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楽描き「まったく、一体、どうして。」

なんべん繰り返しても目的地までの辿りつき方を忘れてしまう。そんなものが、私にとっての「もの作り」だ。曲は14歳から、たくさん作ってきたし、数年前にはnoteで「東京地下2階」という長編小説を書いたり、短い物語を書いたりしてきた。それでも、毎回作り終えた直後こう思う。「あれ、これってどうやって作ったんだっけ」と。

この感覚をわかりやすく例えると、あなたが何度か通ったことのある料理屋があるとする。その店は閑静な住宅地にポコンと神様のいたずらでそこに落とされたような店で、「だいたいここらへん」というのはわかるのに「あれ、どこで曲がるんだっけ?」とか「もうそろそろ辿り着けるはずなんだけど」とか毎回行き方を「忘れてしまう」。そうして、住宅地の真ん中で呆然として不安げにちょっとそこらへんをいったりきたり。最後にはGoogleマップを開くことになるのだ。( ここで厄介なのは、もの作りにはGoogleマップが( 本当の意味では )存在しないことなのだけれど )

2年前の11月「世界に」という曲を作った時もそうだった。数年間ひっかかっていたモヤモヤをようやく掴んでギュッと詰め込んだのが「世界に」だった。だから、その後の私はというと、出し切って「空っぽ」になってしまった。どうやって再び曲を作ればいいのか「わからない」。正直、大変焦った。なぜなら、その時は、12ヶ月連続リリースという挑戦をしていて「世界に」のあと7曲も作らなければならなかったからだ。

でも、こういう時はがむしゃらに絞り出したって無駄なのである。1番の解決策は、「時を待つこと」!ずいぶん投げやりに聞こえるかもしれないが、事実なので仕方ない。失恋だって、友人との喧嘩だって、家族との確執だって、大概「時間が解決」してくれた(そうでないこともたまにあるけど)。そうして、1週間ほど自分を放置してみたところ、残り物をぜんぶ放り込んだ味噌汁を作っている時に「ごはんの曲を書きたい」と思った。そうすると続け様に「それなら、自分のように故郷から離れた場所でひとり、ごはんを食べている人の曲にしたい。」となって「仕事から帰ってきて、一番に呑みたくなるものはなんだろう。」「そりゃあ、ハイボールだろう。」なんて、最後はわたしの嗜好まで盛り込んじゃって‥そうしてできたのが「ひとりごはん」という曲。まさに、締め切りにギリギリの滑り込みだった。

そんなことを、繰り返して生きてきた。辿り着いた瞬間に、辿り着き方を「忘れる」この現象。新しく誰かと出会ったり、見たことのない景色を見たり、はじめての仕事に挑戦したりする中で、わたしは目まぐるしく変化して成長しているはずなのに、これだけは不可避なのである。憎たらしい。憎たらしいのだけれど‥多分、私はこんなことを繰り返してまで、ものを作ることで「繋がりたい」のだと思う。人と会うのが怖いのに。話すのが苦手なのに。引きこもってばかりなのに。「繋がりたい」。この矛盾した行動が、私の思いに餌を与え続け、私を10数年間もの作りへ向かわせてきた。

私の作品にとって、私は神様じゃない。私は、まだこの世界にないものを作る「創造者」ではなくて、まだ繋がれていない人と繋がる想像を膨らまし続ける「想像者」になりたい。言葉が下手でも、歌詞でなら。話すことが怖いなら、物語で。伝えたい風景は(これはまだちょっと自信がないのだけれど)絵で。そうやって、もの作りの手段を変えて、これから先もこの小さな部屋から誰かと繋がれますようにと祈るのだと思う。

昨日、ここ数ヶ月かかりきりだったものが出来上がった。大変な達成感で、お酒を飲み、気持ちよくベッドに潜り込んだ。「どうせまた、しばらく作り方を忘れてしまうんだ」なんて思いながら。しかし、まさかのことが起きた。次に作りたいもののメモが頭に浮かんだのだ。急いで携帯にメモをする。そして、今度こそと思って目を瞑るも、またアイデアが浮かぶ。えー、勘弁してよ。また、メモをした。そんなこんなで深夜の3時を回る頃には、私の携帯にふたつ新しい作品の子供が生まれていた。忘れることを口実に一休みしようと考えていた私は、私によってこんな風に振り回される。そうして、最後には「まったく、一体、どうして。」と言いながら、再び辿り着こうとするのだ。


あとがき
昨日の夜中に書いた文章を、翌日加筆修正した文章です。ところどころ、「もう少し」と思う部分もありますが、ちょっと足りないくらいがいい。そんな気分です。写真は、新宿にて。仕事や打ち合わせにもチェキを持ち出して、パシャパシャしております。さて、4月の末ごろに作品を発表する予定です。「SETAちゃん、こんな風にヒーヒー言いながら作ったのかな」なんてこの文章から想像しながらお楽しみください。それでは、また。

SETA