束だけは守り抜きたい。
活動をはじめて、僕は少し強くなった。そして図太くなった。
はじめは、地元の友達や大学の友人から、「偽善者」と言われるのが怖かった。中には、「宗教でもはじめたの?」「教祖様!」とからかう人もいた。(いまとなっては、宗教も勉強したからある程度理解しているけど、当時はそれがひどく怖い言葉だった)
でも、途中から、吹っ切れた。これはもしかしたら、人生で一番強くなった瞬間かもしれない。
幼い頃のトラウマがあって、それまでの人生、人から嫌われることを避けて生きてきた。でも、このとき、「そういう人からは嫌われても構わない」と初めて思えたんだ。最高に楽になったし、強くなった。
ここまでが、20歳の頃までの僕。
この2年間だけでも、小さくない変化があった。
そもそも、表面的な自分のことが「大嫌い」だった。それが、「ちょっと嫌い」くらいになった。
20歳以降のことは、改めて書きつづろうと思っています。
もしよろしければ、読んでください。